UnBooks:UnBooksの書き方の参考書ベータ版

出典: へっぽこ実験ウィキ『八百科事典(アンサイクロペディア)』
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この文書では、UnBooksの書き方そのものについて不遜にも解説してみる試みをし、わずかでも執筆者の一助になることを期待しつつ、この文書そのものがフルボッコにされることで反面教師となりつつ、更なる問題点を発見し……

といった趣旨の参考書です。

注意事項[編集]

本書は、少なくとも現時点までUnBooksを1冊も書いたことがないへっぽこ筆者が、UnBooks執筆者または潜在的執筆者に対して解説を行うという、非常にひねくれた構造になっている。UnBooks以外の書き物をする参考にもなるかもしれないが、あくまでUnBooks執筆のための参考書であり、教科書ではない。分野は異なるが、出版物での教科書なら先人が多数書いている。ぶっちゃけ、筆者が面白いUnBooks記事を読みたいがために、執筆者陣の反面教師となるように書き、もって戦意高揚を図るつもりで記述したつもりだ。

この文書は間違っても教科書ではない。読了後に「単に研究レポートと呼ぶべきだ」と主張する人もいると思う[A 1]。面白いと思うか?と問われれば、「fun の意味での面白さはないかもしれないが、読み手によっては interest の意味で面白いと思っていただける要素を少々盛り込んだつもりだ」と答えたい。あくまでつもりである。

もう一つ。「これから記事を書こう!」という初心者の方で、うっかりこの文書にたどり着いてしまった方へ。悪いことは言わないから[A 2]、先に初心者のためのガイドブックに目を通していただきたい。どう考えても、順序としてはそちらが最優先になる。

内容の性質を鑑みて、この文書では初版執筆者が「筆者」という言葉を使う。ライセンスが云々は忘れたことにするとしても[A 3]、文章の部分部分においては文責を明らかにする必要があろう、という点からである。

  1. ^ そのぐらいの理解で良いです。文体の都合で「だ・である」調に統一したので固い印象を受けると思いますが、肩の力を抜いて下さい
  2. ^ 「悪いことは言わないから」というのは、一般的に悪いようにする時だが、今回はそうではなないので安心していただきたい。
  3. ^ ウィキペディア式に詰めると相当ややこしいことになる筈で、想像しただけで恐ろしい

前提[編集]

In order for the light to shine so brightly, the darkness must be present.

~ Francis Bacon

光が明るく輝くためには、闇が必要である。

~ フランシス・ベーコン

この手の解説を書こうという人は極めて少ないだろう。本来なら、多数いる優秀な執筆者が書くべきなのだが、自分の技術を披瀝してしまうことに躊躇する人もいるだろうし、また謙遜している人もいるだろう。解説を書くよりは記事を書いていたいという人もいるかもしれない。記述するからには、自分の手の内をある程度は明かさなければならず、Uncyclopedia:創作の過程と被らないようにし、かつUnBooks:糞記事の書き方との関係も考慮しなければならない。これは相当厳しい制約となるはずだ。

だからこそ書く価値があるし、縛りが比較的少ない筆者が書いても問題はなかろうと考えている。またアンサイクロペディアにおいては、自分から恥をかく道化的な行為もある程度は許容されている(それに、ネタにもなる)ようなので、率先して恥をかいてみようという変な根性もある。

正直に、また重ねて不遜なのは承知で書くのだが、エクストリーム・NRV剥がさせに興じている際、さあこれから編集するぞーと内容を見ると、記事うんぬん以前に日本語の文章として、残念ながらほとんど体を為していないものもある。ごく僅かな、針穴のように細い望みではあるものの、管理者も、NRV貼り付けプレイヤーも、NRV貼り付けられプレイヤーも、そして初心者も、全員勝利(All win)に至る道は少ないが、これがその一つになればと思っている。たとえ針穴の細さであろうが、闇に少しでも光が射すのなら、少しは意味はあるはずだ。

そこまで大げさではなくても、読んだ誰かのためになる、あるいはエッセンスを汲み取ることができたなら、この試みは成功である。 ああダメだ固い文章を書くと「なーんちゃって」と付けたくなる。

注釈について[編集]

この文章は長いことを本人が認める。[B 1]、その割には逐一解説を入れなければならない。しかし標準の脚注機能を使うと、脚注は文末にまとめて表示されてしまう。そこで、[B 2]実験的にこのようにしてみる。

  1. ^ 書いた文章から不要な贅肉をそぎ落とすのも重要
  2. ^ このぐらい近くにあった方がよくね?

文章を書く前に[編集]

天賦の才に恵まれた一部の人は話が別だが、一般的には、文章をいきなり書き始めるとろくな事がない。それはなぜかを解説しておきたい。

執筆の前に[編集]

あなたが「○○について書きたい!」という明確なテーマや命題を持っているか、ものを書き慣れた人間であれば、このセクションは読み飛ばしていただいて構わない。――そうでない方は、ちょっと待っていただきたい。

まず、どうしようもないと判断されNRVを貼り付けられる記事が出来るまでの代表的なプロセスとしては、「電波キタ━━━これで勝つる!よし執筆開始ー」という感じであろう。こんな風に書き始めるなら、たいていは「10行書いてあれば長い方」となる。成長しても糞記事になるかもしれない。その先にはいくつも壁があるというのに。

こうなってしまう理由は明白だ。テーマや命題、主題、目的意識といった、まとまった文章を書かせる要素が欠落しているからだ。つまり説明したい事柄もあまりないことになる。本文が短くなるのは当然の帰結だ。

テーマも命題もなく書き散らしたいだけなら、今ならブログなどどこでも良いが、個人で持てる便利な仕掛けが多数ある。アンサイクロペディア(および、アカウント取得後の利用者ページ)はその対象ではない。重くなるし。

テーマや目的等があるにも関わらず、その事柄を詳しく解説できないのであれば、その事柄について本当に理解していないか、少なくともリサーチ不足ということになる。逆はそのままでは成立しない。ある事柄について本当に理解していても、系統だって解説するための技術を持ち合わせないのなら、分かりやすい記事を書くことはできないだろう。

詩と小説[編集]

Sure, ninety percent of science fiction is crud. That's because ninety percent of everything is crud.

