UnBooks:4コマよみに与ふる書・2巻

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4コマよみに与ふる書・2巻(とりあえず、その4コマのなにがおもしろくないかぐらいはしっておいてくれ)とは、ごく当たり前なひょーげんといわれる何かを、4コマ漫画を使って説明する。ただそれだけである。

へんしゅうしゃさんへ[編集]

その昔、劇作家及び演出家として一世を風靡したつかこうへいは、「演出家の仕事とは、主演女優の月経を予想するのが仕事」という、実にミもフタもない、なおかつどうしようもない表現の真実を言い当てたことがある。これは、女性作家及び編集者が軽く50%を突破するレベルで増えている昨今の4コマぎょーかいが、いずれぶち当たるか、すでにぶち当たったであろう大きな壁である。

それが分かっている編集者は、月一の体調不良を考慮してスケジュールを組む。分かってない連中が、作品をダメにしていく。これについては、ぜひとも、表現に耐えられない体調というものが実在することを肝に銘じてほしい。女性編集者なら大丈夫だろうけれど、作者の体調や精神の不安定さを読み取れる読者もいるってことを理解してほしい。

さらに、作者の精神的な周期が分かっていたとしても、一度売れてしまえば、スケジュールなんざごったごた、それにあわせて体調もどーろどろ。月経の周期?何それ?おいしい?というのが当たり前な状況に陥り、最終的に自身の健康の悪化にまでいきついた結果、ひょーげんの継続自体がきつくなってしまうことも多々ある。いわゆる体調不良というやつである。あわせて、このような状況は、明らかに男性作家よりも女性作家のほうが精神的に厳しいことも確かである。

・・・月経を太字で書いた人間が、更年期障害を書くことを恐れると思うか?

つまり、そういうことである。しかも、良質な発想が湧いて出てくると思える期間なんてものは、えてして体調や精神が良好な状態であるごくごくわずかな時間しかない。そこを過ぎてしまえば、後はゆっくりとした下り坂か、もしくは急降下か。そこから這い上がるのは、並大抵の苦労ではない。その中で、ある人はで身を持ち崩し、またある人は現実逃避の結果、ギャンブルやら宗教やらなんやらかんやら・・・。

そのため、この記事では、とにかく多くの4コマ作家が生き残れることを目的に、色々と書く。

なお、正々堂々と真実の名の下に、禁忌へ切り込むってのも、忘れられないための重要な手段の一つである。

4コマ作家の死[編集]

タブーついでに、についても語る。

1980年代のまんがタイムにおいて「うっかり父さん」という家族向け4コマを書いていた鈴木ひろしという作家がいる。いや、いた。80年代の半ば、雑誌の形態の定まらなかったまんがタイムにおいて、連載陣の入れ替わりの激しい中を、数年にわたって生き延びた氏は、4コマ作家としてまさにこれから油の乗り切ろうという中、心臓の病で亡くなる。

まんがタイムの黎明期に、30代半ばで亡くなった氏を覚えている人は少なく、その死についても、まんがタイム誌上で編集部からのお知らせとしてわずかに掲載したのみ。今では、インターネットの中ですらその情報を得ることは難しい。

それに比べれば、まんがタイムポップまんがタイムジャンボに「おサケの星座」を掲載し、多くの4コマ漫画作家とも交流があった倉田ジュリさんは、2005年にガンで亡くなった後も友人たちが彼女の作品を後世に遺し続けている分、忘れられないという点においては幸せなのかもしれない。

しかし、4コマ作家の中でも大家と言われる人々は、後世の人が忘れようがどうしようが関係のないぐらい、表現に特化した人々がいる。実際、幾人もの作者が、その死の直前まで作品を残し続けており、忘れる忘れない以前に、壮絶すぎて悲しくなる。38年間新聞4コマを提供し続けた鈴木義司氏は、代表作「サンワリくん」の最終回の2週間後に死亡し、スヌーピーで有名な「ピーナッツ」をおよそ50年にわたって連載したチャールズ・シュルツ氏は、その死の翌日に、作品の最終回が発表されている。ここまでくると、作品よりも、生き様のほうが見ごたえがあり、彼らの歩んだ道のりを味わいたくなる。

結局のところ、ひょーげんというものは最終的に、そこに落ち着く。気がする。作品は忘れられても、作者を忘れられなかったら、そらあ作者の勝ち。編集者の勝ち。出版社の勝ちである。

ファンというもの[編集]

4コマ業界というものはニッチなくせに入れ替わりが激しく、多くの才能にスポットライトを浴びせないまま静かに深く埋もれさせていく世界である。けれど、デビューから誌面での生き残り競争を経て、会社の枠組みを越えて多くの雑誌に寄稿し、単行本も何冊も上梓してその後、自分のペースを確立。ゆるゆると作品を啓上しながら各雑誌において、この人がいないと読んだ気がしないと思われるようになると、少なくない読者がその存在をありがたいと思い、心からの感謝を残すことも確かである。

2012年11月16日、北海道在住の4コマ作家、野中のばらさんが現行の作品を数多く残して逝く。そのデビューから生き残りをかけた模索と、スタイルを確立させてからの活躍、さらには第一線を退いてから、忘れられない4コマ作家となるまでの苦闘も含めて、たった23年しか楽しめなかったと嘆くべきか、23年間ありがとうと感謝すべきか。とりあえず、もう30年楽しみたかった

萌え4コマのブームの中、4コマというものの存在価値が根本から入れ替わった時代を自分の実力で生き残った数少ない王道4コマの作家が一人いなくなる。生き残った人数を両手で数えられた中の一人がいなくなる。

