北条貞顕

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北条 貞顕(ほうじょう さだあき)は鎌倉時代末期の人物。北条一族の中でも明哲な人物として知られる北条実時の孫で、実時が創設した、日本で最初の図書館と言われる金沢文庫の管理をやってる図書委員であった。一族の重鎮として幕政にも参画したが、大人しい人柄だったのであまり発言権、影響力はなかった。むしろ発言力のある奴に影響され、迎合してしまう側だった。

人柄[編集]

一流の文化人として名を馳せた実時の孫だけあって、貞顕もまた優れた文化人であった。性格は温和かつ几帳面であり、ことあるごとに手紙を書いたり、どうでもいいことまで記録に残したりしている。細々としすぎている印象すら与えるが、その御蔭で後世の人々は鎌倉時代末期の幕府の有り様を検証できるのだから、貞顕の功績はとても大きい。

貞顕は穏やかで思慮深く、博識であったが、悪く言えば臆病かつ過敏であった。その為、強硬的な長崎円喜などには唯々諾々と従うのみで、円喜一人が幕政を壟断するのを結果として幇助してしまった。そして、出家した北条高時に代わり15代執権に就任したはいいが、反対勢力の報復に怯え、脅しに屈する形でたったの10日で執権を電撃辞任してしまった。

家督相続[編集]

貞顕の父、北条顕時は、安達泰盛と親しかった為、その泰盛が滅ぼされた霜月騒動でとばっちりを食らい逼塞させられ、金沢家の北条家中における地位も没落してしまった。実時の頃には幕政を主導する程の力があったのに、すっかり没落して下総の別荘で悶々とした日々を送る羽目になった顕時は、何が何でも巻き返しを計ってやろうと考えていた。

顕時には何人か子供がおり、貞顕は六男であった。六男であったにもかかわらず、五人いた兄を差し置いて家督を継承した。 貞顕が兄弟の中で最も聡明であり、栄達の見込みがあるという顕時の判断によるものだった。こうしてめでたく家督を継承した貞顕であったが、臆病で人の良かった彼は、五人の兄を差し置いて家督を継いだことに呵責を感じており、怨恨を抱いた兄達が自分に刺客を差し向けてくるのではないかと怯えていたことが、彼自身の手紙で明らかになっている。

悪夢の六波羅探題南方就任[編集]

しかし顕時の見込みどおり、貞顕はその才覚を発揮して幕府内で順調に出世し、能吏としての資質を見込まれてめでたく六波羅探題南方に任命された。貞顕は狼狽した。六波羅探題は栄誉ある職務だが、朝廷と西国を監視し、西国で反乱が起こった時は最前線で矢面に立たされる危険な役職だからである。おまけに、貞顕が就任した南方には、あるジンクスがあった。六波羅探題南方に就任すると粛清されるというジンクスである。

無論、今まで六波羅探題南方を勤めた人物が全て粛清されたわけではない。粛清された南方探題は、北条時輔北条時国の二人である。しかしたった二人と言っても、悪い印象を植え付けるのには充分すぎた。おまけに時輔は、北方探題の北条義宗に奇襲をしかけられて殺されたのだ。貞顕が恐怖にさいなまれたことは想像に難くない。こんな仕事やだよう、と愚痴をこぼしながらも、貞顕は地道に六波羅探題南方の仕事に恪勤した。

嘉元の乱[編集]

そんな中、幕府を揺るがす大事件が起こる。北条一族が身内で殺しあう事件、嘉元の乱が勃発したのだ。

9代執権北条貞時のいとこ、北条宗方ヤンデレ化して、同じ一族の北条時村を殺し、さらにその宗方も貞時の命を帯びた北条師時に殺されたというのが事件の顛末である。事件の発生を耳にした貞顕は、竦みあがって狼狽した。北条一族での殺し合いと言えば、六波羅探題南方だった時輔が弟北条時宗の命を帯びた北方の義宗に殺された二月騒動を想起させる。