~ Theodore Sturgeon

確かにSFの9割はゴミだ。なぜなら、どんなものでも9割はゴミだからだ。

~ シオドア・スタージョン

詩はこの限りではないが、テーマや主題なし、あるいは心象風景だけを思い付くまま書き散らすのなら、よほどの感性と文才の持ち主でなければ、あっという間にカオスな作品の出来上がりになるだろう。削除するかしないかの判断も難しいであろうことは想像に難くない。もし他人に読ませるのが目的ではないのなら、それこそチラシの裏(学生さんならプリントの裏)にでも書いて、書いた端から丸めてごみ箱に投げ込むなり、シュレッダーにかけるなりすれば良い。

他人に読ませる以上、「人にものを伝えるための文章」、もっと言えば「まともな文章の書き方」を知っておく必要がある。完全に知っておく必要はないが、文章・文体・文法などの崩れを「味」と主張するには、やはり余程のセンスの持ち主でなければ無理である。面の皮が38万kmぐらいあるのなら話は別だが、広く受け入れられる可能性は見込めないだろう。

専門分野[編集]

専門分野の記事においては、別の意味での「読者層の想定」が必要である。全員が全員、VVVFインバーターエスカリボルグショーシャ機関銃、モールス信号といったことに詳しい訳ではない。しかしながら、その分野を分かっている人は、分かっているが故に専門用語を列挙してしまいやすい。

「防護無線の発砲」という誤変換を発報と即座に訂正できる人はどれだけいるだろうか。そもそも防護無線とは何か。分野外の人で、ググらずに分かる人はどれぐらいいるだろうか。

そういう点から、身近な一般の人に査読を頼むことは有益であろう。文章の内容ではなく、体裁や誤変換(以前は誤植)をチェックする技術は、すでに「校正」という名前で確立されている。これについては後述する。

国際単位系でない単位は未だに使われている。hydeが代表例であることは論を待たない。航空の分野では高度をフィートで表す。北米ではフィートやインチが使われている。全くググらずに50口径=0.5インチ=12.7mm口径だとかいった換算を一瞬でできるのは、廃人か変人だけだ。

しかし、なまじ知識があると「読み手が一体何を分かっていて、何を分かっていないか」について想定するのが非常に難しい。どんなに馴れているつもりでも、実際に着手するとその困難さを思い知らされる。だからと言って放棄して良い問題でもない。

なるべく注釈を付けたり、説明文を膨らませたりするなどして対応していくほかない。読みにくさを親切で補うと言い換えても良いだろう。

仮想FAQ[編集]

Q:この文章はそうなっていないじゃないか。好きにしていいだろ。
A:だからと言って、あなたが文章の体裁や構造、記述の方法を無視しても良いという理由にはなりません。
Q:体裁を守ってない記事や糞記事だってたくさんあるじゃないか。好きにしていいだろ。
A:前者については、ハジケ方が素敵なら別段構わないと思います。しかし後者においては、糞記事が存在するからといって、あなたも糞記事を書いて良いということにはなりません。

読者層の想定[編集]

繰り返すが、UnBooksやアンサイクロペディアに限らず何かを書く時には、ある程度読者層を想定する。そして頭の隅に想定を置いておく必要がある。

万人向けだというのであれば、万人受けするネタを盛り込まなければならないし、専門記事なら一般の人にも(ある程度)分かるように書くなり、リンクを張るなりしなくてはならない。言うほど簡単ではない。

内輪ネタであれば書くのは楽であろうが、批判を覚悟しなくてはならない。もっとも、公に発表するものは全て批判を覚悟しなければならない。他人の厳しい評価が嫌なのであれば、公表すべきではない。

執筆の準備[編集]

では、執筆の具体的な準備を進めよう。

忘れられがちではあるものの、Webブラウザ上で直接長文を書く人はたくさんいる。だが、これはあちこちで悲劇を起こしているため、お勧めできない。

ブラウザの編集画面には、一般にはセーブ機能がない。保存ボタンを押してサーバに格納してしまうのは、あまりにも乱暴だ。連続した編集はサーバに負担をかける。履歴は自分の名前だらけになり、管理者か他の利用者から自分のノートに「プレビュー機能って知ってる?」という意味のラベルを貼られる。サーバが重い時は、そもそも投稿の処理が本当に反映されたかどうか、分かるまでに時間がかかることもある。また、重くなったり、全員アクセス禁止になったりもする。

外部エディタで書いた方がメリットがはるかに大きいし、うっかり操作や記事消失の頻度も減るだろう。

道具[編集]

日本人には形から入る人が多い。ゴルフを始めようと決めた人が、経験もないのにいきなり高級クラブセットを買うといったことだが、単語を置き換えれば、あちこちで似たような例を見ることができるだろう。

技術が身につくのなら、高価な道具も無駄にはならないだろう。しかし、たいていは途中で挫折するか飽きてしまい、押し入れや物置に仕舞われることになる。今ならネット・オークションに出品する、というのもあるだろう。もったいない話である。

それは極端な例としても、良い職人と良い道具の組み合わせは仕事の品質と効率を上げるための格好の手段だ。記事を書くのは人間であり、道具ではない。だが、道具と上手に付き合えば効率が非常に良くなる。余った時間はリサーチ、オナニー、ネタの追加、オナニー、ゲームなどの息抜き、マスターベーション、記事品質の向上などに使うことができる。また、オナニーに使うこともできる。そのためにも、文章が長くなればなるほど、外部エディタやワープロで編集した方が良いだろう。

日本語変換ソフトについて考えたことがない人は、この際ちょっと考えてみてほしい。WindowsならMS IME、Mac OSなら ことえり が標準で付いていると思う。筆者にはどちらも合わなかった。unix系のものも色々試し、結局ATOKに流れ着いた。これは、「お前らATOK使え」と言っているのではなく、そういう選択肢もあるのだと提示しているに過ぎない。

ちなみに、この文書の初版は一太郎2009とATOK2009、各種別売り辞書の組み合わせ環境で書かれているが、設定した時間ごとに自動保存してくれるため非常に心強いし、動作も安定している。

キーボードやマウス、モニタなども重要な道具だ。アンサイクロペディア以外でも毎日使うので、こういうところへの出費は惜しまないことにしている。逆に、安いキーボードは腱鞘炎の原因になったり、肩経由で頭痛の原因になったりする。

脳みそに栄養を(その1)[編集]

Nam et ipsa scientia potestas est.

