明智光秀政権

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本項は第16回執筆コンテストに出品されました。
「ワシを殺すくらいなら、どえりゃぁ根性見せんかっ!禿ネズミ!!」
明智光秀 について、織田信長
「あれは一体なんだったのじゃ?」
三日天下 について、足利義昭
「三日坊主はいけません。」
三日天下 について、オスカー・ワイルド
「まさか、あんなに早く秀吉のヤロウが帰ってくるなんて思わなかったんだもん!」
明智光秀政権 について、明智光秀
「あのせいで夫婦仲が変になっちゃったんだよね…。」
明智光秀政権 について、細川忠興

本能寺の変織田信長を討ち取ってから、その臣下の豊臣秀吉に滅ぼされるまでの明智光秀による軍事政権を指す。俗に三日天下と呼ばれるものの、正確には本能寺の変(天正10年(1582年)6月2日)から山崎の合戦(同年6月13日)まで正確には11日間の期間があった。残虐の限りを尽くしたと伝えられる織田信長を殺した男として天国に行った彼は『“三日”とは何事であるか!』と怒り狂っているらしい。

経緯[編集]

本能寺の変[編集]

詳しくは本能寺の変を参照。

さて、天正10年6月1日深夜、明智光秀は本能寺を目指して丹波亀山城を出陣した。「良いか。皆のものに伝える!!今こそ、この光秀が天下を変える。敵は本能寺にあり!!」と言ったとか言わないとかいう説もあるが、本城惣右衛門という光秀配下の家臣によれば、みんな「京都にいる徳川家康を討ちにいく」とばかり思っていたらしい。ついでに運良く信長の嫡男・信忠も討ち取ることができた。

本能寺の変の頃の武将たち[編集]

その頃、織田信長配下の武将たちは各地で戦を重ねていた。

織田家一番の重鎮とみなされていた勝家くんは利家くんや佐々成政を連れて北陸を平定中だったし、河尻秀隆は武田家の残党ばかりの甲斐平定、滝川一益くんは忍者だらけの上野に苦しめられていたし、秀吉くんは中国平定に向かって援軍を求めている始末だった。三好長康に至っては海までわたって「四国なんてへへへーんとバカでやんの」って感じで、せいぜい一番近くにいる武将は大阪と堺にいた役立たずの丹羽長秀織田信孝だけであったのである。

光秀の政治[編集]

本能寺を滅ぼした光秀くんはとりあえずその足で安土城を取りに向かったが、瀬田大橋を焼かれてしまったので諦めて本拠地の坂本城に帰った。そして近江周辺の武将を取り込むためにお手紙をせっせと書き、筒井順慶京極高次阿閉貞征などを誘惑し味方に取込んだ(のちに彼らに辛酸を舐めさせることになる)。 お手紙を書いた相手は近江周辺の武将たちだけではなく、上杉景勝・前将軍足利義昭・本願寺などから、紀州で国一揆を起こしていた黒人国人にまで及んだ。ちょっとさみしかったのかもしれないね。

5日には瀬田大橋の工事が成功して安土城に入り、近江長浜城も手に入れた。

そうして安土城で7日には天下人気取りで天皇からの勅使に会っており、9日には上洛、正親町天皇などにお金をばらまいている。が、翌10日、秀吉くんが攻めに帰ってきていることに気が付き、「三日見ぬ間の桜」とばかり、大慌てで合戦の支度を始めた。

本能寺の変による混乱と光秀の誤算[編集]