たかが4コマ漫画作家の死に、これほど時代というものを感じざるをえないというのは、それだけ彼女の残したものが大きかったという話である。

孤高なる植田まさし氏 その1[編集]

植田まさし氏の作品に見られるテクニックをいくつか紹介・・・といいつつ、最初はテクニックなんざまるで関係ない話から始める。

まず、昨今のストーリー4コマの弱点として、時系列や場所といったシチュエーションに囚われすぎるという面がある。これは、学校なら学校のネタ、会社なら会社の内部だけ。たまに旅行に行ってもその描写ばっかりという形で、ある意味、作者の箱庭の中でキャラが自由自在に動き、そこからネタを形成する形で創作がなされている。まぁ、80年代のRPGのようにストーリーは一本道で容量に制限がある分、想像で補うことを前提にしている。

わるかないが、誰もが通るという点においては修羅の道である。ネタがかぶるならまだしも、シチュエーションがかぶるといろんな意味で悲惨なことになる。実際、雑誌内で作品の設定等をかぶらせないことは出来ても、雑誌外で流行のネタがかぶるなんて話はザラにあるわけで。

しかしながら、氏の作品は逆に、様々なシチュエーションのほうをネタにすることに大きな特徴がある。他の作品が一つか二つの場所のネタしか描かない中、氏の作品では、当たり前のように旅行や出張に行き、などの各々の場面を1つのネタにしている。その他にも、葬式結婚式成人式節分バレンタインなどの様々な光景をネタに組み込むことで、おっそろしいレベルで他作品との違いを演出し、ネタ切れを防いでいる。その他にも、爪きり湿布ゴルフクラブ野球の道具、そういった小道具にも腐るほどネタは詰め込まれている。

てゆうか、世の中にどんな場面や光景、品物があるかを考えれば、ネタ切れになるわきゃない。

もっとも、氏の作品の中にはその名のとおり駅のネタがほとんどを占めたキップくんや描写がほぼ田舎で固定されていたにこにこエガ夫のような作品もある。正直なところ、この2作品については、びっくりするほど作風が違うと感じることが出来る。ただし、面白くないわけではない。けれども、1つのシチュエーション内において、いつまでもいつまでもネタを拾い続けていくことは、いかに辛いかもよく分かる。読者を飽きさせないような仕込みが大量に備わっている状況と、そうではない状況との差は、4コマの世界では富に大きい。

実際、どんなにネタが面白くても、同じ状況が続くようでは飽きがくる。読者も、それ以上に作者も。だからこそ、場面転換も気分転換も重要なファクターになり、それが厳しい主題、特に学生生活などでは継続及び精神的なスタミナの維持が難しくなっていく。

ただし、シチュエーションが限定されている題材でも、人間関係を駆使すれば十分にネタを確保できる。中でも、小坂俊史氏の「先生になれません」では、教師や生徒との人間関係をふんだんにちりばめることで、学校というありふれた題材を、おっそろしいまでのネタの海に昇華させている。

そもそも、教師仲間はもとより、生徒79人(1人転校)の名前を決めて全員の性格付けをやりきった段階で、そらあ他の作品とはケタが違う、とかいう話になる。しかも、保健室や家庭科室、桃山といった固定ネタを組み込むことで、植田まさし氏とは逆、流動的な人間関係のネタを描きつつ、同じ場所、同じ場面、同じシチュエーションのネタをあえて挟み込むという独自の表現を貫き通すことで、小坂氏もまた孤高への道を歩み始めている。

まぁ、言いすぎの気もしなくはないけれど。

生活[編集]

4コマぎょーかいが長年悩んでいる法則の一つとして、会社イチオシの作家が出てくると、3年持たずに燃え尽きるという、別におかしくもなんともない話がある。まぁ、そうならないツワモノが近年数多く出てきたことはうれしい限りではあるけれど、90年代から2000年代にかけて、4コマ作者の燃え尽き具合にはすさまじいものがあった。というのも、当時の4コマ漫画は、新聞4コマのごとくに1つの作品を骨の髄までしゃぶりつくすがごとくに積み重ねることが当然だったため、ヤメ時が分からなかったという話である。無限に題材が湧いてくるような設定ならまだしも、読者が面白いと感じているうちに次の作品に移行できなかった作品の多くは、作者もろとも消えていく運命にあり、雑誌の巻頭を飾った大人気4コマも数年で終わるような事態が続発。逆に、雑誌のメインでなければ第二弾、第三弾でもっと作品が見れた、もう少しもったのかもしれないと思わせるような才能がいくつか存在した。

実際、デビューしたての4コマ作家の多くは初めての掲載作、もしくは初めての単行本作品を愛する傾向が強く、愛しすぎる傾向はなお強い。当たり前だけど。しかし、星の数ほどもある4コマ漫画の中で、5年持つものは極まれであり、10年持ったらほぼ奇跡。20年とか30年とかいう話だと、化け物以外の何物でもない。これは、人気の話もさることながら、作者の才能がどこまで継続するか、作者の精神がどこまで持つかという話になる。分かりやすくいえば、長年の創作生活を崩して体調も崩して精神的にも追い込まれて、結果、作品の質がダダ落ちて、人気もろとも消えていくよーな悲劇をいかに回避するかについて、当時の4コマ雑誌編集部にはけーけんの蓄積がなかった。

あと、ファンの暴走についても。これは、まぁ、まんがタイムきららにのみ存在した話だけれど。

こういった問題は、その後、まず生活を切り崩して創作に当てる人々ではなく、まず生活を大事にして作品を創り上げる主婦層が雑誌のメインとなっていく中で解消されていく。そのため、2012年現在、4コマ漫画内にタバコギャンブルのネタがすくねーのは、ある意味、健全化された結果でもある。