~ Francis Bacon

知は力である。

~ フランシス・ベーコン

糖分を摂取しよう(危ない方のことではない)。体型を気にしているのであれば気が乗らないかも知れない。しかし、脳みそを使うと糖分が必要になることは間違いない。低血糖症のいちばん分かりやすい前駆症状は振戦、具体的には手の震えである。地震が起きていないのに身体が揺れているような感じがする時も、糖分を摂取した方がいい。本当に地震だったりすることもあるが。

実は、クラシックな日本食を摂っていれば、これはさほど問題ではなくなる。なぜなら、米飯からは十分な糖分を摂取することができるからだ。

しかし炭水化物に変わりはないので、BMIを気にしている人は摂取量に留意されたい。[C 1]

  1. ^ 筆者は理想体重を10kgほど割り込んでおり、医者から「もっと体力を付けなさい」と言われている

脳みそに栄養を(その2)[編集]

Never read any book that is not a year old.

~ Ralph Waldo Emerson

出版されてから1年経っていない本を読んではいけない。

~ ラルフ・ウォルドー・エマーソン

もう一つの脳みその栄養は読書である(この場合、流行書は該当しない)。少なくとも筆者は、これが最良の手段だと考えている。

他にも養分はある。しかし、何より「文章を愛すること」と「書物を愛すること」はきわめて近く、きわめて尊い。しかし場所を食う。中量棚2脚を占領、1段に2列置いてある段もあるのに、それでも収まりきっていない。また早急に解決すべき問題として、ツン読なものもある。なかなかデレが来ない。

各分野で「定本」と呼ばれる物を敢えてすっ飛ばしたりしているので、筆者の読書遍歴は極めて偏っている。いまの本棚ですら、「著作権概説」の横に「How to kill」が並んでいるのを見た人は、「この人は頭がおかしいのではないか」と思うはずだ。いや正解ですが。

発想を無理に引き出すな[編集]

英語版にはよくギャグで書いてある、ドラッグを使うとか、狂うとか、そういったことで無理に発想を引き出すのは非常に不適切だ。なぜかは明白で、本人が持っている引き出し以上のものをクスリがもたらすことはないからだ。

試しに深酒して(読者が成年であればの話だが)、べろんべろんの状態で何か書いてみると良い。間違ってもアンサイクロペディアに投稿するなよ。おそらくは赤面するほど支離滅裂な文章になっているだろう。

他人とはちょっと違う体験をすると、ちょっと違った考え方が生まれる。それについては更に長くなるので、機会があれば別稿としたい。

言い回しの工夫[編集]

普通、意見の押しつけはあまり歓迎されない。アンサイクロペディアにおいても、それは変わらないはずだ。プロパガンダは、ひねってパロディにするまでは笑いの対象にならない。執筆者によっては格好の標的となるかもしれない。そういった意味合いも込めて、アンサイクロペディアにおける演説や説教には驚くほど向いていない。もっとも、この文書自体が説教だと言われれば、返す言葉はない。

人は知識を得たいと思うから読み、書き、学ぶが、それらは自発的であった方が効率が良いし、なにより自発的であるべきだ。押し付けられれば、琴線に触れることもない。しかし、ある意見に対するアンチテーゼとしてウィットを混ぜて書くことができるなら、それは受け入れられるかもしれない。

「ものは言いよう」という言葉もある。言い回しを変えるだけで、ネガティブな印象をポジティブにひっくり返すことができる。ところで、韓国語で「ポジ」は女性器を意味する言葉の一つなので気を付けよう。間違っても女性の店員に「すみませんポジフィルム下さい。ポジですポジ。ないんですかポジ」と詰め寄ってはいけない。なお、以上は本題とはびっくりするほど関係がない。

鬱積を直接ぶつけない[編集]

Man is distinguished from all other creatures by the faculty of laughter.

~ Joseph Addison

人は笑うことができるという点で、他の全ての生物と異なる。

~ ジョゼフ・アディソン

ここまで読んできた人で、鬱積鬱憤を直接ぶつけるような、直情径行的なことをする人がいるとは思えない。しかしそういった光景を目にしないでもない。大変悲しいことである。自分が同じことをされても平気なのだろうか。己の欲せざる所人に施す事なかれと言うではないか。やはり、ユーモアで返すのがスマートなのだろう。

少し関連するのだが、自己客観視は大切である。自分を客観視するのは非常に辛い作業だ。「ダメな自分と向き合う作業は辛くない」という者は、強靱な意志を備えているか、ソシオパスのどちらかだろうが、執筆に向いているかというと向いてはいない。なぜなら開き直るからだ。指摘されても開き直るのであれば、会話が成立しない。同時に迷惑な存在となろう。

やりすぎるは良くないのだが、自分を見つめた結果をこっそり記事に練り込むこともできるし、「中二病ですが何か」と開き直って堂々とぶち込んでも良い。要はやり方次第だ。

さあ書き始めよう[編集]

Dispara, cobarde, que solamente vas a matar a un hombre.

~ Ernesto "Che" Guevara

撃て臆病者、お前一人だけでも殺せるはずだ。

~ チェ・ゲバラの最後の言葉

「前置きが長い!」という声が聞こえてきそうだが、仕込みが肝心なのだ。料理の8割は仕込みで決まる。鰻屋だって「串打ち3年、裂き8年、焼きは一生、梨の馬鹿めが18年[D 1]」という。糞記事を書く一番早い方法は、「うおっ宇宙から命令電波ktkr」と、何の工夫も準備もなくいきなり書き出すことだ、という意味のことは、すでに書いてきた通りである。

また、筆者本人ができていないのは棚に上げるとして、記事に厚みを持たせるためには工夫・準備・前提知識・雑学といったものが必要だ。

では書き始める前に、具体的に何に注意しなければならないかを検討してみよう。ってまた前置きか!

