UnBooks:日本の貧しい老人たちが子供及び国の負担となることを防ぎ、国家社会の有益なる存在たらしめるための穏健なる提案

出典: へっぽこ実験ウィキ『八百科事典(アンサイクロペディア)』
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第一節・或る厄介な存在[編集]

このように百歳近くになっても日々忙しく働いている人にとっては、この私案は関係ない

この大きな街を歩き、あるいは田舎を旅すると、あちこちで憂鬱な光景が目に留まる。通りを歩けば、老人たちがベンチに、あるいは家の垣に腰掛けて談笑している。ときどき嫁が家から出てくると、いかにも鬱陶しい存在だという風な顔をして、「お母様、いい加減うちに入ってくださいな」と声をかける。そうすると「はいはい、わかりましたよ。でもあたしたし年寄りにとっちゃあ、これが唯一の楽しみなんだよ」と嘆き、腰を上げることはないのである。

老人たちは今更職を持ち、あるいは趣味を見つけることもせず、ただ毎日近所の老人たちと無益な世間話をし、あるいは嫁の悪口を言いながら時間が過ぎるのを待つだけである。

当事者であれば、以下のことに同意してもらえるだろう。我が国において、相当な人数の老人が、乏しい年金だけでは暮らすことも出来ず、子供夫婦の財布に頼って生活している。嫌味だけは一人前だが、足腰の不自由や痴呆などを患い、息子や嫁はその介護に疲れ切っているのである。

それゆえ、老人たちを社会にとって健全かつ有用な社会的財産とするための、公正かつ安価で、簡単に実行できる方策を発見する者がいたとすれば、その者は社会にとって望ましい人であるから、勲章の授与に値しよう。

だが私の目的は、ただ無気力で貧乏な老人を救うに留まらない。より広義の目的は、ある特定の世代における老人全体の数を減らし、これまでその老人を介護し扶養してきた子供たちを実質的に援助し、それによって嫁姑の無益な戦いの苦しみから解放しようとすることにあるのだ。

第二節・問題点[編集]

この人も年を取っても忙しく働いているようだが、このような人にこそぜひ我が私案を適用させたい

私は数年間、この重要な問題について思いを巡らし、他の方々の計画を慎重に見ていった。その結果、この方たちは大きな思い違いをしておられると考えざるをえなかった。確かに、元気に働く老人は多い。七十を過ぎても店先に立つ者、八十を過ぎてなお田んぼに入る者もいる。子供夫婦も、こんな親たちなら頼もしく思うことだろう。私の提案は、ただ一日子供夫婦にいちいち嫌味を言うばかりで、何のために生きているのか分からないような老人に救いの手を伸ばそうというのである。この提案を実行すれば、老人が子供夫婦に迷惑をかけたり、死ぬまで疎ましがられるかわりに、我が国が抱える多くの問題を解決することになるのだ。

私の提案にはもう一つ大きな利点がある。それは介護疲れの親殺しを防ぐことが出来るのだ。ああ! 我が国では介護に疲れ、家計も困窮を極め、どれだけの者が殺人に及んでいることか。

我が国には人口一億三千万、老年人口は二千五百万もいる。このうち、多めに見積もってこの半分、すなわち一千三百万人は、現役で働く逞しい老人たちだ。そして残る一千二百万人が、”厄介な”老人であることだろう。この中には、同居家族に迷惑をかけながら日々を過ごすものに加え、年金だけで侘しく暮らす者も多い。彼らは生きがいもなくただ無為の日を送るばかりで、彼らにとっても我が国にとっても大いなる無駄である。これから更に高齢化が進むにしたがって、益々このような老人たちが増えるに違いない。そこで問題は、いかにこうした老人たちの生活を向上させるかということになる。

この問題は、我が国の現状では、今まで提案されてきたどの方法によってもまったく不可能だ。どれだけ介護施策や医療施策を打ったところで人的にも金銭的にも限界があるし、ただ家の中や近所で暇を持て余す老人たちに「生きがいを見つけて老後をいきいきと暮らしましょう」とキャンペーンを張ったところで効果は期待できないのである。厚生労働省によれば、こんな下らないキャンペーンやセミナーのために全国で何百億という予算が使われているという。しかも、現状で我が国に大した利益をもたらしていないのである。

それゆえ私は、謹んでいかに私案を提出する。おそらく諸君にはなんら異議はないものと存ずる。

第三節・私案[編集]

