汎ヨーロッパ・ピクニック

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汎ヨーロッパ・ピクニック(はん -、Pan-European Picnic)とは、ハンガリーで行われた東ドイツ人向けの命がけのピクニックである。

概要[編集]

このピクニックは1989年8月19日に、当時は東側諸国の一つであったハンガリーのショプロンで行われた。ショプロンは三方を西側諸国の一つのオーストリア[1]に囲まれている。主催者はハンガリー民主フォーラムなどのハンガリー民主化勢力、後援はハンガリー政府、ハンガリー内務省、ハンガリーのポジュガイ・イムレ内務大臣(当時)、オットー・フォン・ハプスブルク(オーストリア=ハンガリー二重帝国最後の皇太子)などであった。汎ヨーロッパ・ピクニックが一般的なピクニックと大きく異なる点は、参加した東ドイツ人が解散時に西ドイツ人になっていて住居も変わるという点である。また、ピクニックのコースの最大のポイントは「国境の無断越境」であり、しかも当時は閉じられていたままだった鉄のカーテンを開けての越境であったため、参加者にとっては生命的に、後援者のハンガリー政府にとっては政治的に[2]大変デンジャラスなものであった。しかし、参加者はみな喜んでそれを受け入れた。

行程[編集]

このピクニックには1000人ほどの東ドイツ人が参加し、下記の行程で行われた。

東ドイツ→ハンガリーに到着→ショプロンの国境地帯に集合→政治集会に参加→徒歩でハンガリーからオーストリアへ越境→オーストリアの西ドイツ大使館到着→西ドイツ大使館のサービスにより西ドイツに移動→西ドイツの難民センター→解散

なお、越境時には国境警備隊がガードマンとして配置されており、ピクニック参加者の身の安全が保障されていた。

その後[編集]

このピクニックにより、東ドイツ人の間ではハンガリーを経由して西ドイツにピクニックしに行ったきり、東に帰ってこなくなることが流行った。この際、ハンガリーには西ドイツへのピクニック目的で入国した東ドイツ人が溢れており、集会がめんどくさくなったため、最大の後援者であったハンガリー政府は西ドイツ大使館と提携し、以降は以下の行程のピクニックプランを東ドイツ人に提供した。

東ドイツ→ハンガリー国内に急造された公営宿泊施設→宿泊施設に常駐している西ドイツ大使から西ドイツのパスポートを受け取る→西ドイツ大使館がチャーターしたバス若しくは列車で西ドイツに移動→西ドイツの難民センター→解散

しかし、これに飽き足らず、ハンガリー政府は更に同年9月11日にコースを大幅に簡略化した以下の新プランを打ち出し、それまで許されなかった東ドイツのパスポートと自家用車を使っての越境も許された[3]。なお、このプランは世界中(主に西ドイツ)から好評判を得た[4]

東ドイツ→ハンガリー→オーストリア→西ドイツの難民センター→解散

このピクニックの最大の目的が「西ドイツへピクニックしに行ったっきり帰ってこないこと」であったため、ベルリンの壁が崩壊して東ドイツが西ドイツに統合されることが既定路線となった時点で成功裏に終了した。

注釈[編集]

  1. ^ 建前上は東西どちらにも属さない中立国
  2. ^ 当時はハンガリーにソ連軍が駐在しており、ソ連を怒らせて報復を受ける可能性があったが、ソ連のトップがゴルビーであったためお咎めを受けることはなかった。
  3. ^ 参加者が乗り捨てたトラバントが溢れて大問題になった
  4. ^ その素晴らしさのあまりに西ドイツのコール首相(当時)が泣いたというエピソードもある。

関連項目[編集]


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