  1. ^ 最初の3フレーズは鰻屋の基本。最後の1フレーズは、実写の方(原田知世主演)『時をかける少女』で観た

タイトルを付ける[編集]

タイトルのインパクトは重要だ。閲覧数も上がることだろう。しかし肝心の内容が伴わないのなら、飽きられるのは早いかもしれない。一度読んだ人がもう一度読むこともないかも知れない。それはちょっと淋しいというものだ。

タイトルの命名を疎かにしてはいけないが、インパクトに頼りすぎると後がなくなる。

簡潔なタイトルはシンプルで良いが、短い文に意味を詰め込むのは難しいから、それなりのセンスを要求される。

どちらでバランスをとるかについては、ゆっくり悩んでみる価値がある。

日本語の正書法[編集]

学校で習ったと思うし、探せば解説しているサイトはあるので、いちいち筆者が説明する必要を感じないのだが、エッセンスをいくつか紹介しておきたい。

句読点はリズミカルに
どこに句読点を置くのか悩んでいる人へ伝えたいのは、恥ずかしいかも知れないが、音読してみてほしいということだ。黙読でも構わないが、とにかく読むとリズムが出てくる。そうすると、自然と切るべき場所も見えてくる。
文脈の意味が大きく変わる時
長い文章は(この文書がそうであるように)読みにくい。もし段落が長くなりすぎたら、意味が変わる場所で改行を入れ、別の段落に分割してみよう。
一行ずつ、または箇条書きで書いてしまう場合
段落を上手に組み立てよう。同じ意味の文章どうしをどんどんくっつければ、一つの意味をなす段落になる。かなり読みやすくなるはずだ。

体裁を考えよう[編集]

参考になる記事は多数あるが、ある程度固まっている体裁、いわゆるフォーマットがある。たいていは概要の節から始まり、関連項目の節で終わる。この形態は楽だし、部分的に編集しやすいという点ではサーバにも優しい。

フォーマットは別の一面も持っている。節ごとに主題を立てるのが普通だが、そうすると意味の塊ごとに切り分けることができる。これは、執筆者の脳みそをいったん整理する役割も持っているはずだ。

節があまりにも長くなるようなら、さらに小さい節に分割すると整理しやすくなるだろう。同じ意味のことはできるだけ同じ場所に書くようにすれば、読み手が混乱するのを避けられるようになる。

パロディを行う場合においても、もとの文章にも構造と体裁があることが多いであろう。忠実にトレースしながらネタにしていくのは、楽に見えるかもしれないが、リサーチも含め、実は結構大変なはずだ。最近見たもので感心して唸った例はUnBooks:これだけ読めば記事は書ける。まさかの軍令書パロディで、シンガポール攻略戦を分かっていればひよこ陛下の下へ馳せ参じようと奮起する気にもなろうものだ。おほきみのへにこそしなめかへりみはせじ。

詩や小説[編集]

詩や小説の形態を取るなら、体裁はある程度自由になる。このジャンルの中で、最近読んだもので一番感心したものにUnBooks:夢精慟哭がある。解説は無粋だと思う。

でも解説する。宮沢賢治(代々木のミヤケンじゃない方で、日本初の本格萌えジャンル開拓者[E 1])が、先の長くない愛妹について書いた、非常に心を打つ詩の一つである。

それを超絶だいなしにする不謹慎ネタを、これだけ強引にねじ込んで、ちくま文庫の「春と修羅」を思わず取り出した人間(身近な例で言えば、筆者)にまでニヤニヤ笑いをさせる力量には感嘆せざるを得ない。ネタがきっちり練り込まれているので、容量は関係なくなる。編集履歴が少ないが、これ以上いじりようがない。アンサイクロペディアならではと言える記事の一つである。

  1. ^ これだと尚更分かりにくくなるだろ

専門分野は辛い[編集]

鉄道マニア、軍事マニア、カーマニア、天文マニア、カメラマニア……挙げればキリがないし、世間的には嘲りの対象になったりもするが、別に恥ずべき事ではない。専門性がそこへ行き着いただけなのだ。この愛すべき専門バカ達(自分含む)は、「相手も知っているだろう」などとは1ミリ秒も考えずに専門用語を連発してしまう。それに、専門があるが故に視野狭窄になることも多い。行き着くところは「自分以外全員邪道」である。筆者の自省の念を込めて書くのだが、自己客観視を忘れないようにしたいものだ。

結果どうなるかはすぐに分かるだろう。ある分野のマニアが、関心のない別分野のマニアが書いた記事を読んでも、前提知識がないなら何が書いてあるかまったく分からないはずだ。

ただし、言うほど簡単でないことは、UnBooksではないが筆者も先日実体験した。差し障りがある方もおられると思うので、とある専門項目とだけ書いておくが、改稿が入ったりしたものの、残念なことに初版執筆者はその後一切編集を行っていない。いわゆる執筆放棄状態である。非常にさびしいことだ。

記事は初版執筆者のものではないが、少なくとも初版執筆者だけでも、該当記事には愛を持ち続けてほしい。

語彙は最強の武器[編集]

Sproget - mennesketalen - er en uudtømmelig rigdom af mangefoldige væedier.

~ Louis Hjelmslev

言語すなわち人間のことばは、汲めども盡きぬ宝の蔵である。

~ ルイ・イェルムスレウ (デンマークの言語学者)[1]

同じ言い回しでも、ほんの少し、極端にはわずか1語変えるだけで、面白みが増すことがある。そのことと、具体例とを挙げていけば、別のUnBooksが書けてしまうぐらい膨大な量となる。

読んで読んで読みまくることでも、語彙を増やすことはできる。外国語を勉強したり、あるいは日本語を勉強している海外の人を手伝ったりするだけでも、語彙は増えていく。最後の例で言えば、相手はこちらが知らないようなマニアックな単語を繰り出してくることもある。それもこちらの勉強になったりするから世の中分からない。

読んだものをそのまま使い回すことを「受け売り」と言う。そうではなく、咀嚼して自分の腑に落とし、自分のものにするのは有効な手だ。特徴のありすぎるフレーズや、短すぎるフレーズでは、これは無理だが。

外国語知識は役に立つ[編集]

Wer fremde Sprache nicht kennt weiß nichts von seiner eigenen.