この人は100歳近くまでモンブラン山系で滑降したが、そこまでアクティブに動く必要はまったくない

私はかつて、山間部の役場で知り合った真面目な村議会議員から話を聞いたことがある。彼曰く、最近では林野は荒れ放題で、地盤が弱まり土砂災害が増えているようだ。また手入れされていない杉の木からは花粉が撒き散らされていて、花粉症の原因となっているという。草食動物が増え、麓の畑を食い荒らすこともあるそうだ。

それゆえ、私は諸君に以下のことを考えていただこうと思っている。すでに計算した一千二百万人の老人のうち、二百万人を残しておく。これは老人がいかに”厄介な存在であるか”を示すためのサンプルである。あまりに模範的な老人ばかりが残ると、この私案の前提が根底から崩れることになる。おそらく二百万人程度ならば、今の介護・医療制度でもなんとか受け入れられる数である。

そして残る一千万人は、山に移住させるのである。なにも中部山岳の三千メートル峰まで行く必要はない。集落からほんの一、二時間歩けば辿り着けるような場所で暮らせばよいのである。彼らが山ですることといえば、木の枝打ち、狩猟、休耕田や廃田での耕作である。冬になれば雪かきが、夏になれば藪刈りも必要だろうが、かえって四季が感じられる。都会の季節感の乏しさに不満を漏らす彼らにとっては好都合である。

国は最初に粗末な小屋と、山仕事のための道具を与えねばならない。これに加えて僅かばかりの食料(もっとも、動物性蛋白は不足でよい)を供給し続ける必要がある。だがそれでも行政の出費は大幅に抑えられる。

我が国の財政的な負担のうち、老人医療に占める割合は非常に大きいのだ。暇な老人の多くが、腰が痛い、膝が痛い、血圧が高いといった理由で病院に通う。風邪の流行らぬ夏でも医者がやっていけるのは、こうした老人たちの存在があるからに他ならない。それで地方の個人開業医が儲かるのは結構なことだが、医療負担の八~九割は国費であり、国の財政を圧迫している点は否めない。医者にしてみても、真に治療が必要な者が増える中で、老人の話し相手をするほど暇ではなくなっているのである。それに逆説的ではあるが、山を歩き木に登ることで足腰は鍛えられ痛みはひくのである。冬山の寒さで生活することで血圧も下がるのである。おまけに山に住んでいれば、病院までてくてく歩いて行くほうが面倒くさいという効果もある。

そしてもうひとつの重要な点は、山仕事をする人員が確保されるということである。我が国では実に国土の三分の二を山地や林野が占めているが、この山林の荒廃具合は想像以上に深刻である。まず土地が痩せる。山というのは、適度な木々と適度な下草があって初めて地盤は保たれるのである。保水力を失いぼろぼろになった山は、土砂災害と干害の数を増やす。過去十数年間に発生した大渇水の多さは、日本の山々に樵が入り、あるいは森林鉄道が走っていたころからは考えられない。おまけに今日の花粉症患者の多さは、単に体質によるものだけとは考えられない。伐採もされることなく荒れ放題となった杉林から大量の花粉が飛散されることも影響するであろう。さらに伐採されないまま残った老木は、光合成の能力が低下し、二酸化炭素の放出源にすらなる。京都議定書を始めとする二酸化炭素排出量削減の国際的な合意の達成のために、植林も挙げられている。しかし植林の効果は、老木が適切に伐採されることで初めて達成される。青年、壮年は有益だが、老年期に入るとむしろ邪魔者になることは、植物も人間も変わりないと言えよう。

できれば草食獣も捕らえてもらえればなお都合が良い。狼のような男が増える一方、日本の山から狼のいなくなった今日、多くの大型草食獣が増えすぎてしまい、中には里に降りて農作物を食い散らかすものがある。そこで老人たちはマタギにもなって、個体数の調節をしてほしいのである。だがあまりに乱獲をされても困る。猟銃などは使わせず、大刀でも与えればよかろう。自ずと貴重な蛋白源を定期的に捕獲できる老人たちだけが長く生き残ることになる。狭い国土に一億三千万人が住むこの過密状態を考えれば、この際、人間の老人たちの個体数も調節されるべきであろう。

こうして人の手の入った山は荒れないのである。老人たちはただ山を歩き、鹿や猪を追い、ときどき木を切ればそれでよいのだ。

第四節・効果[編集]

