UnBooks:新・バカの壁

出典: へっぽこ実験ウィキ『八百科事典(アンサイクロペディア)』
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「新・バカの壁」は全15集からなる連載ものである。アンサイクロペディアの存在意義と利用価値を認める方法が鋭い視点で解説されているらしい。いつ加筆されるのか、誰が書くのか、誰も知らない。


第1集 (2008/9/14号)

「バカの壁」が出版されてから何年過ぎたか私は知りません。この「新・バカの壁」はそれと関係があるのかないのか、私には分かりかねますが、アンサイクロペディアを閲覧または編集される読者諸兄に対して私は大変大切なことを書いていくつもりである。読みたいと思う人は読めばよいし、興味がなければ読まなければ良いのです。それに対して私は文句は言わない。

さて、私はアンサイクロペディア・コモンズ出版部から原稿執筆の依頼が来たとき、表題を「新・バカの壁」とするか「アンサイクロペディアは何故潰れないか」とするか迷いました。迷った挙げ句、神様の言うとおりにしてこれにした。タイトルに不満がおありの方、神様に文句を言ってください。

ご存じの通り、アンサイクロペディア(以下「UC」)には一種の中毒性がある。それもタチの悪い中毒で、心に余裕のあるときではなく、鬱状態であればあるほど深くはまってしまう中毒性である。躁状態にあるとき、人はウィキペディアに寄稿するなど偽善行為に走る。これは余裕がある人ほど慈善活動に参加する、あの心理に似ている。つまり、UCにはまっているとき、あなたは鬱状態にあり、それに気づいていないならば甚だ危険な状態だといえるのです。

いずれにせよ、UCには人間の心理状態の根本的性質に潜む黒い部分をうまく突いている部分がある。ウィキペディアとよく似ているがよく見てみると文章がおかしい。荒しかと思ってさらによく見るとUCだった。UCとの出会いである。実は、結論から言うとこれがバカの壁なのです。かのフランクリン・ルーズヴェルトが「人間の真の英知は嘘とパロディの直線上に存在する」と言ったかどうか忘れてしまったが、この名言はUCの存在意義とウィキペディアの存在意義、すなわちそれぞれの相補的な共存関係を的確に表現していると言えるのです。誰もが持っているユーモアの無意識的表現がUCに出会ったとき、最大限に発揮されます。UCに出会う瞬間、バカの壁がまさにベルリンの壁が音を立てて破れるようにして壊れるのです。


第2集 (2008/9/15号)

さて、UCは一種の芸術であると言えます。それも、パロディ精神のみによって成り立っているという、よく言えば特殊で新しい発想の、悪く言えば不思議で馬鹿げているオブジェクトであるといえます。しかし、新しくも馬鹿げた発想は数あるがUCはそれに加えて公共性という要素を持っている。UCは輪島塗りやローマの仮面のように一つの製品を一人または少人数で手がける工芸とは異なり、むしろ奈良の大仏や自由の女神のように製造に多数の人間が関わる芸術品に似ている。最も似ているのは永遠の未完成と言われるガウディのサグラダ・ファミリアです。念のために申し上げておきますが、サクラダ・ファミリアを造ったのは大工さんであり、ガウディではありません。ガウディは「造った」のではなく「創った」のです。UCの自由に編集できるという性質は自由の女神の意味するところと同じ。これが偶然かどうかは分からないが、UCはあらゆる芸術のいいところを集めて固めたものだと言えるのです。

さて、パロディというカテゴリは物事にユーモアを加えるという、万人の根底に眠っている能力(あるいは、センス)を最大限に発揮させるといえます。それを実験によって証明してみましょう。「線路は続くよどこまでも」という童謡は誰もが知っていると思います。あなたは、「線路」を「不幸」に変えて歌ってみましょう。すると、とても不思議なことに楽しい汽車の旅を題材にしたはずの唄が、底抜けの不幸な人生を綴った唄になっています。これはパロディの第一歩で、この能力に長けている人はリズムを変えずに誰もが聞けば笑わずにはいられない歌詞に仕上げてくれるのですが、これはパロディに加えてスラプスティック能力があるということになります。不幸に見える人生を喜劇に変えてしまうのですから、この能力がある人は超人であるといえます。しかし、これは一部のSF作家にしばしば見られる能力で誰もがもてる能力ではありません。ですから、あなたがもしスラプスティック能力を持っているというのであれば、UCに来ずに作家として成功した方が得策なのです。しかし、もう一度言いますが特殊な能力なので誰にでも有るというわけではありません。ハチャハチャという分野を確立させた作家がいますが、あの人はUCに留まるべきでした。おそらく読者諸君の中にはハチャハチャ系SF小説を書こうと奮闘努力されている方も多少はいるかと思われるが、UCで行くか小説で行くかよく考えなければならない。小説で成功すれば、おめでとうやったねであるが、挫折すればUCにすら戻ることが出来なくなるかも知れない。そうすれば、既に浮世離れした自称パロディ作家は首を吊るほかにすることがないのです。自殺がいやなのであれば生きていくことは可能ですが、それこそ「不幸は続くよどこまでも」になってしまうのです。