~ Johann Wolfgang von Goethe

誰であれ外国語を知らない者は、自らの母国語についても何も知らない。

~ ゲーテ

たいていの外国語では、主語を抜かすと凄くブロークンに聞こえたり、そもそも文章として成立しなくなったりする。

その点、日本は基本的にムラ社会であるため「なあなあ」が通用しやすい。このため、文章に主語を置かなくてもある程度通じてしまう。こう書いていて筆者自身も「ちゃんと書けているだろうか。どれが主語だろう」という不安に陥ってしまうぐらいである。

解説文に主語や目的語がないのは、致命的とも言える。繰り返しの文脈においてはいちいち置く必要はないが、いきなり重要な要素が欠落した文章が現れた場合、前提知識のない読者は確実に混乱する。

具体例を挙げるが、下記の文章はあくまで説明のために、筆者が即席で考えたものであることをお断りしておきたい。

「攻撃を防ぐため、イラク軍はエンジンを切り、攻撃する時だけエンジンをかけた。」

この文章で真意が掴める人は、おそらく軍事マニアでもごく少ないと思われる。何からの攻撃を防ぐのか。何のエンジンを切ったのか。分からないのが普通だ。

「アメリカ軍戦車からの攻撃を防ぐため、イラク軍は戦車のエンジンを切り、攻撃する時だけエンジンをかけた。」

だいぶ良くなった。しかし未だに「何のためにエンジンを切るようなまねをしているのか」が分からない。

「アメリカ軍の戦車は熱探知センサーを登載している。これに探知され攻撃されることを防ぐため、イラク軍は故意に戦車のエンジンを切って車体の温度を冷やし、放置された戦車のように見せかけた。そして、アメリカ軍に不意打ちを掛ける寸前になってからエンジンをかけ、攻撃した」

ここまで書けば、理解できる人がぐっと増える。文章は冗長になるが、誤解を招く可能性は低くなるということを示せたと思う。

アレで良いのか[編集]

アレな記事はたくさんあるため、「アンサイクロペディアだから記事はアレでも良いだろう」と聞かれれば、まあアレのベクトルで話の内容は変わってくるが、それが「手抜き」ということであれば、答えは明白にNoだ。

良い方向にはじけるには文章力と演出技術が必要で、これらが結実するといわゆる良記事や名物記事ができる。模倣者がたくさん現れるのは人気の証拠だ。ただし、模倣記事は二番煎じという誹りを受けることだろう。

翻って、最初からいい加減な態度で適当に書き散らしておいて「アンサイクロペディアだからアレなぐらいでええやんか?」という態度は歓迎できない。即時削除・NRV・ICUといったラベルがすぐさま貼り付けられることだろう。必然である。人を楽しませ、自分も楽しませるのは本当に大変なのだ。

また、執筆放棄をしないことも重要だろう。テーマ、命題、目的意識といったものが必要だということは既に書いた。そういったものはモチベーションとして非常に重要である。しかし、モチベーションだけで突っ走ることも無理なのだ。基礎体力がないのに、いきなり42.195kmの完走に挑戦するのに近い無茶だ。

インパクト[編集]

わざと文体、ページレイアウト、果ては表示を崩すといったインパクト路線は、これまでの時点でかなり開拓されている。よほどの新ネタがなければ、初心者が単発ネタとして出すのは非常に難しいだろう。「まさか被ってないだろう」と思って投稿しても、実は何かの記事の二番煎じであった、という悲劇もあるかもしれない。どんな場合にもリサーチは大事だ。

はじける時も理性を持とう。爆発の初期の版で実例を見たが、中途半端にはじけると消化不良のような印象を受ける。もし鬱積やストレスを抱えているなら、それを笑いの方向に変えて――言うほど簡単にできれば、誰も苦労しないだろうが――はじけてみるのが大事なのだろう。ただ注意しておきたいのは、この方向性はちょっと足を踏み外した場合、荒らしと変わらなくなるという点だ。鬱憤を直接ぶつけてはいけない。

君がもし充分に若いと言えるなら、無理に新規記事で勝負する必要はない。いずれ時間が解決する(社会経験を積めとまでは言わないが、たとえば漫画新人賞の審査等では、そういった方針を持っているところも多いと聞いている)。

赤ん坊は転んで痛さを知り、ヤケドして熱さを知る。若いうちの挫折感は、大人になってしまうと金をいくら積んでも買うことができない貴重なものだ。挫折も屈辱もぜんぶバネにして、ポジティブな方向に利用すれば良い。バネの反動は、バネそのものの強度もさることながら、そのバネがどれくらい引っ張られたかによるところが大きい。

この節の結論[編集]

記事救済にも、編集にも、そしてもちろん新規執筆にも、広い視点と知識、読者層の想定といった配慮があると役に立つ、というのが筆者の個人的な結論だ。

全員が全員そこまで徹底する必要はないが、「そういうことがある」ということを知っているのといないのとでは、後々何か必要に迫られた際の対応の幅が大きく違ってくるだろう。

着想の技術[編集]

Humor must not professedly teach, and it must not professedly preach, but it must do both if it would live forever.

~ Mark Twain

ユーモアは公然と教えてはならず、公然と説教してはならない。だが、もしユーモアを永遠に生かしたいのなら、両方とも実行しなければならない。

~ マーク・トウェイン

念のために書いておくと、この文章自体がマーク・トウェインのユーモアである。公然と教えて公然と説教したものはユーモアではなくなるからだ。

強いて言えば、例外はありうるが、方式論としてということになる。たとえばアネクドートロシア的倒置法が該当する。他にもいくつか方法があるようだが、筆者は実行できていない。

アイデア、着想、ユーモアなどに関しては、解説書が出ているようだし、授業を受けたことはないが専門学校にもコースがあるようだ。しかし個人的には、人から習うものではないと思っている。

何かに集中する時には、適度な騒音と適度な緊張感があることが望ましい。集中力の持続には個人差があるが、30分で集中力が切れる人もいれば、2時間持つ人もいる。ともあれ、日頃忙しくしている人ほど、ぼーっとする(または、できる)時間は貴重だ。脳みそが休まるために、その間に発想が得られるかもしれないからだ。

材料はあちこちに転がっている。同じ材料を目の前におかれても、それをどう料理するかは、やはり10人いれば10通りになるのだ。この点には王道も教科書もない。焦りは禁物、焦ると出てくるものも出てこなくなる。