この時の北方探題は北条時範であり、二月騒動で時輔を殺した義宗とはいとこの関係にある、だから時範も義宗のように南方の自分を殺しにくるに違いない、そう思いこんで、貞顕はパニックに陥った。結果は全くの杞憂であったが、貞顕の仕事を補佐する被官達は、狼狽する貞顕を宥めるのに必死だった。

とんぼ返り[編集]

それから間もなくして任期が終わり、貞顕はようやく六波羅探題南方という悪夢のような仕事から解放され、鎌倉に戻る事を許された。しかし、鎌倉に戻ったのもつかの間、またしても貞顕は六波羅探題に任命されてしまった。今度は北方であり、粛清のジンクスはなかったが、貞顕はまたしても狼狽した。粛清の恐怖こそなかったが、南方から北方に転進した北条兼時が突然死しており、自分も兼時のように突然死するのではないかと思いこんでいたのである。

杞憂の男[編集]

このように貞顕は杞憂ばかりする男で、能吏として優れた手腕を見せながらも精神的には余裕がなく、少し脅せばすぐ萎縮してしまう小心者の面があった。六波羅探題北方を数年務めた、鎌倉に帰還した後は執権北条高時連署を務めたが、事実上幕府を掌握していた長崎円喜と、その息子で暴れん坊だった長崎高資の前では常に萎縮していた。

執権就任[編集]

そんな心もとない貞顕であったが、何と執権に就任してしまうことになる。高時が、長崎親子の壟断を気に食わず、刺客を差し向けて暗殺しようとしたことが露見してしまったことが原因である。長崎親子から追及され、追い詰められた高時は執権をほっぽり出して出家してしまった。その為執権の座は空位になってしまい、誰を執権にするのかで幕府は揉めに揉めた。

高時には嫡男邦時がいたが、まだ10歳にも満たない童だったので、弟の北条泰家を執権にすべきという主張が強まった。しかし、泰家の後ろ盾になった人物の中に、長崎親子と権力を巡り角逐していた安達時顕がいたので、長崎親子は泰家に執権になって欲しくなかった。かといって、邦時を執権にするには、やはり幼すぎる。慣例では、こういう時には北条氏の傍流から誰かを中継ぎの執権として就任させていた。6代執権北条長時、7代北条政村、11代北条宗宣などがそうである。

長崎親子は、白羽の矢を貞顕に立てた。脅しても簡単に屈服させられたはずだが、長崎親子は美辞麗句と褒め殺しを使って貞顕を調子付かせ、すっかりいい気分になった貞顕は執権に就任することを承諾してしまった。

電撃辞任[編集]

当然、泰家や安達時顕らはぶち切れた。泰家は抗議の意味も兼ねて出家してしまい、それに追従して出家する御家人が続出、鎌倉中が坊主で溢れ帰り、貞顕はどうしてこうなったとまたしても狼狽する。しかも事態はそれだけに止まらなかった。泰家や安達時顕の部下達が、貞顕を暗殺する計画を練っているという風聞が飛び交ったのである。

小心なところのある貞顕はすっかり怯懦してしまい、執権就任からたったの10日で電撃辞任してしまう。長崎親子は「お前それでいいのか?」「親の烏帽子腕にはめてぶん殴るぞ?」と非難したが、貞顕はすっかり萎縮してしまっていた。 

このような内輪もめを幕府が起こしていたため、京都の後醍醐天皇とゆかいな仲間たちは円滑に倒幕計画を進められた。かくして、鎌倉幕府は滅亡へ向ってゆくのであった。

最期[編集]

貞顕は武士というよりは能吏というべき人物で、彼自身、そのことを自覚していて恥と思っていたようである。その証左として、北条一族が新田義貞に攻められ滅亡する際、彼は他の一族のように切腹せず、「自分は武士を名乗る資格が無い、だから切腹する資格も無い」といって、息子の北条貞将に脇差で胸を突かせてもらって死んでいる。最期の言葉は「貞将、せめてわしの代わりに武士らしく死んでくれ」であったと『太平記』に書かれている。貞将はその父の遺言を遵守し、攻め寄せてくる新田軍を迎撃するため出撃し、壮絶な最期を遂げた。

先代
北条高時
執権
第15代
次代
北条守時