UnNews:「秦野たばこ祭」フィナーレ

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【2008年9月29日(月)配信】

神奈川県秦野市(はだのし)で行われていた「第61回 秦野たばこ祭」は、28日夜、秦野市本町地区で祭櫓(まつりやぐら)を炎上させ、半世紀以上にわたる祭の歴史に終止符を打った。長年続いてきた祭が今回で最後を迎えるとあって、会場には全国から多くの拝火教徒が詰めかけ、一夜だけかつての賑わいが戻ったかのような光景が、秦野盆地全体を包み込んだ。


最盛期の秦野たばこ祭の様子(1970年頃撮影/秦野たばこ祭実行委員会提供)

秦野市は、かつてタバコの栽培・製造が主要な産業のひとつであった。市内の畑地は大半がタバコ畑であったほか、金目川や水無川沿いを中心に現在栄えている商業地域は、その大半が、かつては日本専売公社(現:JT)の工場と関連施設であった。

「秦野たばこ祭」の第1回が開催されたのは、戦後間もない1948年のこと。全国的にあらゆる物資が不足していた当時、タバコのように一部の宗教でしか用いられない嗜好品は、流通量が限られており入手が極めて困難であった。そのため、全国から多数の拝火教徒が、関東随一のタバコ産地であった秦野町(現:秦野市本町地区)に集まっていた。拝火教徒の農民がタバコ畑を耕し、拝火教徒の工員が工場でタバコを製造し、それを拝火教徒の住民が日々の礼拝に用いる――、秦野町はまさに、天理教の天理市や、伊勢神宮の伊勢市に勝るとも劣らない、拝火教徒の拝火教徒による拝火教徒のための宗教都市そのものであった。

やがて拝火教徒たちは、戦後の沈んだ気持ちをタバコで吹き飛ばそうと、日々の礼拝を遥かに超える規模の礼拝を考案し、実行に移した。それは、栽培や製造の過程で出たタバコの葉屑や、日々の礼拝で出た吸殻などを持ち寄り、“供養”と称して1箇所で燃やそうというものである。普通に考えると、有毒な煙が濛々とたちこめて、住民全員が生命を落とすことになってしまいそうだが、実際に亡くなったのはごく僅かな非喫煙者だけで、殆どの拝火教徒は生命に別状は無かった。四方を丹沢山地などに囲まれた盆地(秦野盆地)である秦野町は、普段からタバコの煙が他地域に流出せずに滞留しており、当地に住んでいた拝火教徒はそれらに対する耐性を身につけていたからである。

こうして、タバコの農閑期でありかつ冬に入る前の、毎年9月の最終日曜日に、「秦野たばこ祭」が行われるようになった。開始から20年ほどは、日本が経済成長段階だったこともあり、タバコの栽培や製造は盛んで、秦野町は拝火教徒で賑わっていた。また、非喫煙者は、台風でもない限り盆地の底に溜まり続ける煙に耐え切れず、秦野町から次々と逃げ出していった。1955年の市制施行時には、秦野市には非喫煙者は存在しなかったのではないかとさえ言われている程である。
1968年には東名高速道路も開通し、秦野市はタバコの煙と自動車の排気ガスの底へと完全に埋もれ、「霧の都ロンドン」に倣って「煙の都 秦野」と称されるようになった。これは元々は、市外へ追いやられた非喫煙者が拝火教徒を揶揄した言葉であるが、拝火教徒はこの表現がいたく気に入り、自ら“煙の都”を自称するようになったという。

しかし、1981年に東名高速道路の秦野中井インターチェンジが開業すると、秦野市の情況に僅かな変化が生じた。これにより東京からの通勤圏となった秦野市では、盆地の南嶺となっていた山を切り崩しての宅地造成が行われるようになった。最初のうちは拝火教徒しか移住して来なかったが、東京圏のドーナツ化現象が進むにつれ、非喫煙者が移住してきて一瞬にして体調に異常を来たすなどのトラブルが起こるようになった。また、造成などにより南嶺が低くなったため、南隣の中井町二宮町などにも煙が流れ出すようになり、これらの町では俄かに嫌煙の機運が高まった。

そして、1983年の「第36回 秦野たばこ祭」で悲劇は起こった。例年どおりに専売公社の工場の傍らで燃え上がった炎が、突風に煽られ、建物に引火して火災となり、工場が全焼してしまったのだ。それまで無風だった会場周辺に何故突風が吹いたのかは不明であり、周辺市町の非喫煙者の陰謀ではないかとの説も流れたが、現在でも真相は不明のままである。
その後、専売公社上層部で、秦野市の工場は再建しないことに決まってしまい、殆どの工員は他地域の工場に移っていった。そのため秦野市の人口は激減し、たちまち経済的に立ち行かなくなってしまった。折から、秦野市を次の開発の標的にと目論んでいた不動産業者や、イオングループなどの商業者たちは、この機に乗じて畑地や工場跡地を買い漁っていった。こうして、1980年代後半から1990年代にかけて、秦野でのタバコ栽培は行われなくなってしまい、工場の跡地には巨大なジャスコが作られ、秦野市は現在のような東京のベッドタウンになっていったのである。

戦前に行われていた地元の祭などは、拝火教徒に支配されていた時代に失われてしまい、秦野市に残っていた大きな祭礼は「秦野たばこ祭」だけであった。そのため、なお僅かに残っている拝火教徒たちによって毎年1回のこの祭だけは細々と継続されていた。また、急激に増大した非喫煙者からの圧力により、祭ではタバコの葉を燃やすことさえできなくなり、代わりに燃やされていったのは拝火教徒の礼拝器具である木製のパイプや灰皿などであった。拝火教徒のための祭は、いつしか、非喫煙者が拝火教徒を追放あるいは改宗させるための手段のひとつになってしまっていたのだ。

それでも、僅かに残った拝火教徒は頑なに自らの宗旨を守り、今もなお、日々の礼拝を欠かさず続けている。


そして今年、神奈川県全域で禁煙条例が間もなく施行され、拝火教徒が神奈川県から追い出される見通しとなったことから、「秦野たばこ祭」も今回を最後に行われなくなることが決まった。祭では、長らく用いられてきた祭櫓そのものにも火が放たれ、この祭が二度と行われなくなるような措置がとられた。

拝火教徒の一人であり、今回の「秦野たばこ祭」の実行委員長を務めた古谷義幸さん(61歳)は、次のように語っている。

「私は産まれたときから秦野に住んできた。たばこ祭の回数がそのまま私の年齢だった。秦野はタバコと共にある町だった。仲間が他の町に行ってしまったり、異教徒たちが秦野の町にやって来ても、そして秦野を包んでいた“母なる煙”が薄れて消えてしまっても、秦野がタバコの町だったという歴史は変わらないんだ。
私は、この歴史を若い人たちに伝えなければと活動してきた。異教徒たちにも、せめて、拝火教が他者の健康を害するための宗教ではなく、あなたがたの宗教と同じように心の安寧を求めるために作られたものなんだということを、わかってほしかった。
禁煙条例は宗教弾圧そのものだ。そして、そのような弾圧に私たちが屈しなければならないのは、非常に、残念だ…。ううっ……(嗚咽のため以下聞き取れず)」



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