UnBooks:入門コンメンタール幸福の科学憲法

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発行:幸福の科学出版 ISBN 800-4876883875
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平成21年8月30日の第45回衆議院議員総選挙で地すべり的勝利を(どうやってかは聞かないでほしい)収めた幸福実現党が、その日のうちに召集した特別国会で憲法改正発議(旧憲96条1項[1])を電撃的に可決し、のちの国民投票でも(これもどうやってかは聞かないでほしい)賛成を得て新・日本国憲法を成立させたことは、われわれの記憶に新しい。日本国民の一滴の流血なく成し遂げられたこの転換を、衆院選の行われた月の名にちなみ八月革命と呼ぶこともまた、周知の事実である。

しかし、一見センセーショナルであったこの憲法改正劇も、実は国民の権利や義務、国民生活にはほとんど何も影響しないと解される

われわれは、わが国が立憲主義国家であることを知っている。すなわち、専制的な政府が国民を勝手に捕まえてぶち殺せる国家と、国家の権能が適度に制限されていて国民が自由に生きていられる国家とでは、後者のほうがよりマシであること、そして、わが国が後者を選んだことをわれわれは知っている。このことは今さらフランス人権宣言16条の「権利の保障が確保されず、権力の分立が定められていない全ての社会は、憲法をもたない」との言葉を引くまでもなく、日本国民の総意にもう長く根付いたことである。かかる国民の総意を、ある日突然降って湧いた憲法改正で手品のように変えるのは、宇宙人UFOから洗脳電波でも送ってこない限り、不可能である。

したがって、幸福憲法も、われわれの知る立憲主義に適合するように解釈するのが日本国民にとって正しいのであり、現に、そう解釈されることになるのである。このコンメンタール[2]は、幸福憲法を正しく=立憲主義に合うように解釈・適用する指針を、初学者に向けて解説するものである。

目次

解釈の指針としての立憲主義[編集]

立憲主義の意義[編集]

わが国の立脚する立憲主義とは何であるか。立憲主義ができるよりも昔[3]には、絶対的な権力をもつ王様が国家権力を独占し、一人で勝手に法律を決めたり予算を決めたり何でもすることができた。それではアレなので、国民[4]は自らの生命と自由と財産を守るため、市民革命によって憲法を国王に押し付け、「今日からお前この憲法に従え」ということにした(これを押し付け憲法という。すなわち、すべての憲法は国家権力に対する押し付け憲法である)。立憲主義とはこのように、国民の自由と権利を守るためには、国家権力を憲法に従わせねばならないとする原理である。

立憲主義は必然的に、権力分立原理法治主義を採用する。大ざっぱに言えば、権力分立[5]とは国家権力に対する「とりあえずお前立法権を議会によこせ」という命令、法治主義とは「で、これからは議会が作った法律に従って動け」という命令である。議会は国民が選んだ議員で成り立っているし、国民もまさか自分で自分の首を絞める議員を選ぶほどバカじゃないだろうから、法治主義があれば国民の自由と権利は守られるはずと考えられた。

しかし、議会が決めた法律でありさえすれば内容はどうでもいいという形式的法治主義のもとでは、国民の多数から支持を得た議会が、「憲法によって議会が奪い取った立法権を、法律によって行政権にお返しします。後は好きにしてください」というウルトラCの法律を作っちゃうことも可能だったのである。結果はお察し下さい

そこで、「行政権は、議会が作った法律に拘束されなければならない」ことと同時に、「議会が作る法律も、その内容面で(実質面で)国民の自由と権利を侵害するものであってはならない」ということも憲法に書いておこう、ということになった。これを形式的法治主義に対比して実質的法治主義という。このように、「すべての国家権力を正しい法[6]で拘束することによって、国民の自由と権利を守ることを目的とする原理」を、法の支配という(法の支配は英米法系の概念、実質的法治主義は大陸法系の概念であるが、内容は同じようなものである)。わが国の憲法がこの法の支配に基づく立憲主義を採用していることは、いまさら論ずるまでもない。

法の支配の内容[編集]