なお、そういった要素は全部、おとぼけ課長のネタに存在する。生活感あふれるネタの中にまぎれて、80年代より連綿と存在し続けている。そういった非日常をさしはさむことで、より日常が映える。それができないと、燃え尽きやすい。色々と。

人ばかり/描いてどうする/花の山[編集]

その昔、岡山県に、風士梅員という俳諧をよくする人がおり、彼が17歳のときに詠んだ句に松尾芭蕉が感動したという話が残されている。不幸にも若くして亡くなったとされ、本来ならそのまま歴史に埋もれるはずの人であるにも関わらず、彼の残した一句は、その後400年にもわたって詠い継がれている。

山寺や/ただの桜が/二三本

確かに、古池のカエルにわびしさを見出した芭蕉が嘆息してもおかしかない、何も無さである。これとは逆に、芭蕉の弟子の宝井其角が残した桜の句に、わびしさとは正反対のにぎやかしさを多分に含んだ作品がある。豪商、紀伊国屋文左衛門がある日の酒席にて、其角にお気に入りの桜の屏風に一句頼んだところ、最初にとんでもない言葉を書いて文左衛門が一瞬、気色ばませたとされるその言葉はしかし、最後の一言で一気にを待ちわびた人々の息遣いを感じさせる名句となる。

この所/小便無用/花の山

このように、17文字の中から人ごみやらせわしなさやら何やら溢れ出るような、シャレっ気たっぷりの一句も、毎年桜の季節になるたびに巷間で詠われつづけている。

どちらも、なんて言葉をまったく使ってないところに表現のヒントがある。

というのも、上記の2つの句のどちらも、一生のうち、或る一瞬にふと口ずさみたくなる瞬間がある。もしくは、昔を思い出すきっかけのような、多くの人々があるあると思い描くような記憶と結びつく。心に残る表現とは、まぁ、そういうものである。そういうもんである。

というわけで、読み手の一生の中にある情景やら記憶やらに結びついたり、また、そういった経験がなくても、いずれ同じような光景を目にするような作品について、実は、ちゃんとしたテクニック、技術が存在する。4コマでそれを表現する場合、どんな絵を描けばいいかというと、いい背景、いい構図、小道具に、聞こえてくる音、そして出来れば息遣いをしっかりと書き、なるべく人を描かないことである。訂正、できるだけ顔を描かないことである。修正、前向きの体でないと厳しいなら目を描かないことである。さらに付け加えるなら瞳を描かないことである

人、顔、目、眼の記憶というものは皮膚で味わった記憶を忘れさせる効果がある。

実際に使用された例を挙げるなら、プロジェクトXの再現VTRやどこぞの乞食坊主の詠う「うしろすがたのしぐれていくか」のように、顔を見せないことで、背中空気を感じさせたることで、読み手の中にある記憶の爆弾に火がついて、きょーれつな一体感をかもし出して一気に心を持っていくのである。

そこにネタやらなにやら笑いを組み込めれば、4コマ漫画どころか、表現者としてかなりのレベルにあるといえる。けれど、相当難しいことは認める。なんせ、他人の過去やら行く末を想像してその記憶に引っかかるようなネタを組み込んで作品を創るなんざあ、よっぽど表現にアブラが乗っていないと難しい話なのだから。けれども、もう1回書く。

人の過去を、生き様を、想像して、その記憶に、引っかかるように、表現する。

そういった技術やらなにやらが詰め込まれているのは、実は俳諧よりも川柳一択。江戸時代の情景をこれでもかこれでもかと切り取って後世に残しまくるその様は、ある意味、これからの4コマ漫画が目指すべき場所だったりもする。50年後、100年後を見据えたら、だけれどもさ。

川柳の落とし穴[編集]

もっとも、そういった技巧を持っているはずの川柳という文化が、江戸時代以降、徐々に先細りしていき、現代では廃れかけているにはワケがある。まず、あるあるネタを狙いすぎて、あっという間に創造の源泉が枯渇したこと。と、言えば聞こえはいいものの、ようは似たようなネタが氾濫しまくったこと。技巧に走りすぎて、初心者にはなんのことだかさっぱり分からなくなってしまったこと。こういった話が積み重なっていった結果、川柳の持つ情景を切り取る技術、「うがち」が後の世に引き継がれず、結果、文化的にも先細りしていくことになる。そのことを示すために、以下に、分かる人間には分かる川柳を2つ書いてみる。

弁慶と/小町は馬鹿だ/なぁカカア

明日にでも/剃ってくんろと/飛車が成り

最初の句は、武蔵坊弁慶小野小町が生涯異性を知らずに過ごしたことを詠んだものであり、後者は髪結い、現在の床屋で待っている際の将棋が白熱している情景を詠ったものである。分かっている人間には、ものすごくよく分かりすぎて楽しくなる一句でも、分からない人間にはなんのこっちゃかさっぱり分からない。しかも、この程度は序の口、川柳文化が隆盛になればなるほど、こういった分かる人には分かるというネタがひどいものになっていき、仕舞いには川柳の解読書がないと何を言ってるんだかさっぱり分からない作品が大量に残されることになる。

で、どうしてそんな話になったかというと、まぁ、ぶっちゃけ、一番の原因はエロに走ったせいだけれども。そもそも、平安時代から連綿とエロい話が残され続けている日本という国において、新しい表現媒体が生まれれば即エロにつながることはもはや明白どころの騒ぎではない必然である。そのため、高尚な俳句が陥らなかったその手の落とし穴に、川柳と川柳の愛好家たちは自ら進んで飛び込んでいき、戻ってこなかった