織田信長があまりにも唐突に殺されてしまったために、畿内・美濃・東海地域は一気に混乱に陥り、どうしていいかわからない者が続出した。

織田信澄の場合
信長に殺された実弟(信勝、一般には信行と書かれることが多い)の息子さんだが、たまたま光秀の娘をお嫁さんにもらっていた。お父さんが信長に殺されたにもかかわらず信長への忠誠を誓っていた殊勝な甥っ子だったのに、丹羽長秀織田信孝に勘違いされて、本能寺の変の翌3日、大阪城で殺されてしまった。
細川藤孝の場合
やはり光秀の娘のお玉(細川ガラシャ)を息子・忠興の妻にもらっていた。藤孝は光秀と親しかったものに、息子ともども髷を切り落として剃髪し、お玉を離縁して幽閉したうえ、家督も息子に譲り渡してしまい、光秀と縁を切ることでこの難局を乗り切った。「応仁の乱以来の、絶体絶命の危機じゃった」と細川家では伝えられている。
織田信雄の場合
安土までせめてきたはいいが、なんかうっかり安土城を焼いてしまい顰蹙を買った。彼が「光秀が討ち取られた」と聞いたのはその直後であった。
徳川家康の場合
信長に招かれてたまたま上洛して堺に滞在していた。伊賀越えの難路を這々の態で泣きながら岡崎城に辿りつこうとした。別行動の穴山梅雪は途中で殺されたというから、やっぱり家康は運がいいのだろう。そして鳴海にさしかかったところで山崎の合戦の報を聞き、ラッキーとばかりに権力空白地帯になった甲斐の国を手中に収めた。
濃姫の場合
小説やドラマなどの場合では本能寺の変で一緒に亡くなったことになっている(ことが多い)。しかし子供がいなかったり、途中で父親の斉藤道三が下剋上にあったりなど政略結婚の意味がなくなったためか、はたまたあまりにもたくさんの側室が信長にいたためか影が薄く、本能寺に連れて行ってもらえていたかさえ定かではない。秀吉くんよりも長生きして慶長17年7月9日亡くなったとされている。

そして山崎の合戦へ[編集]

なんと秀吉くんは翌3日か4日には本能寺の出来事を知っていたのだった。超能力でも使ったに違いない。そして毛利と戦闘中だったのに信じられない速さで和睦し、帰ってきてしまった。

11日にはあっさり尼崎に入ってなぜか落髪している。12日、丹羽長秀池田恒興と合流して、天王山付近で前哨戦が始まり、13日には山崎の合戦で勝利してしまう。

光秀は坂本城に帰る途中、山科の小栗栖でお百姓さんに襲撃されて討死してしまった。

まとめ[編集]

手紙を書き続け2日間天下人気取りをしただけの短期政治であった。

しかし秀吉くんにとっては、信長君からの独立、そして次世代を見通せる家臣をみつけることに役にたった。

ちゃんと日本史の授業を聞いていた人たちへ[編集]

本項目は安土時代から桃山時代への転換期を小学生や小学校からやり直さなければならない閲覧者に非常に役立つ記述がされているが、アンサイクロペディアは役に立つ記述だけで成り立っているわけではない。このセクションでは、「なぜ明智光秀は織田信長を裏切ったのか」を日本史上三大の謎に加えている某NHKのように、まるで光秀が負けるとわかっていてただ信長を殺すために本能寺の変を起こしたかのような議論に疑義を呈したい。


浅井長政足利義昭松永久秀荒木村重らも、うまくいけば勝てると考えて信長に反旗を翻したのである(前2人はともかく後2人は完全な見込み違いだったが)。光秀は信長と信忠の殺害に成功したという点だけは、前述の四人よりましである。

各地の反織田家勢力 [編集]

本能寺の変の時点で、多くの反織田家の大名が滅ぼされ、あるいは滅ぼされようとしていたが、原因がどうであれ織田家当主の信長が死んだことにより、抵抗活動を活発化させた。

若狭 [編集]

武田家は代々若狭守護に任ぜられていたが、武田元明の頃、三千石に落魄し、丹羽長秀の指揮下に配されていた。

本能寺の変後の、元明はいち早く光秀方に付き、長秀の居城、佐和山城を落城させた。仮に光秀の天下が続いたとしたら、おそらく元明に若狭一国を与えたであろう。っていうか彼しかいないし。そのままうまく平定・統治できたかは別だけどね。なお、元明の未亡人が、大河ドラマ「江~姫たちの戦国~」で予告編のナレーター役だった京極龍子である。

讃岐・阿波[編集]

