呂布 (蜀)

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呂布(りょふ Lu Bu リュウ・ブー  ? - 219年?)は、中国後漢末の武将検証厨でもある中華民国の廬弼の『三国志集解補』の註に引く林国賛の光緒期の学者)『三国志裴註述』に紹介されていて、ちゃんとに載ってる実在の人物である。マジです!(だけど、林国賛嫌いの廬弼が蜀漢の呂布の存在を削除しちゃったらしいYO…後述)

例の呂布と同姓同名だったため、色々と苦労したらしい。呂布に立ち向かってはならないが、呂布 (蜀)ならそんなに問題にならない。

略歴[編集]

小さい頃から例の呂布と間違われたり、からかわれたりしていたという。

特に「呂布を倒して名を上げたい」という連中から、不条理攻撃を幾度と無く差し向けられてもいた。よく「呂布を倒した・負かした」という人物がいるが、あれはこちらの呂布をぶん殴って悦に浸っているだけである。劉備やら曹操やら李傕やらが、あの呂布に立ち向かえるわけが無いだろ…常識的に考えて

しかし、こういった不遇の環境によって切磋琢磨され、呂布 (蜀)は武将としても成長していった。その後、その頑張りが認められて関羽に登用される。ヒゲ曰く、「名前が面白かったから登用した」とのこと[要出典]

建安24年(219年)、関羽主催の樊城芋煮会に参加。寒い中集まったみんなと共に、曹仁を囲んで突っついていた。主君の関羽とはだいぶ離れたところに位置どってしまい、ちょっと寂しかったと語っている。(『魏書』「満寵伝」より。本当だよ。)

そのとき颯爽と駆けつけた魔法少女曹操が芋煮を独占しようとして呂布 (蜀)に追突、横転してに転落した呂布 (蜀)は全治10ヶ月の重傷を負ってしまった(同じく『魏書』「夏侯惇伝」に書いてあるんだから間違いない)。

未だ補償がなされていないのだが、関羽がやられちゃったとか何とかのごたごたによって半ばもみ消されてしまっている。本当にかわいそうなことに、その後の『三国志』の『蜀書』にも『魏書』にも一切の記述が無いが、最期は関羽・関平父子と都督の趙累と一緒に運命をともにしたらしい。

また、『三国志演義』に登場する周倉こそ、「関羽の武将の呂布」自身だと、前述の林国賛が述べていることはあまり知られていない。

ちなみに某無双なゲームには名前だけ登場する(周倉とキャラがカブる?)。

かわいそうな呂布 (蜀)[編集]

  • 小さい頃のあだ名は「ニセ呂布」「ゴキブリ」など。立ち向かっても問題なかったため、よくいじめられていた。
  • マケボノに負けた。
  • やわらか戦車カツアゲされた。
  • あの劉禅にカンシャク玉とサジを投げられた。
  • 2ちゃんねるにおいてフュージャネイサンにひっかけられた。
  • 歴史家から存在が疑われており、なかったことにされようとしている。特に清の趙翼・潘眉・陳景雲[1]あたりが眼の敵にしているが、これは自らの力では呂布に立ち向かえない脆弱な史家による言葉の暴力に他ならない。
  • ウィキペディアにおいても彼の項目があったのだが、管理者と称する独裁者によって削除されてしまった。これもまた、自らの力では呂布に立ち向かえない管理者らによる卑劣ないじめ行為に他ならない。無論、あっちの呂布の項目にいたずらするとブチ殺されちゃうのでこっちの呂布でストレスを解消する為である。

脚注[編集]

  1. ^ 彼等は「小説大好きの北宋司馬光(『資治通鑑』の著者)先生が例の「呂布」の存在を肯定する電波系を発揮するから、これを廃絶しなければならない」と述べている。

警告[編集]

呂布 (蜀)をいじめないでください。

Wikipedia
ナニモノかがウィキペディアに「呂布 (蜀)」の項目を執筆しましたが、要出典厨削除厨の暗躍により削除されてしまいました
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