残されたものは、難解極まりないまるでなぞなぞのような句の塊。というのも、そういう形にしないと、当局から目を付けられるのは、江戸期でも現代でも同じ。むしろ、よくぞここまであからさまな話を江戸時代に残せたなと思うような作品も数多く存在する。けれど、まさに初心者お断りの難解な作品が、川柳の窓口を確実に狭くし、後世に作品を残す際に大きな障壁となったことも確かである。

しかし、世の中は実によくしたもので、そういったエロの古文書と化した川柳を、決死の思いで解読していった人々がいる。特に、1775年から1801年にかけて編纂された誹風末摘花と言われるエロ川柳の集大成が現代まで読み継がれているのは、明治末期から大正時代にかけて、失われつつある日本の文化を後世に伝えようと努力した名も無い人々の苦労の賜物である。

といえば聞こえはいいものの、ようは、つまり、なんというか、その、現代に通じる、日本人によく見られる、ウィキペディアを一大ポルノサイトへと変貌させた人々によく似た、むしろ、まったく同じ情熱である。大変にありがたいんだけれど、説明するのにこんなに困る話はそうないわな。ありがたいんだけれどもさ。

4コマでも同じである。むしろ、全ての表現においても同じである。エロに走ると大衆は離れる。そらあ、子供が詠んでみたくなるような、子供が創造したくなるような作品と受け皿の中に、大人しか分からないものがあふれれば、先細りになるのは当たり前だわな。けれども、エロはエロで、こりゃまたとんでもない情熱を持って引き継ごうとする人々がいるのがたまらない。とりあえず、どっちがいいとか悪いとかではない。世の中はそんなもんだ、というしかない。

と思うしかない。

同じ表現の繰り返し[編集]

へんしうしゃさんへ。

同じ構図、同じポーズの4こままんがを、3ヶ月連続でかかせたら、作者死にませんか?作者のさいのーは大丈夫ですか?自分のちぇっくのーりょくは大丈夫ですか?読者のれべる低下にちよつけつしませんか?なんで同じ顔の向きをえんえんとくりかえさせるんですか?たまには後ろ姿をさしはさんでもいいのでは、ないですか?どうひて、ひととおなじひよーげんばかりやらせるんですか?おもしろさが全て病にりかんしてませんか?

人にめーわくかけるよーな作品にしてませんか?でつさんがくるつたぱあつがおかしな作品をみてると、心がふあんになりませんか?なぜ、書き直させないのですか?載せたしゆんかんに、読者があきらめるよーな作品はそれを選んだにんげんがわるいのではないですか?瞳の種類をかきわけさせてますか?読者に、てぬきだとおもわれてませんか?背景が映える構図をじゆくちしてますか?きやらをたたせようとして、逆につぶしてませんか?笑いはひとつしかないとさつかくしてませんか?表現をとじこめてませんか?ひととちがうひようげんにちやれんぢさせてますか?ひとと違う表現を怖がってませんか?パクるんではなく、自分だったらこうするという視点を失ってませんか?たとえ血まみれになつても、一つの表現を貫きとおすことでいたることのできる地平があると思いませんか?

おろかしさに涙できますか?わらわせてもらつてかんしやできますか?小道具を魅せる書き方を知ってますか?時代にへーこらするのではなく、自ら時代を創り出す気概はありますか?表現で人を殺せますか?感動に疲れるよりも心休まるほうを好む人々に気づいてますか?面白さの奴隷になつてませんか?おもしろくなくても場を引き締める表現があることを理解してますか?捨てネタが一番気をつけないといけないことを分かってますか?

神を細部に宿らせてますか?同じリズムを繰り返しすぎると心が疲弊していくことを感じられますか?表現の半分は伝え手の信用だと思いませんか?信用を失ったとしても、やりたい表現があると思いませんか?同じ表現を繰り返す際は、技巧よりも切なる想いを乗せた方が、より深く心に届くことを知ってますか?小ネタをはさむよゆーはありますか?時間に追われてバカを見てませんか?春、桜の季節の空気が心に届いてますか?夏を想いてあの日差しを思い描くことができますか?立ち止まった一瞬の秋を感じたことがありますか?人々の心休まる冬を愛した詩人がいたことを、想像できますか?

表現は、気の狂うほどの繰り返しの積み重ねでしょうか?それとも、一期一会の一瞬が全てでしょうか?

ポージング考[編集]

同じ構図病に罹患している人どうしたらいいか分からないへんしうしゃへ送るてきとーな話。

その昔、というか相当昔。小学生の読む雑誌では、バレリーナの漫画が大流行でした。目が☆だらけ、頭身がおかしい、展開がパターン化されているなど、突っ込みどころが大変多い作品がほとんどでしたが、それでも多くの小学生女子をひきつけてやまず、10年も20年も30年も同じ雑誌に同じ題材で、作者を変えて連載が続きました。

てゆうのも、バレエてえものは、特にポージングに破壊力があり、止め絵にするのに最適な材料が出揃っていたため、見開きで白鳥の湖のオデットでもバーンと出せば、耐性を持たない少女たちの意識は、まるで太陽にほえろのジーパン刑事殉職シーンのように「なんじゃこりゃああ!」と食いつくのは当たり前なわけで。

で、なんでこんな話を4コマなぞという世界で語るかといえば、ひとえにひらのあゆさんの諸作品に切り込むには、ここしかないためである。

バレエ漫画のいいところは、指先まで手を抜かずにちゃんと書かないと読者が食いつかないということであり、書いてる作者も題材にほれ込んでいる以上、そこを手抜きせずにしっかりと描き、さらにネタ元となる本物のバレエではより深い表現である視線重心、さらにはバランスといった「物凄さ」を感じさせるものを、ダンサーたちが聴衆の目には見せないで感じさせている。一瞬すぎて脳が理解できないスピードで物凄いものが通り過ぎると、人間の脳には驚愕しか残らないようになっている。