魔女の宅急便で、主人公のキキが魔法を使えなくなるシーンがある。絵描きのウルスラ姐さんの家に泊まり、キキは「描けなくなったら?」と問う。これに、ウルスラ姐さんは「何もしない」と即答している。宮崎監督の代弁をしていると取れなくもない。

これをアンサイクロペディアに当てはめると、「何も着想できない、執筆できない時は、何もしない。そのうち、何かしたくなる」ということになりそうだ。これはおそらく正解に近いだろう。

ブレイク期間の使い方[編集]

漫画やアニメを鑑賞するのは悪くない。しかし、そこから直接何かを得ようと言うのはどうだろうか。多数の人が読んだり見たりしているからだ。発想力を並行化しても、MAD動画などの元ネタにはなるだろうが、独創的な何かが得られるとは、あまり期待できない。

一部繰り返しになるが、ある事柄を咀嚼して自家薬籠中のものにすることができないのなら、漫画やアニメから何かを得ようとする試みは失敗するだろう。ただ何かヒントを得たいだけなら、普通に民放などを見るよりも、YouTubeニコニコ動画を周って独創的な動画を探した方が良いかもしれない。両方ともサーバ上の制約から、尺は長くて10分程度なので、時間を損したと思うこともないはずだ。「誰が得するんだこんな映像」というものから上手に要素だけを拝借する行為はインスパイヤとは呼ばれないはずだ。

小説を読むのはかなりお勧めできる。ただジャンルを問わず、馬鹿売れしている書物から何かを得ようとしてはいけない。具体的な書名は挙げないが、悪い意味で大衆向けに、すでに判明していることを噛み砕いて書く技術が凄いから売れているのだ。それ自体は賞賛されるべきだが、有名ではないものの「これぞ」という作品は必ずある。それを探すプロセスは面白いものだ。あまり費用もかからないし。

ここまで限定しても、依然としてお勧めできないジャンルはある。たとえば、落ち込んでいる時にロシア文学を読むと、さらに落ち込んでしまう。

テレビを観る。観ていて笑えるのなら改善に向かうだろう。笑えないなら、なぜ笑えないのかを考える時間ができる。または地上波を観るのをすっぱりやめる。筆者は現在、NHKの録画のごく一部(ほとんどは撮っても消している)、ディスカバリー・チャンネル、ナショナル・ジオグラフィック・チャンネルでドキュメンタリーを観て、AXN、スーパードラマTV、FOXなどで海外ドラマを観ている。また、海外報道をなるべく見るようにしている。このため筆者には、日本の事件や芸能界に疎いという致命的な欠点がある。

パターン芝居は日本だけのものだと思っていたが、意外とそうでもないことが分かってほっとした、という一面もある。パターン芝居とは、ドラえもんが毎回秘密道具を出したり、水戸黄門で印籠が出てきたりする、定型があるシリーズ物のことだ。悪く言えばマンネリだが、期待させておき、その期待を裏切らないという構造には、一種の安心感がある。もちろん限界はあるし、脚本を書く側はパターンをなるべく崩さないという縛りを受ける。

映画を観る。巷間で駄作と言われているものでも、「なぜ駄作なのか」と考える時間はある。筆者の個人的な感想では、「大ヒット観客動員数No1!全米が泣いた」というような映画を観てしまうと、映画館を出たあと全俺が別の意味で泣きながら「てめえジェリー・ブラッカイマー(自粛)」式の愚痴をこぼすことになりがちである。もちろん「観るな」といっている訳ではない。

またクロスオーバーな見方としては、原作との対比が鮮明なものが印象深い。特に、ある特撮監督がメインで撮った2本の原作レイプぶりときたら……いやこの話はやめておこう。そもそも本題に関係ないし。

やっぱり書籍か[編集]

やはり書籍の方が面白い。しかし「無人島に島流し。5冊まで持っていって良いから選べ」と言われたら困る。5冊や10冊に絞れる訳がない。1冊はJR時刻表だろうか。

しかし、「これは」というものがあるので提示しておきたい。

  • 筒井康隆著『残像に口紅を』中央公論社、ISBN 4-12-202287-8
    文字が一文字ずつ消えていく、実験小説でありながら切ない小説。
  • ダニエル・キイス著、小尾芙佐訳『アルジャーノンに花束を』早川書房、ISBN 4-15-203393-2
    既に読んでいる人も多いと思うので解説はしない。
  • ロバート・A・ハインライン著、福島正実訳『夏への扉』早川書房、ISBN 4-15-010345-3
    泣いた。

北村薫の時間シリーズ三部作、北村薫と間違えて買った高村薫の「神の火」、ミロラド・パヴィチの本3冊(正確には5冊)など、挙げていけばやはりキリがない。あれ?間違った順番は高村薫を買おうとして北村薫を買ったんだっけな?

小説を百冊ほど読めば「着想したことの99.9%は、すでに世界の誰かがやっている」ということに気付いて愕然とするだろう。少なくとも筆者は愕然とした。しかし、残りの0.1%を創り出せないと諦める必要はない。

面白さに王道はない[編集]

Πάντων χρημάτων μέτρον ἄνθρωπος.

~ Θεαίτητος

万物の尺度は人間である。

~ プロタゴラス

10人いれば10通り、100人いれば100通りの考え方がある。だから世の中は面白い。全員が同じ方向を向いて、全員が同じ考え方をしなければいけない日が来たら、筆者は迷わず自殺するだろう。違いを楽しむことにすら、funやinterestなどが存在する。

つまらないと感じたものがあるとする。それに対して「つまらない」と直接言うことにはほとんど意味がない。なぜなら、「何が」を指摘できていないからだ。トイレの画像を貼り付けて、サムネイルのキャプションに「トイレ」とだけ書く程度に意味がない。キャプションになんと書けば面白いだろうか? その発想も、やはり10人いれば10通りあるはずだ。

観察者たれ[編集]

Wer mit Ungeheuern kämpft, mag zusehn, dass er nicht dabei zum Ungeheuer wird. Und wenn du lange in einen Abgrund blickst, blickt der Abgrund auch in dich hinein.

