北条高時

出典: へっぽこ実験ウィキ『八百科事典(アンサイクロペディア)』
移動先: 案内検索
Wikipedia
ユーモア欠落症患者のために、ウィキペディア専門家気取りたちが「北条高時」の項目を執筆しています。

北条 高時(ほうじょう たかとき)は、鎌倉幕府14代執権。彼の後に北条貞顕北条守時が執権となっており、最後の執権ではないのだが、後の二人は形式的に、ごく短期間しか執権の任になかった上、嫡流である得宗家最後の当主という立場から高時が最後の執権だと思い込まれることが多い。

鎌倉幕府滅亡時の事実上の北条氏の棟梁であったことと、南朝への贔屓がふんだんに含まれている『太平記』が広く世間に流布したせいで暗君、暴君、ボンクラ、バカ殿のレッテルを張られてしまっているが、実際はとても繊細で温厚な人柄であった。とくに犬を愛し、人間と同等に扱ったことから「お犬様」の愛称で呼ばれていた。お犬様と言えば徳川綱吉の代名詞のように語られることが多いが、高時も綱吉に劣らぬ犬好きだった。

しかし、犬好きだったことが災いして猫が好きな人達から蛇蝎の如く嫌われ、また京都には彼が犬を好み庇護したという話が歪曲されて伝わり、闘犬に耽溺しただの、犬の為に御所を作ったりして人間よりも格上に扱ったので鎌倉の市民の反感を買っただの、高時を貶めるような話に摩り替わってしまい、世間の評価は芳しくない。京都の連中は幕府に限らず武家が嫌いなので、こういうネガキャンじみた話が捏造され、流布してしまうのはある意味仕方がないことなのかもしれないが、その歪曲された高時の人物像が半ば史実として定着してしまったのは問題である。

おかげで高時は未だに暴君、暗君扱いされ、その人物、事績を正当に顧みられることがない。この傾向は高時と同じくお犬様と呼ばれた徳川綱吉にも伺える。そのため、歴史上犬を好んだ君主にマイナスのイメージがつきまとうことに共通性が指摘され、なぜそのような印象が定着するのか研究が進められている。今の所、猫が好きな連中の徹底したネガキャンが奏功したという見解が有力視されている。

生涯[編集]

本来ならば、親父の北条貞時の後を継承して執権となる高時であったが、貞時がハレー彗星をみて、「これは天が、わしにお怒りなのだ」と妄想を勝手に膨らませて出家してしまった。この時にはまだ高時は幼少であったので、貞時のいとこで北条氏の分家である師時が、最初の中継ぎの執権を務めた。やがて成長した高時が遂に14代執権となったのだが、当時の政治は北条氏の執事である御内人と呼ばれる連中によって完全に掌握されていた。その筆頭は長崎高綱(円喜)という奴で、北村一輝が演じたことで知られる平頼綱の一族に連なる出自であった。あの頼綱の血族なのだから、悪人であったのは、想像に難くない。

もう一人、政治を掌握する大物がいた。秋田城介、安達時顕である。平頼綱と対立し、霜月騒動で滅ぼされた安達氏の生き残りである。安達泰盛が霜月騒動で滅び、頼綱も成人した貞時に滅ぼされたことで、安達も頼綱の家系も途絶えたように思われるが、しぶとく生き残っていた。しかもその二人が幕政の頂点に君臨して政治を掌握していたというのだからなんとも因果な巡り合わせである。