多くの人間に見えていないのだけれども、無意識に脳に感じさせる表現がそこにある。その表現を、バレエ漫画に従事したもろもろの作者たちが手抜きしなかった結果、世の中には、こんなにも人の心を動かすポーズがあふれているということを一部の人間に気づかせることになる。

適当な話だけれど、自信を持って適当に言う。

とくに、世界のトップクラスになると化け物ぞろいといいたくなるほどの表現者が出揃っており、ルドルフ・ヌレエフマイヤ・プリセツカヤなどの世界の頂点を極めた人々の映像を見ると、「人にどういった感情を抱かせるかを計算しつくしたポージング」に満ち溢れている。心酔どころの騒ぎではなく、人によっては完璧に神格化レベルまで到達するようなパフォーマンスがそこかしこに散見され、実際に、として崇めている人も多いのも納得できる。

幸い、似たような話は日本にもたくさんあり、歌舞伎新国劇、果ては殺陣も含めれば仮面ライダー秘密戦隊シリーズにいたるまで、伝統的な「視聴者の心わしづかみなポージング」がそこかしこに山のように存在する。のだけれども、悲しいかな、4コマの世界で、そこからネタを持ってこれる作者は少ない。そのため、ひらのさんの作品のように「読者にどう思わせるかを計算して」ポーズ、構図、ネタ、ストーリーを組み立てる作品が少ない少ない。

顔ばかり目立たせて、キャラを突っ立たせてるだけの4コマと比べれば、天と地、月とスッポン、提灯と釣鐘、どころではない騒ぎで表現のレベルが違いすぎる。

そもそも、揺れる想いを表現するのに、知らん連中はセリフや色彩や特殊なスクリーントーンにベタ塗りなど、ネタ数が限られるものを選びがちになるのだけれど、そもそも、バレエも含めた演劇の世界では、そういった感情を表すポーズに小道具に詩の一節やら果ては照明の技術まで、何でもかんでもそろっている。も一回。何でもかんでもそろっている。当然、門外不出だけれども。ずえんずえん外部に対する説明もなんもないけれど。そういったネタの塊に気づかずにマンガならマンガだけ、4コマなら4コマだけで伝統を引き継ぐのもちと悲しく、相当苦しい話である。ま、少ない題材で四苦八苦していくってのも大事な話だけれどもさ。

ちなみに、ネタの一つとして「バレエでどうして回転しているのに顔の印象が強く残るか」という秘密を暴露するなら、体の回転よりも早く首を回転させ、一瞬早く客席のところで顔を止め、そのまま体を回転させるけれど、ぎりっぎりまで首を回転させないことで、客席に表情を残すという技術を駆使している。世界のトップダンサーの回転を見ると、回転とはスピードではなく、いかに客席に表情を残すかがポイントとなっている。まぁ、表現の基本っちゃあ基本な話であり、そのことで見ている側の脳がどう働くかも計算しつくしていることがただただ恐ろしい。

最後に、正々堂々、ポージングの極地でもある暗黒舞踏系の話をするならば、とりあえず、以下に記載するリンク先の映像を見てマネできる、もしくは取り入れるものを見て取れるならぜひやってみるべきである。食い殺されてもしらねーけど

仕草考[編集]

4コマ漫画には、上記のポージングが難しい場合がある。それはデフォルメやキャラ設定によって頭身が短い場合、人の視線を集めるような姿勢やらポーズをしてもさほどふつくしいと思わせられない場合もある。もちろん、パタリロやら奇面組やらの時代から、それこそ杉浦茂の代表作、猿飛佐助まで含めて、2頭身~4頭身のキャラクターにポーズを取らせて読み手に面白いと思わせることは出来る。確実に出来る。

しかし、2頭身のキャラクターに美しいポーズが出来たとしたら、それは奇跡である。

バランスというものは、えてしてそういうものである。もっとも、そういった頭身の少ないキャラクターにも美しい表現は存在する。ポージングが体全体を使って手の先から足の先まで表現の塊にするとするなら、こちらはある体の一部を集中して表現することで、場面場面に彩りを添えることが出来る。それは2頭身でも8頭身でも関係なくコマ内にて読み手の視線を集める効果を及ぼす。それこそが、仕草になる。

ある意味、文化に則した体の動きになる仕草は、とりあえず、4コマで表現する場合は、体のごく一部、主に手先と体のねじれ視線腰の位置を集中的に表現することで効果を表す。実際、たった一つの仕草で多くの作者と違う、自分だけの世界、自分だけの視点を描ける。てゆうか、4コマ業界を20年以上にわたって生き抜いた猛者たちは、そういった小さな表現が異常に上手い。てゆうか、2000年代後半から、4コマ業界にデビューする新人が、おっそろしいレベルで1コマごとのキャラの描写がヘタというのが根本に存在する。顔重視の萌え文化を象徴する悲しい真実である。

ちなみに、仕草において最も怖い話は、仕草がいわゆる作法と呼ばれるしきたりに密接に組み込まれて、いわゆる古来より伝わる礼法と言われる存在と深く濃く、がっちりと絡み合っていることから、たとえば、茶席での仕草一つで、言葉で伝わるよりも早く、その人間の素性がわかってしまうという、じつにまったく日本らしくて仕方ない現実がそこにある。