~ Friedrich Wilhelm Nietzsche - Jenseits von Gut und Bose

怪物を敵とする者は皆、自らが怪物となってはいけない。 また、あなたが深淵を覗き込むとき、深淵もあなたを覗き返している。

~ ニーチェ「善悪の彼岸」

筆者はエクストリーム・NRV剥がさせプレイヤーだが、文章が支離滅裂なもの、1行記事、単なる悪口やプロパガンダ、あまりにもアレで本当に手の着けようのない記事、そういった本当にどうしようもない記事は確かに存在する。

しかし、ユーモアのセンスを問う時にはちょっと待っていただきたい――笑いの基準は個人で異なる(初版執筆者本人だけが面白がっている場合が多いとは思うが)。

居住している地域により笑いの文化も異なる。分かりやすい例を挙げよう。関西地方では、話している相手がボケたら必ず突っ込むのが礼儀である。よって、ボケを失念するという欠礼は、相手からの非難を招く。筆者も短期間ながら体験したことがあるが、これは非常に気を遣うので、笑っている暇はなかった。だから、何か本末が転倒しているような気がした。しかし地域文化であるので、筆者がどうこう言える立場にはない。

毀誉褒貶については、筒井康隆の言葉[2]を借りて、自分なりにアレンジすることにする。

誉められることは、たとえそれが見当外れでも嬉しいものだ。貶されるのは、それが見当違いであればあるほど腹立たしい。

しかしながら、変な誉め方は、時として罪業となりうる。間違った方向に頑張り始める可能性があるからだ。

結論。見当違いの評価は気にするな。

乗っ取りに見る執筆と編集[編集]

まれに「本当にどうしようもない」と思っている記事をNTRる猛者を見かける。初版執筆者でありたいという拘りが見えない(ウィキペディアではそうはいかないことが多い)。アンサイクロペディアの良い特色の一つになりつつあるのではないだろうか。

初版執筆者は、力尽くで乗っ取られ、原形をほとんど留めない形までばんばんレイプされているあいだ中、編集履歴を見ることに気付けばの話だが、NRV剥がさせプレイヤーの編集を目の当たりにすることになる。受け止め方によっては、それは執筆や編集の勉強になり得る。気付けばの話だが。筆者が「仔猫たんがハフィング処分よりはこちらの方が良い」と主張したいのには、そういった理由も存在する。

参考までに、筆者がこのエクストリーム競技に初めて興味を持ったのは、お前らは、あほの項目(の編集履歴)である。

俺の作品は面白いに違いない[編集]

アンサイクロペディアでは、ぼくのかんがえたおもしろい記事多発症という、きわめて重篤な症状が報告されている。これは、側面的には消費者心理で説明することができる。

たとえば、あなたが何か――漫画でもアニメのDVDでも痛車でもデジカメでも鉄道模型でも――いや趣味に限らないが――買ったとしよう。うきうきしながら自宅に戻り、早速使ってみる。うわなんだこりゃ、期待したのと違う……。

こういった時に見られる典型的な反応は、次の通りである。

  • でも、自分で選んで買ったものだ(だから良いものに決まっている)
  • 他社の製品よりはマシに決まっている
  • 粗製濫造になったなあ

個々についてコメントはしないが、これらはすべてプライド、メンツ、沽券といったものに関わる問題で、消費者心理の基本だ。購買者は一般的に「自分で選んでお金を出して買ったのだから良いものに決まっている」と思いたがる。もっとも、本当に品質が下がった分野の製品は存在するが。

これは、創作の過程においても発生しうる。むろん全員が全員ではないが、「おれが脳みそひねって考えた文章だから面白いに違いない」という傾向が出るかもしれないわけだ。前述の消費者心理と構造的には全く変わらない。このつまらないプライドを捨てられるかどうかが、良い執筆者になれるか、それとも問題執筆者になってしまうかの、もう一つの分水嶺になる可能性はないだろうか。

筆者が本書で「自己客観視が重要」と力説する理由は、ここにもある。

俺の作品は面白くないに違いない[編集]

加害妄想であろう。いったんアンサイクロペディアから離れて、ブレイクした方が良いだろう。ブレイクせずに居続けるのは、精神的に非常に良くない。

たとえばの話、たった一人がノートに何か下らないことを書いたぐらいで「貶されているに違いない」などと思ってはいけない。文句を言う人間ほど目立つからだ。特に文句がない場合、普通は特に行動を起こさないものだし、弱さを隠すために攻撃をするという防衛機制もある。

優秀さ、面白さ、狂気[編集]

Sagen Sie ihnen, dass ich ein wundervolles Leben gehabt habe.

~ Ludwig Josef Johann Wittgenstein

皆に伝えてほしい、私の人生は最高だったと。

~ ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン

優れた作品を残している作家や画家、映画監督などには、他の集団に対して極端に病歴を持つ者や、非業の死を遂げた者が少なくなく、かつそれには家系的な要因(つまり、遺伝)が関係している、という研究がある。離婚の時に捨てられてしまったので手元にないが、Scienceでそういう論文を読んだことがある。

アルコール依存症が進行しすぎて、自分の耳を切り取り、のちに自殺したゴッホ。生存中の出版は2冊、肺炎で死亡、その後に評価された宮沢賢治。妻子を捨ててランボーと同棲したが、別れの際、痴話喧嘩のもつれ[要出典]から相手のランボー[F 1]を拳銃で撃ったヴェルレーヌ。市ヶ谷駐屯地(現防衛省)で自衛官に矜持を説いたあと割腹自殺した三島由紀夫。ライフルで自殺したヘミングウェイ。自殺未遂のあと収監され、獄中で死亡したモーパッサン

なんだ。みんな病気なんじゃん。だったら筆者も問題ないな[F 2]

完全主義すぎても良くないようだ。自分に厳しすぎると非常に生きにくくなる例としては、ヴィトゲンシュタインがいる。ただし、本人はそれを良しとしていたようで、今際の際の言葉は冒頭に引用した通りである。筋金入りは違うということなのだろう。

だが残念ながら、たいていの人は筋金入りではない。それに、流れに無理に棹を差しても生きにくくなるだけなので、やめておいた方が良いだろう。むろん筆者にも言えることなのだが。

  1. ^ もちろんスタローンの映画の方ではない
  2. ^ それはどうかな

批判、批評、評価[編集]

やって見せて 言って聞かせて やらせて見て ほめてやらねば 人は動かず

~ 山本五十六

批評と批判は異なる。単に他人の揚げ足を取ったり、嘲り笑ったりする行為は、批判とすら呼べない。

これに対し、自己評価は不当に高くてはいけないが、不当に低いのもいけない。自分で自分を正しく評価するのは極めて難しいことだ。

また、人間を新しい方向に歩ませるのも難しい。正当な仕事をした者には正当な評価が与えられるべきだ。ぶっちゃけ「ほめてあげる」。これだけである。しかし、照れくさいため(筆者も含め)なかなかできることではない。こういった事情から、バランスの取れた評論をする者が複数居る必要がある。

水増しの功罪[編集]

Cure the disease and kill the patient.