実は貞時が臨床にあった時、円喜と時顕を呼び寄せ、ともに幼い高時を扶翼して幕府を守り立てるよう命じた、というエピソードがある。貞時の父時宗も、死の間際にあって、頼綱と泰盛を呼び寄せ幼い貞時を支えて幕府の安定に尽力して欲しいと請願したらしいので、それを踏襲したと思われる。頼綱と泰盛がその後殺しあったのは周知の通りである。ただ、円喜と時顕は、殺し合いこそしなかったが、頼綱と泰盛の路線を踏襲し、互いに足を引っ張り合いながら高時が幼いのをいいことに恣意のままに政務を執行した。なお貞時が亡くなる1か月前に、中継ぎの第10代執権の北条師時が「病死」、その次に中継ぎ執権となった第11代執権の北条宗宣は1年後に「病死」、さらにその次に中継ぎ執権になった第12代執権の北条煕時は3年後に「病死」という「恐怖のバトン」が展開された。高時は幼少なので、長崎と安達が裏で糸を引いていたことは想像に難くない。なお、未だにこの「恐怖のバトン」について、ほぼ誰も言及しておらず、本当の陰謀史は陰謀論や都市伝説の類としてすらも語られないということがわかる一例である。なお、最後の中継ぎ執権となった第13代執権の北条基時は、まだ30歳前後という若さで健康なのに、さっさと1年後に高時に執権職を譲って出家し、政務からも完全に引退してしまった。

さて鎌倉時代の末期は、悪党と呼ばれる、幕府による支配体制に制御、干渉されずに独自に隆盛した武士が活発化した時代であった。円喜の息子に長崎高資という男がいたが、この男はかなり血の気が多く、悪党を始め、幕府の支配体制から逸脱して行動する連中に苛烈な対処をした。その為、彼らは幕府に対する反感を強め、朝廷の公家と結託して倒幕運動を起こすようになる。

高時はこの間何をしていたのかというと、何もしていない、というかできなかった。政治は円喜と時顕に壟断され、自分は全く干渉できずに傀儡同然であった。そのためすることもなく、得宗の本拠である山之内にこもって犬と戯れていた。『太平記』はこの事実の悪い面だけを抽出して、高時は政務を顧みず犬との遊びに耽溺していた、あるいは犬が人に噛み付くのを面白がって見ていたと描写している。偏向報道だとこれを糾弾するのは容易い。だが今のメディアも似たようなことをやっていることを鑑みると、現代人に中世の古典の作者を非難する資格は、ない。

しかし高時も北条氏嫡流を継ぐ者、いわば王者である。長崎や安達の好きにやらせていたわけではない。例えば、朝廷の皇位継承問題が勃発した際は、これに干渉して微温的な措置を取り計らい、所謂文保の和談と呼ばれる和睦を成立させた他、東北の安東氏の家中で内紛が起こった際にもこれを調停している。さらに、穏便な手段を好む高時は、執権である自分をないがしろにするばかりか苛烈な手段ばかり採用する長崎高資の存在を危惧し、これを抹殺しようと大胆な暗殺計画を練ったこともあった。高時の父貞時は、成人後、政務を壟断していた頼綱を騙し討ちにして葬っており、貞時の快挙を踏襲しようとしたと思われる。しかし計画は露見してしまい、結果高時は平謝りして長崎親子に詫びた挙句、後始末が面倒臭くなり金沢貞顕に執権の職務を譲渡して半ば雲隠れしてしまうという醜態を晒した。この辺のヘタレっぷりに親父の貞時との間にある越えられない壁というものが感じられる。

そんなヘタレの高時だが、新田義貞に鎌倉を攻められ、追い詰められて自害する際には、一族や家臣達の殆どが高時を見捨てることなく、長崎も安達も、皆彼に殉じている。何だかんだ言って人望があったと思われる。

偏諱を受けた人物[編集]

父・貞時同様、将軍から1字を受けなかった。代わりに用いた「高」の字は祖先の平高望にあやかったものとされるが詳細は不明。歴代得宗家当主に倣って御家人たちに「高」の字をばらまいたが、自身の死後、足利尊氏・直義兄弟や長井挙冬に見られるように、その字はポイ捨てされてしまった。

北条氏一門
その他(御家人など)

この他、高時の代に権力を掌握していた長崎氏一族(高綱(円喜)高頼高資高貞高重など)も該当すると考えられる。

関連項目[編集]

  • 東勝寺(跡) - 一族が自害した「腹切りやぐら」が残されている。
  • 太平記
先代
北条基時
執権
第14代
次代
北条貞顕