実際、礼と呼ばれる存在が、いかに他者にどう思われるかで培われた一つの学問であるかを理解しているならば、それは当然な話である。出なければ、無礼などという言葉は存在しない。事実、中国から日本に「礼記」なる礼に関する教則本が伝わって以降、その概念に則って様々な文化が形成されていった歴史があるため、一つの仕草が意味する情報がそれこそむちゃくちゃ多かったりする。あわせて、そんなクソ大事なことを人々の営みの積み重ねに気づかない作者が読者にどう思われるかを考えると、多分、何も気づかないうちに見捨てられる。確実に。そらあ、無礼であることを前提とした物語は別だろうけれど、普通の話に礼を逸する表記があったなら、それは明らかに作者の質をおもんぱかるきっかけとなる。

もし、正月の初詣の描写で、何も知らぬ作者が振袖を左前で描いた段階で、日本という国でそれが死者に着物を着せる作法だということを作者&編集者が知らないということが明確になる。これは、作者のレベルを知らしめるという点において悪夢である。

実際、数多くの日本の伝統行事の中において、作法と仕草が一つの約束事として存在し続けている。そのため、いきなりそれをぶち壊すような表現をしたら、そらあ見ているほうは突っ込みたくなる。もし、日本の歴史を舞台にした作品を表現するのに着物日本刀、日本家屋の間取りや当時の生活規範といった話を熟知せず、時代考証をガン無視で作品を創ったら、いつかは、飽きられる。むしろ、呆れられる。それぐらいに、民衆の培ってきた文化というものは重い

あわせて、そういった仕草を表すためには、単純な行動のほかに、指先の動きや視線の向き、体の動きや着物の着付けといった話までひっくるめて、最終的には作者及び編集者の知識や常識度、さらには調査力のあるなしまで試される話につながる。茶道生け花柔道剣道空手まで、伝統によって培われた文化の描写については、多くの約束事に沿った表現が求められる。

さらに、礼法と言われる学問を知るか知らないかは、表現においても明確な差になる。知っててぶち壊すほうがより面白くなるけれども、さ。また、そういった知識を知らずに読者の反応を計算できるわけはないため、知識のなさや異文化の違いといったネタの王道を表す際、読者に作法を教唆できるレベルと、何も知らないレベルでは、結果は明らかである。面白いネタも大事であるけれど、忘れられないネタも大事であるからして。

他にも重要な点として、礼法、作法とは関係ないところでも仕草というものは存在している。昨今の4コマでほぼ絶滅危惧種となっているタバコ一つとってさえ、「風で火が消えないよう手で覆ってライターをつける」「灰皿のふちで灰を落とす」「ため息を煙に乗せ深く吐き出す」「イライラしながらスパスパ吸う」といった、情景を伴う仕草だらけである。それらは、走る、歩く、立ち上がる、座り込むといった人間の基本的動作にすら言えることであり、そういった一つ一つの動作に情景を組み込んだコマのほうが、顔のアップにフキだしのみで構成されたコマよりも魅せる部分が大きい。さらに、別にオチでのみ使わなくても、全てのコマにおいて人の視線をひきつける効果を持つ。中には、平ひさしかつあげ君のように、親指を立てて正座したり、こたつに手をつっこんで口で本をめくったり、畳のケバをむしるような、誰もやろうとしないような仕草をしっかりと書いた作品もある。

そらあ、明らかに他者と異なる表現であるからして、より生き残りやすくなるのは当たり前である。

最後に、作り手ではなく読み手の問題で仕草が大事になるという話をする。実は、4コマ漫画の読者というものは長年の経験から「見たことのあるコマ」を華麗にスルーするスキルを身につけている場合が多く、それが同じ作品で何回も繰り返されるようならば、徐々にスキルレベルがアップしていき、最後には過去に似たような構図や見たことのある表情のコマを記憶にとどめないよう進化する。平たく言えば、忘却力に長けていく。中でも、顔のドアップなどという表現は、コマの大きさが一定である4コマの世界では、最も読み飛ばしやすい表現になる。せめて表情でも変えて、構図を変えて表現するならまだしも、同じような顔の向きのドアップを半年も続ければ、読者のスルースキルの餌食となり、記憶のカケラにも引っかからなくなっていく。

そんなスルースキルに対抗する表現が、ポージングであったり、仕草である。特に、指先や視線の表現力はヘタな顔よりも恐ろしい。本当に、恐ろしい。

モブ孝[編集]

初心者の投稿した4コマ漫画にありがちな話として、学園ものや会社ものといった作品を描く際、登場人物しか描けない、もしくは描きゃしないという実に困った話がある。正確に言うと、魅力的な脇役を多数そろえられず、名も無いキャラを創作できず、さらにはモブと呼ばれる集団を書くコツを知らない。そんな作品で学校やら社会を描こうとすると、すぐさま表現の壁の一つ「同じような描写」にぶち当たるのは明白である。別に、4~5人しかキャラが登場しなくても面白い作品は面白い。しかし、教室を描くのに人がいなかったり、会社の中や外の風景が、まるで文明崩壊後の世界かと見まがうばかりの無人状態に満ち溢れている作品が、作りこまれた笑いを提供しているかと思われるかというと、そんなわけはない。

端的に言えば、めんどくさいから描かないという意思が透けて見えて悲しくなる。

どこの田舎の分校だよといいたくなる昼休みの風景や、でかいビルの中に零細企業、家庭内工業並みの人数しかいない仕事場。とりあえず、広い中国を舞台にした歴史漫画なのに20人程度しかメインキャラがいないどこぞの三国志のようなモヤモヤは、えてして作品の寿命に直結する。三国志のほうは、スケールのでかいギャグ漫画と見れば十分な内容であるのに対し、初心者が描きがちな人のいない学校誰も歩いていない町を見ながらギャグ漫画、笑える漫画といわれても正直困る。