長宗我部元親は土佐国司・一条兼定を追放し、讃岐・阿波をも制圧した。信長は十河存保三好康長を保護し、後ろ盾を得た存保らは旧領を回復させつつあった。

本能寺の変後、元親は光秀と結んで存保と康長を撃退した。

元親は山崎の合戦後も生き残り、賤ヶ岳の戦いでは柴田勝家と結び、小牧・長久手の戦いでは徳川家康と結んで、常に秀吉と対抗した。よほど前世の因縁が悪かったのだろう。

結局、元親は伊予も落として四国人による四国統一を実現する。坂本龍馬が、というのではないのだが、土佐藩の坂本家では、光秀の娘婿、明智秀満の子孫を自称していた。土佐では明智氏の末裔は誇るべき家柄なのである。

淡路[編集]

元・岩屋城主の菅達長は光秀方に付き、脇坂安治の居城・洲本城を占領する。光秀の居城は日本海側の丹波亀山城であり、長宗我部元親の居城は太平洋側の岡豊城である。この二人が連携するためにも、山陽道の羽柴秀吉の近畿帰還を妨害するためにも、達長の淡路占領は重要であった。絵にかいた餅も、餅は餅なのである。

秀吉も淡路の重要性は理解しており、山崎の合戦に先立つ6月9日、軍勢を出して達長を雑賀に追放している。

紀伊[編集]

雑賀の土橋重治は、本能寺の変に応じて鈴木重秀を追放し、兄の仇を討った。が、伝説では鈴木重秀こと雑賀孫市が常に雑賀を守り、中央政府に抵抗したことになっている。

高野山はこのとき織田勢の包囲攻撃を受けていたが、僧兵や国侍、浪人などを動員してよく防ぎ、本能寺の変後、撤退する織田軍に逆襲した。死んだ坊主が怖いかどうかわからないが、生きている坊主は怖いのである。

伊賀[編集]

いわゆる伊賀忍者のほとんどは前年の第二次天正伊賀の乱で討ち死にしていたのだが、本能寺の変の報を受け、生き残りの忍者が再び反乱を起こした。だが人よ、名を問うなかれ。闇に生まれ闇に消える。それが忍者の定めなのだ。「サスケ、お前を斬る!」

忍者ではなく、侍の森田浄雲という一之宮城主が、この時乱に加わり討ち死にしたと伝えられている。大久保忠教によれば、伊賀を抜けて三河に帰還した徳川家康は何度も死にそうな目にあったというが、情報源は親父と兄貴の自慢話だからあまり当てにはならない。

近江[編集]

前述の武田元明は佐和山城を占領し、義理の弟の京極高次は羽柴秀吉の居城・長浜城を占領した。しかし2人とも山崎の合戦には参加せず、城に残っている。城を取っただけで人が従うわけではないし、周囲が敵だらけである事を考えれば当然の備えだったのだろう。このように、光秀は前半生に放浪の日々を過ごしたにも関わらず、配下はコネのある地元に配置するのがポリシーなのである。

美濃 [編集]

加治田城主・斎藤利治は信忠と共に亡くなり、二人の息子も幼かったので、弟の利堯が後を継いだ。利堯はドサクサにまぎれて岐阜城を占領した。岐阜城は信長の城だったが、安土城に移ってからは信忠に譲っていたのだ。もっとも光秀に味方する気はあんまり無かったらしく、その後あっさり織田に城を明け渡している。まあ竹中さんの前例もあるし、城を取っただけで人が従うわけはないっていう好例だね♪

ちなみに、それまでの岐阜(稲葉山)城主は全て利堯の父か兄弟か甥なのだが、よく武力によって占領されている。まことに遺産相続問題ほど恐ろしいものはない。

天正8年に信長に追放された、安藤守就が旧領の本田城・北方城に攻め込んだが、仲間の稲葉一鉄に撃退され、一族を皆殺しにされた。極端な青少年層と高齢者層の支持率が高いのが、光秀の特徴の一つである。

尾張[編集]

各地の織田所領では大混乱が起きていたが、尾張ではさしたる混乱もなかった。そのためか山崎の合戦後、信忠に代わる信長の後継者を決める会議が、清州城で行われた。やはり、政治家にはカンバンやカバンよりもジバンの方が大切である。

関係人物・事柄[編集]


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