北条師時

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北条 師時(ほうじょう もろとき、1275年 - 1311年)は、鎌倉時代後期の政治家。鎌倉幕府10代執権。8代執権北条時宗の弟北条宗政長女で、従兄弟に当たる9代執権北条貞時インセストタブーを犯し、挙句の果てには子供まで設けてしまった。もう一人の従姉妹にあたる北条宗方と貞時を巡る泥沼の抗争を繰り広げた事でも有名。

生涯[編集]

師時の出生[編集]

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8代執権北条時宗には、宗政宗頼という二人の弟がいた。二人とも若輩ながら宗政は兄時宗の名代として蒙古との合戦に赴き、宗頼は長門探題に任ぜられ、政治面では辣腕を振るい、軍事指揮では優れた采配を見せ、時宗を扶翼した。しかし、惜しむべきか、二人とも若くして夭折してしまった。得宗専制政治を推進する時宗としては、近親者である弟二人を重職につけることによって地盤を固めておきたく、それゆえ二人の相次ぐ夭折は大変な痛手となった。

宗政には、幾人かの男子がいたが、いずれも虚弱であり政務を任せるには頼りなかった。が、同時に宗政には男顔負けの卓越した政治の資質と為政者の風格に恵まれていた娘がいた。この娘こそ後の10代執権北条師時である。北条氏という家はかの『尼将軍』北条政子やその妹で阿野全成の妻として暗躍した阿波局など、男顔負けの優れた為政者を時折輩出する傾向があり、師時もそんな一人であった。鎌倉時代は女性にも家督の存続権があったため、貞時は彼女に才覚を嘱望し、宗政の後継として家督相続を認可した。

従姉妹宗方[編集]

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歴史のめぐり合わせとは全く奇妙なものだが、師時に比肩する才覚を持った女傑を、北条氏はほぼ同時代にもう一人輩出した。師時の父北条宗政の弟北条宗頼の娘、宗方である。彼女も師時同様男に劣らぬ政治、指揮の素養を持ち、兄北条兼時が夭折し、他の男兄弟が歪みあったりだらしねぇ連中ばかりであったため貞時に宗頼からの家督相続を認められた。

累進[編集]

政治を専横してきた御内人平頼綱一族が平禅門の乱で粛清されると、早速貞時は幕僚の刷新に着手、師時と宗方は若年ながらも評定衆に抜擢され、以後順風満帆に累進し、貞時の両腕となる。才女二人に支えられ幕政を執り行う貞時を市井の人々は「まさしく両手に花」と羨んだという。

幕府の中枢で活躍していく中、次第に師時の心に変化が訪れる。一つは、執権貞時に対する思いである。彼女は貞時を為政者としても人間としても尊敬していたが、貞時と共に執務に携わってゆく中、次第に彼女の貞時に対する敬慕が恋慕へと変容していったのだ。もう一つは、従姉妹の北条宗方との関係である。宗方も師時同様貞時を懸想するようになっていた。幼い頃は共に遊んだり百合ポッキーしたりしてとても仲のよい二人だったが、貞時という一つしかない高嶺の花を我が手におさめるべく激しく対立した。

更に、この二人の乖離を煽る不埒な輩が居た。大仏流当主にして後の11代執権、北条宗宣である。大仏流は「得宗」こと北条義時の弟北条時房を祖とする家系で、北条家嫡流からは一番の傍流になる。それゆえ、得宗家や他の極楽寺流、政村流と比べても発言力などは低く、宗宣の頃には何度か謀反を起こして当主が粛清されたこともある名越家並の影響力しか以って居なかった。

巻き返しを図る宗宣は両者の対立を煽り、共倒れを目論んだ。さらに、宗宣の背後には権謀術数を限りを尽くした謀略家で京都の公家達との間に人脈が広い彼の父親、「スカトロ入道」として名高い北条宣時がいたことも看過すべきではない。大仏親子の煽動は師時と宗方の憎悪にさらに拍車をかけ、両者は相克するようになってゆく。

悲劇[編集]

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1301年、貞時は師時と姦通し、男子を設けてしまう。これが後の14代執権、鎌倉で一族郎党ともに壮絶な最期を遂げる北条高時である。貞時はこの事が宗方に露顕するのを恐れた。宗方は師時と比べると激しい気性の持ち主で、露顕すれば何をしでかすか分からないからだ。貞時は苦し紛れに出家し、寺にこもって表舞台から雲隠れしてしまう。その為、止む終えず師時が10代執権に就任して幕政の舵取りを行ってゆく事となる。

が、この姦通の話は忽ち露顕した。情報網を張り巡らせていた大仏親子が、宗方に情報をリークしたのである。宗方は激昂し、貞時と師時を殺して腹を引き裂いてやりたいと裏返った声で叫んだ(「保歴間記」より)。大仏親子は「今は時期尚早、しかしその時がくれば我らも微力ながら助太刀いたす」と宗方を宥めた。ここにきて、宗方は完全に大仏親子の意のままに動く駒となった。

そして1305年、悲劇が起こった。まず宗方は郎党を率いて貞時の屋敷を襲撃して火を放った。貞時は間一髪のところで脱出し、師時の屋敷へ逃げ込む。翌日、宗方は師時の屋敷にもなだれ込み、二人まとめて血祭りにあげようとした。

が、血祭りにあげられたのは貞時でも師時でもなく、政村流北条氏当主である北条時村であった。何故時村が犠牲となったのかは不明瞭な点が多い。小説家の田中芳樹は「貞時と師時を救うため身代わりとなって散華した」、女流作家の新條まゆは「時村は師時派で、宗方に粘着質な嫌がらせをしていたため宗方の憎悪を買い殺害対象となった」ゲームクリエイターの竜騎士07は、「雛見沢症候群L5を発症しており、見るもの全てが殺害対象に映った」という見解を示している。その後、宗方は謀反人として討ち取られた。彼女を煽動した大仏親子は、貞時、師時暗殺の失敗を知るや否や早々に宗方を「切り捨てる」冷酷な判断を下し、大軍を差向けて宗方の追討に当たらせた。大仏親子の命を受けて宗方追討に向かったのは佐々木時清、「保歴間記」によると宗方はその時清と相討ちになって果てたと書かれているが、実際の下手人は師時であった。時清は師時が手を下した直後にやってきたところを「師時の手で」殺された。彼女は裏で策動する大仏親子の存在に気付いていたのかもしれない。

この一連の騒動を嘉元の乱という。時村は師時にとっては母方の伯父にあたり、当然のことながら親交も深かった。伯父時村、そして貞時を巡り憎悪しあいながらも幼い頃からの友人であった宗方を失った師時は心身ともに著しく疲弊し、それから5年後に37歳の若さで逝去した。

人物[編集]

当時を伝える多くの史料で、彼女の対極的存在である北条宗方が烈火のごとく激しい気性の女性として描かれているのとは対照的に、師時は流水のような柔和な人物として描かれている。一方で、少しドジっ子の気もあったらしく、増鏡には

北条貞時「またヘマやらかしやがったのか!阿呆が!」
北条師時「ふぇぇぇ~、ごめんなさ~い」

と、貞時に叱られ涙目になっている師時の可愛らしい姿が活写されている。

最後は互いに殺しあう事となってしまった宗方とも幼い頃はとても仲睦まじく、「当代きっての百合ップル(京極為兼)」「師宗(師時×宗方)で俺のニヤニヤがマッハなんだが?伏見天皇)」など、当時の有識人の多くの羨望の的だった。

関連項目[編集]

先代
北条貞時
執権
第10代
次代
北条宗宣