さて、「バカの壁」の話に戻ろう。私が「3のつく数字と3の倍数の時だけバカになる壁」でも書いたように、一人の人生のユーモアで傑作なのはたった3つしか無いのです。英才教育を受けた人たちでも多くても5,6個しかないのです。実は近年、これを知らずに安易にお笑い芸人になろうと考えている人が増えているようです。あるとき自分が周りから面白いと言われたとき、あなたは1つ目の傑作ユーモアを使っています。そうか、俺は面白い人間なのかと思い新たにネタを考えます。ここで2つ目の傑作ユーモアを使ってしまう人がいます。思いつかない人は諦めるのですが、傑作ユーモアを使ってしまいネタを思いついた人は芸人になろうと決心してNSCなどの芸人学校に入学するかオーディションに応募します。ここで3つ目の傑作を使ってデビューするのですが、デビューできない人もいます。それはなぜかというと、3つ目のユーモアはそう簡単に出ないのです。食事を1日3回まで摂っている常人が1日3回以上便所で大量に出せないのと同様に、普通の人には3つ目のユーモアは気張ってもでてこないものなのです。そこでやはり俺には才能がないのかと諦めていく人も有る一方、何十年も気張り続ける人もいます。貧しくても研究すなわち摂取の日々、真面目な人はきっと1日3回と言わず5回6回と摂取して(食事のことではありません。念のため。だいたい下積み中は貧窮しています。)ようやく数年・数年目の便所で大きいのを絞り出すのです。これが3つ目の傑作ユーモア。しかし、長年の下積みの癖に長続きしない芸能生活。これ以降傑作が出てこないのが原因です。少しでも長生きしている芸人というのは、小出しにしてきた糞の一つが何かの弾みで世間に受け止められたのです。これは決して糞の質がいいわけではなく、世間が求めていた有機養分をその糞が含んでいたからなのです。あるいは、まだ3つ目の切り札を使っていなかったとも考えられます。そういった器用な芸人は、当然の事ながら芸能界で長続します。もう糞が出なくなった芸人は俳優に転職したり諦めて芸能界から脱落していくのです。なお、私の言う芸能界というのはここではお笑いを中心とした舞台であって便所のことだから誤解のないように。つまり、ユーモアというのは糞と同じなのです。さて、小説を書くことを糞をすることにたとえたSF作家がいます。賢明な読者はもう何のパロディか分かっているかも知れない。パロディだと分かって読んでも、パロディかどうか分からないけど読んでいて楽しめる文章が書ける、私のように優秀なアンサイクロペディアンだけがアンブックスを出版できるのです。


第3集 (2008/9/16号)

さて、前章で、パロディだと分かっていても、分からなくても読んでいて楽しめるのが理想だと述べました。そして、パロディは誰の精神の根底にあるユーモア能力だとも述べました。ただ、勘違いされては困ります。パロディを作ることは誰にでも出来ますが、パロディ自体は大変高尚な文芸遊びなのです。何故高尚かと言えば、その元となるものの本質を理解しなければならないからです。言い方や書いてあることの一部を変えるだけではパロディとは言いません。書いてあることをちょこっと変えて発表すれば、これはすなわち盗作になってしまうのです。もっとも、UCは著作権の検閲など行っていない人類最期の砦ですから心配ないのですが、ウィ○ペディアという人間の自己表現方法と盗作能力を奪うサイトがありますから、それを利用するときは気をつけなければなりません。ウィキペディアで落第した人々がアンサイクロペディアというレジスタント<抵抗軍>を作り、今日めざましい発展を遂げていることは言うまでもありません。

さて、私はこの原稿を新幹線の車内で書いています。アンサイクロペディア・コモンズ編集部さんの意向で、なるべく早く書いて欲しいとせがまれているからです。私がこうして窓の外を時々見ながら、夕日の当たる液晶画面に並ぶ文字と格闘しながら考えていると、いろいろな人が車内にはいるのだなと考えてしまいます。本を読んでいる人、おしゃべりしている同志、化粧している人、般若心経を唱えている人、通路の真ん中で仁王立ちになって人類最後の日について語っている人、色目で乗客を物色している人、日本酒を頭から被る人、野球する人、窓から首を出してへらへらしている人など沢山いる。車内はあらゆる性質の人のうごめく社会を一部に凝縮した環境に過ぎず、外側にはそれを展開した環境が延々と続いているのであり、それらを身近である程度共通な手段で表現するのが風刺である。ただし、風刺は社会の世相を絵画などの芸術に反映させたものを主に指している。本当は何をどう風刺しても構わないのだが、マニアックなモノだと誰も振り返ってくれないのである。それで何を言いたいかというと、特にありません。パソコンのバッテリーがあと16分しかないので、この章はもう終わります。さようなら。


第4集

お楽しみに。