無論、こういった、少人数が映える話は、古典的な4畳半ネタや田舎暮らしネタという鉄板があるのだけれど、いかんせん、そういった少人数による人間関係の舞台を多数の人間がいるはずの場所に持ち出してしまうと途端に空虚さを露出してしまう。どこぞの不条理劇の名作「ゴドーを待ちながら」のように、薄ら寒い情景に見えてしまう。

そらそうだ。人がもっと大勢いるべき場所なのに、なぜだか人が極端に少ない情景を描いているのだから。一種、奇妙な空気、雰囲気を感じて当然である。

そういった空気を回避するために必要なのが、脇役やら名も無いキャラやモブである。彼らがいれば、だだっ広い学校の体育館ですら狭くすることが可能になり、外の光景が人間社会の只中に見える。また、主人公、もしくは主人公たちを、孤独に見せない構図もまた重要な要素になり、人の肩越しに見せる構図や下からなめ上げるような構図、さらには俯瞰で見せたり、集団の中にスポットライトを当てるような表現でも十分、人間関係を縮図してみせる。

んが、モブはそのままコマの狭さにつながる。主人公やネタを前面に押し出すことを阻害する。脇役が多くなってもしかり。人が少なすぎたら空虚であり、多すぎれば暑苦しすぎる。大変に難しいけれど当たり前な話である。けれど、世界や社会を薄ら寒いと感じさせる作品よりは、人間関係の濃さに右往左往するほうが、読み手にとってはいい。作品の先が開いている。ただし、サミュエル・ベケット並みの変態的な作者の個性を十二分に堪能したい、させたい場合は、薄ら寒かろうがなんであろうが関係なく、思う存分、小さな世界と少ない登場人物でやりあってもなんら問題はない。

作者の個性というのは、それぐらいに武器になるのだから。

ただ、世の中は恐ろしいもので、作者の個性というものが「ポン引きに刺し殺されそうになった」だの「レジスタンスとしてナチスに歯向かった」だの、果ては「追求の手を逃れるために屋根裏部屋で長期間生活」、「アイルランド一のきちがいによるフィネガンズ・ウェイクの執筆に関与」といったレベルで濃い場合もある。人間と作品を通して語り合おうとする行為には、そんなレベルで読み手にとっても精神的なダメージを与える場合もあるように、世界的な文学者の中には、読み手や世界を、言葉もしくは表現で、殺そう、壊そうと本気で思い込んでいる節すら見受けられる作品、作者が存在する。それとは逆、真逆な話として、読者アンケートを気にし、売り上げを気にし、表現の一つ一つをおっかなびっくりやらざるをえないうぶな作者の個性を、読み手の精神のまな板に乗せるのはあまり気分のいいものではない。

特に、ほぼ自分語りに近いレベルで登場人物が少ない作品は、作者の感性が丸見えになりがちで、作者や編集者、そして編集部の方針やセンス、何よりも作者の将来をがっちり捕まえることができる。けっこー簡単にできる。来月号にいるかいないか、単行本が出るか出ないか、編集者が当たりかどうか、表現を楽しんでいるかどうかまでだいたい見通せる。

さらに、こういった話は別に特殊な技術が必要というわけではなく、別に4コマに限ったわけでもない。どこぞの週刊少年ジャンプが急成長し、そして凋落していく中で、多くの読者が作者がのた打ち回るレベルで苦しんでいることをマンガの中から読み取ったように、だいたい、なんとなく感づくものである。

そらそうだ。数多くの登場人物がいた作品から徐々に人が消えていき、最終的に主要人物しか出なくなったら、動かなくなったら、ほとんど終わりだなんて気づくなといわれても気づかあな。で、作品よりも、作者の精神と編集者の矜持が、終わりだってことも気づくわけで。そして、次の作品へと移行できるかどうか、骨までしゃぶりつくされた精神を元にもどせるかどうかを、過去の事例で判断していく。

嫌な話だ。で、だいたい予想が当たるってのが、もっと嫌な話だ。

孤高なる植田まさし氏 その2[編集]

植田氏の諸作品と幾多の4コマ作家の作品を見比べて、大きな違いと言えるものの一つに、陰影の使い方がある。そもそも、4コマ漫画で陰影を使う作者と使わない作者は大きく分かれるのだけれど、水彩色むらで陰影を表すテクニックは、昨今の4コマでは氏が随一と言える。もっとも、そんなもん大昔からある技法であって、ことさらピックアップする必要なんざないと言えばないのだけれど、いかんせん、大昔の技法のほうがよっぽど陰影に味があるってことに気づかん連中が増えてきているため、できるだけ今のうちに言葉で残しておかないといずれ消えそうで怖い。本当に怖いってのがちと悲しい話である。

ちなみに、氏の色むらの使い方には一つの系譜が存在し、1960年代から現在まで主に1コマ漫画の世界で活躍し続けている漫画家、秋竜山氏が植田氏の作風に色濃く影響を与えている。その秋竜山氏の作品群はスクリーントーンなんぞ皆無。デジタル?何ソレという世界である。けれど、水彩とペンタッチだけでは木らしく、は海らしく、は空らしい表現に満ち溢れた秋氏の作品には、確実に現代でも通用するテクニックが詰め込まれている。

そらそうだ、そういった自然にある色合いが均一ではないものを表現するのに、均一にならない表現方法を取り入れてるんだから。

無論、しっかりと陰影を残すようスクリーントーンをばんばんに使用して、そういった自然を均一に表現しても悪くはない。ただ、植田氏や秋氏の代表作と言える「無人島マンガ」を描く際に、空や海、島にヤシの木といった対象を均一で描いたら、あっという間に行き止まりに入ってしまう。なぜかてえと、無人島に取り残された男1人という同じ題材を100本も200本も数十年にわたって描き続けるという作業に、均一に見える技法を取り入れ続けたら、ネタは違っても同じものに見える。ただでさえ同じものに見えるネタを、より同じものと感じさせてどーします。