~ Francis Bacon

病気は治ったが、患者は死んだ。

~ フランシス・ベーコン

ここまでの文章のように、どうでも良いことを多数織り交ぜて文章の量をいたずらに増やすのは、非常に望ましくない。5000バイトの壁など、色々な壁に拘泥するあまり、あなたが書いた文章の持ち味を殺すことにもなりかねない。

ときに、自分の乳が小さいことを嘆く女子は、少なからず存在する。まったく嘆かわしい話である。なんということだろうか、もったいない。これについては実際に説教したことがあるので、ひとつ恥を晒しておく。

まず、人間の痛点の数は人種性別関係なく、かつ、生涯を通じて変わらない。これは貧乳であろうが巨乳であろうが同じことである。巨乳の場合は乳の総面積が広くなり、貧乳の場合は狭くなる。すなわち、痛点の相互の位置は、巨乳では長く貧乳では短くなる。これが何を意味するか、聡明な読者にはもうお分かりだろう。

巨乳は感度が鈍くなり、貧乳は感度が良くなるということなんだよ!!!
Ω ΩΩ<な、なんだってー!!!

この説教により、片パイ60万円(当時)の豊胸手術を受けようとしていた女子を思い留まらせたことがある。今となっては良い想い出で、どこでどうしてるのやら、あっ思い出した、人間の身体には異物を押しだそうとする働きがあるので、毎晩自分で揉みながら豊胸バッグの位置を修正しないといかん、って説教の方が効いたわ。ごめん今の忘れて。

とまあ、このように脳が勝手に受信したどうでも良い話で記事を水増しするのは非常に良くない。上の段落は「貧乳はステータスだ。希少価値だ!」で済む。

でも豊胸手術って冷静に考えたら水増しには違いないわな。本来ないものを無理矢理別の手段で足すんだから。

何が言いたいか全く分からないと思う。わざと話を逸らしたので俺大勝利。本当に主張しておきたいのは、貧乳の方が感度が良い、いや違う、文章が短くても濃度が高ければそれで良い、ということだ。

具体的には星新一のほとんどの作品が好例となるだろう。中編でコンスタントに揃っている例としては、アイザック・アシモフの『黒後家蜘蛛の会』(1~5巻)が参考となろう。

記事を書いたあと[編集]

あなたの設計通り、冷静かつ情熱的に、画面をキャンバスとして記事を書くことができただろうか。おめでとう。投稿する時が来た――だが待ってほしい。本当にアップロードしても大丈夫か?

「っていうかまだあんのかよ!」という声が聞こえてきそうだが、先を焦ってはいけない。

校正[編集]

率直に言うと、この文書は4回プリントアウトして、赤ペンだらけにしている。B4の2段組にして、最初はフォント12pxで8ページ、直近は10pxで32ページある。

一旦紙に出すのは、エコロジーの観点から言えば鬼か悪魔かといったところだろう。しかし、これはアップロードした直後に「 これは細部の編集です」をやらかさない工夫の一つなのだ。原稿が長くなればなるほど、この手法は通用する。

それでもやらかす時はやらかすけどな。

アップロード[編集]

校正は終わっただろうか。ここでようやく投稿の段に来た訳である。おめでとう。自分が投稿したものは、自動的にウォッチリストに入るはず、確か。気付いたらメンテナンスもしておこう。

秀逸記事入りを目指すという次のステップもあるが、魂を込めて書いた記事はまずスルーという現象もある。閲覧数が物差しになったりならなかったりという少々込み入った事情もある。反響がなくても気にせず、次にかかるぐらいの図太さを持とう。

参考になる項目[編集]

参考となるもの、あるいは良い反面教師、色々とある。読み歩いて生きていくのに本来不必要な知識を充実させるのは、あなたを助けたりあんまり助けなかったりするだろう。

あくまで筆者が気付いた例であり、リンク集ではないので、他にも多数存在することに注意されたい。あなたがその気になりさえすれば、ヒントはあちこちに転がっている。

すばらしい反面教師[編集]

誉めてるか貶してるかで言えば、誉めている。下記の他にもあります。

結論[編集]

  • 許される限度までゴリ押ししろ。
  • まず自分で調べろ。それで分からなければ他人に聞け。
  • 「自分だけが知っている」という考えは思い上がり。自分もな。
  • もがけば道は開ける。だが無理だと判断したら、さっさと諦めて次へ行け。
  • 道筋は一つではない。

くどいようだが大切なので繰り返す。10人いれば10人みんながみんな違うからこそ世の中は面白い。全員が同じ方向を向いている必要はない。だから筆者は、ウィキペディアを離れてここに居る。

あとがき[編集]

剣をさやに収めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。

~ マタイの福音書 26:52[G 1]

諸兄姉も「画面の向こうには人間がいる」ということをお忘れなく。

……読み返しても、自分で書いたことが全部自分に戻ってくる。痛いなんてもんじゃない……。

  1. ^ 『聖書 新共同訳』日本聖書協会、1995年、ISBN 4-8202-1138-2、無神論者だが参考文献として無難なものを購入

参考文献[編集]

  1. ^ p.271、田中春美、樋口時弘、家村睦夫、五十嵐康男、倉又浩一、中村完、下宮忠雄共著『言語学のすすめ』大修館書店、1978年、ISBNなし *3080-210710-4305
  2. ^ 筒井康隆著『乱調文学大百科』講談社、1972年、ISBNコードなし;角川書店より1986年再刊 ISBN 4-04-130517-1

関連項目[編集]


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本項は第10回執筆コンテストに出品されました。