この人たちのように年老いてなお元気になれば言うことなしである

この提案は老人たちにとっても有益である。人口が過密になり、誰もが追われるようにあくせくと動き回り、なにもかもIT化が進んで無機質になった都会暮らしへの、老人たちの不満の声は一層大きくなっている。彼らはみな一様に「大自然の中でのんびり暮らしたい」というのである。あるいは現に山間の小さな集落に住む人々が、治水や防災上の理由で、より便利な麓の町に住むように言われたとき、もっとも反対するのが老人たちである。我が国の老人たちにとって山というのは何よりも良いものであるらしい。大自然の中こそが極楽浄土だと言わんばかりの口ぶりである。そこでいっそのこと、老人たちを強いて山の中に移住させたほうが、老人たちも幸せなはずである。そのままそこで死んで極楽浄土に行ければ願ったり叶ったりであろう。

体力の心配も不要である。何かにつけて、最近の若い者は軟弱になったとこぼす老人たちが、その若者よりもひ弱なはずがないのである。三浦敬三日野原重明など、100歳前後でも忙しく活動する老人は枚挙に暇が無い。きんさんぎんさんに至っては、テレビ出演の機会が増えて、かえって健康状況が改善したという報告さえある。無益な毎日を過ごすよりも、山でいきいきと暮らしたほうがかえって健康的である。

この提案に対して、ある知人は、山仕事ではなく農業をさせるべきではないかと言う。それも一理あるが、それでもなお、私は山仕事を推す。農業という仕事は、国民所得の大きい先進国にあってはとくに、一人当たりの耕作面積を大きくし、すべて機械化、工業化するほうが効率が良い。この期に及んで、経営感覚の乏しい貧しい老人を投じたところで、より大局的な観点からは効果がないのである。だが食料自給率の問題にも着目しつつ農業について考えた知人の名誉のために言うが、耕作の重要性自体は認める。少なくとも老人自身が食す穀物や野菜くらいは自給させれば都合が良い。十分な水源のある廃田や休耕田が近くにあれば、食料に替えて農具と種苗を支給すればよかろう。

こうして、藪の落ち着いた春と秋には林業を、夏になれば耕作を、冬には狩猟をすれば四季を感じられこと請け合いである。無機質な都会暮らしに辟易した老人たちにはもってこいである。おまけに暇を持て余す心配もない。綺麗な空気を吸い、清清しい汗を流しながら余生を過ごすことは、むしろこの時代には贅沢な生活にさえ思われる。

ここまで読んだ賢明な読者諸氏の中で、残酷な姥捨て山の風習を復活させるのかと憤る方はいらっしゃらないと思うが、念のため補足する。姥捨て山というのは、姥に白装束を着せて輿に乗せ担ぎ、村人が太鼓や笛を鳴らして山まで連れていくことが多い。このお祭り騒ぎは、実のところ葬式である。その後は一切の援助を得られず、姥らは一月と持たず山で死ぬことを前提としている。だがこの因習と私の提案を混同していただいては困る。私は、老人たちに山で実りある余生を過ごしていただくことを前提としているのである。

第五節・終わりに[編集]

結局、私だってあくまで自説を押し通そうとして、賢明な方々のご提案による、老人たちにもその子供たちにも有益で、費用が安く、簡単に実行できる有効な手段を排斥しようなどとは決して思っていない。ただし、私案に反対して、それよりもっと優れた計画を出そうという著者たちには、ぜひ以下の二点を考慮していただきたいと思っている。第一は、嫁姑の関係に代表される親夫婦と子供夫婦の仲違いは、古来より多くの家族が抱えてきた問題であり、もはや両者がまったく別々に暮らさなければこの問題の解決にはならぬという点。第二に、莫大な国費を投じることなく老人たちに生きがいのある余生を過ごさせるべきであるという点である。

この私案に最初嫌悪の情を持つのは分かる。だが今のまま長く同居していたところで、それは老いた親を生殺しにしているに過ぎない。嫌いな街中で、生き甲斐もなく、嫌いな嫁と暮らす生活と、好きな大自然の中で、四季を感じながら、のびのびと暮らす生活。どちらをとるのが親孝行かぜひ考えていただきたい。たしかに病室でチューブをぶら下げて暮らすほうが、寿命は若干延びる。この点には私も異論はない。だが、抗癌剤を打たれてやせ細って人工呼吸器を付けてぼろぼろの体で死ぬのと、お天道様の下で自然にまかせて死ぬのと、どちらが幸せかを考えていただきたいのである。

私は、我が良心に賭けて、鬱陶しい老人の世話の煩わしさに魔が差してこのような提案をしたのではない。ただ我が国における公共的な利益を願ってのことである。第一私の祖父母はすでに死んでいるし、両親には、老いても同居するつもりは更々ないし介護が必要になっても面倒は見ないから、今のうちから自分で老健施設でも見つけて置くようにと言い渡して家を飛び出したのである。