しかし、ひとたび表現を変えるだけで、ここで言うなら水彩の色むらが変わるだけで、違うものに見える。実際、違うものであるわけだし。特に、海や空といった、コマの中でとても大きく表現するものへの印象がまったく違ってくる。単純にスクリーントーンやデジタルで埋めただけでは、色合いの違い、濃淡、そして水平線における空と海の境などが均一に見える。で、本来ならば均一ではないものを均一に見せたら、そらあ印象が薄くなるわな。昨今の4コマの中には下手をすると、空と海が空のようなもの海のようなものに見える場合がある。本当にある。線だけで描かれる空や海よりも空や海らしくない表現が、本当にある。

というのも、4コマにおけるコマの小ささは、大自然を人工的な箱庭に見せるのに十分な効果があるわけで。別にそれでも悪くはないんだけれど、みんなで海水浴ハイキングに行くなんて話のときに、海や山並み、空や木々、そして水平線といったものが十分に作品内で活かされていないと、それはそれでちょいと悲しい。ネタが面白ければいいんだけれど、ちょと寂しい。

とりあえず、それぐらいに遠景というものは、強烈に情景を表すものだから。そういった題材が無碍にされるのはやっぱりやりきれない。いや、まぁ、白黒ページの場合、手間暇を考えれば仕方ないんだけれどもさ。

けれど、そういったハンデキャップをものともせずに白黒でも強烈に遠景を武器にしている4コマもある。中でも、樒屋涼さんの「そよ風そよさん」には、白黒ページにおける効果的な背景の描き方が出揃っている。均一的になりがちなデジタル加工がバンバン使われているにも関わらず、エアブラシやぼかしなどの技術を使用、均一的な表現になることを避けている。で、甍の波を線画で描写し、雲の波をデジタルで表現。何よりもなか空に主人公をしっかり残すことで、キャラを引き立たせる背景という難しいテクニックを十分使いこなしている。

鯉のぼりについては知らない。まぁ、大昔から、それこそアメコミスーパーマンや少年漫画全盛時代の諸作品においても、空飛ぶ主人公を引き立たせるのは背景と構図というのが主流だった。飛行能力=背景、構図>集中線だった。そのため、4コマの世界にそういった空中の描写を持ち込んだことは、ある意味、大きな一歩と言える。ただ、残念なことに、次に空中を舞台とする作品が出てくるかどうかがちょと微妙てのが悲しくも仕方ない話である。

あわせて、そういった自然を表す表現のほか、地味に以外の髪の毛の表現についても色むらの威力は大きく、手軽に髪の色という個性をモブキャラや名もないキャラに与えることができる。無論、スクリーントーンやらデジタル加工でも与えることは出来るけれど、手間暇及び手軽さで考えると、水彩の色むらというテクニックは恐ろしいほど効率的である。

んがっ。んーーーがっ。ここまで水彩と色むらを持ち上げておいたにも関わらず、一気に奈落に落とすことになる。それは技術の進歩というものである以上、仕方ない話なのだけれど。ま、結局のところ、色むらというものは古い表現てえことである。こういった技法を使用するためには、でないといけないわけである。もしかしたら、デジタルの水彩で紙と同じぐらい均一でない色むらが表現できるかもしれないけれど、紙に絵筆絵の具で描いたほうが、より均一ではないものを表現しやすい。もしかしたら、2012年現在、そういった紙に描く様な水彩が表現できるペイント機能が実装されているかもしれないけれど、知られてないものより、普段知られているほうがより紹介しやすいわな。

つまるところ、デジタルでは難しい表現が世の中には存在する。画一化を避けるためには、とてもいいことである。それが後世に伝わらないことは、本当に恐ろしいことである。

あとがきにかえて[編集]

この文は4コマ雑誌の編集者に向けて書いているのか、それとも4コマを書きたい人間に向けて書いているのか。それとも4コマを知りたい人間に向けて書いているのか、書いているほうもよく考えていない。とりあえず、全てひっくるめて、後世に向けて、残しておきたい話をつらつらと書いている。

ということにする。

いっちゃあなんだが、4コマ文化の10年先を考えてみると決して光り輝いているような道には見えない。むしろ、どこぞのシルクロード並みに砂漠やら高山といった当たり前だけれど頭の痛い話に満ち満ちている。せっかくなので、数ある頭の痛い話の中で、とてつもなくひどい、4コマを愛する人々から総バッシングされるような話、けれども当たり前の話を書いておく。

4コマ作家の死[編集]

結局、なんで4コマに関するあれこれなどという、ごくごくニッチな話を後世へ向けて書いているかというと、誰も毛ほども考えてないだろうけれど、植田先生が倒れられた場合の体制を今から考えていかないとまずいからである。2011年3月11日に、不意の震災とその影響により2万人を越える方々がいちどきに命を落とした。なにが起こるか分からないのが世の中ならば、確実に起こるものについてを、今から備えないといけない。そして、確実に人は死ぬ。いずれ死ぬ。そして今、4コマ雑誌の世界に、植田先生の後を継げる人材はいない。だからこそ、今のうちに伝えておかないといけない話がある。

けれども。とりあえず。後、10年ある。はず。なんとかなる。はず。

あわせて、次の巻は、表現のテクニックから、ネタだしの方法へ移行します。もちろん、植田まさし先生の話も交えて。

関連項目[編集]