法の支配は、以下の4つの内容からなるとされ、それぞれの現れとしての条文が憲法に書かれている。

  1. 人権保障人権すなわち人間が有する権利が、国家によって奪われないと保障されていること。人権は大きく分けて、生命・自由・財産を勝手に国家に奪われない権利(国家からの自由)、国家の政治的運営に参加する権利(国家への自由)、生命・自由・財産を守るために国家に助けてもらう権利(国家による自由)からなる。幸福2条・10条・11条、旧憲10~40条がこの現れである。
  2. 憲法の最高法規性: 憲法が他の法令すべてに優越し、憲法に反する法令の存在が許されないこと。幸福15条、旧憲96条がこの現れである。
  3. 適正手続の保障: 国家権力の行使には、正しい法に基づく正しい手続が必要であること。幸福10条、旧憲31~40条がこの現れである。
  4. 司法権の尊重: 法が正しいかどうか、国家権力の行使が正しいかどうか、司法権に事後的な審査機能が備わっており、正しくないと判断された法令や処分が違憲として否定されること。幸福7条・8条、旧憲98条1項がこの現れである。

そして、法の支配を採用するならば、それを実現する手段のひとつとして、必然的に民主主義立憲民主主義)が採用される。民主主義とは国民自らが自らを統治すること(統治者と被統治者の自同性)をいい、具体的には、国民の代表者である議員が送り込まれた議会で、多数決によって法律が作られることである。さらに、多数決で決まった法律といえども、少数者の自由を不当に奪うもの=立憲主義に適合しないものであってはならない。そこで、その法律が憲法に適合するかどうかを、立法府からも行政府からも独立しており、多数決原理による人選を経ていない司法府=裁判所があえてチェックし、適合しないものには違憲判決を下して排除すべき、ということになる。

これらの理解を前提として、以下、幸福憲法の各条文を俯瞰していくこととする。

前文――総則規定[編集]

Quote1.png 前文
われら日本国国民は、神仏の心を心とし、日本と地球すべての平和と発展・繁栄を目指し、神の子、仏の子としての本質を人間の尊厳の根拠と定め、ここに新・日本国憲法を制定する。
Quote2.png

前文は憲法の一部であり、法規範性を有する(極端に言えば、「前文」という番号のついたひとつの条文と考えてよい)。この幸福憲法前文は、4つの重要な法原理の現れとなっていると解することができる。国民主権平和主義国際協調主義人間の尊厳である。

国民主権[編集]

前文の全体を眺めると、「われら日本国国民は、……憲法を制定する。」という形になっている。すなわち、憲法を制定する主体が「われら日本国国民」であることが宣言されている。これは、国の政治のあり方を最終的に決定する力・権威をもつのは国民である、という国民主権原理の現れと読むべきである。

国民主権というときの「主権」とは、国の政治のあり方を最終的に決定する力または権威をいい、具体的には憲法を制定する権能(制憲権)を指す。幸福憲法は、この主権が一人の権力者や一個の国家機関によって独占されるのではなく、「われら日本国国民」という全国民に属する、と定めていると言えよう。

人間の尊厳[編集]

前文にはまた、「神の子、仏の子としての本質を人間の尊厳の根拠と定め」とあり、人間の尊厳が憲法上尊重されることが現れている。人間が人間であるというそのことのみから、人権というさまざまな重要な権利が発生することは、この人間の尊厳という前提から導かれるのである。

「神の子、仏の子としての本質」の文言からは、人間の尊厳の究極の根拠が宗教上の神や仏といった超自然的存在にあるかのようにも読まれる。しかし、そんなことは立憲主義の観点からはどうでもいい[7]。人間の尊厳はすべての人間に及ぶ法原理であり、特定の宗教の信者を優遇したり、そうでないものを迫害する趣旨とは解されえないのである。このことは幸福2条の信教の自由、幸福10条の平等原則とも合致する。

平和主義と国際協調主義[編集]

前文の「日本と地球すべての平和と発展・繁栄を目指し」との文言は、平和主義国際協調主義に立つことを宣言したものである。人間の生命と自由は平和があって初めて確保され、平和を実現する手段として国際協調が重要なのであるから、これはまさに立憲主義の目的に適合する。

1条――平和主義[編集]

Quote1.png 第1条
前段[8] 国民は、和を以って尊しとなし、争うことなきを旨とせよ。
後段 また、世界平和実現のため、積極的にその建設に努力せよ。
Quote2.png

1条は、前文に宣言した平和主義・国際協調主義を、国民の道義的義務という形で言い換えたものにすぎない。訓示的規定である。

2条――信教の自由[編集]

Quote1.png 第2条
信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。
Quote2.png

2条は信教の自由を保障している。これは10条の「あらゆる自由」にも含まれるが、国家が国民の宗教的自由を侵害することを防ぐため、特に条文を設けたものである。

信教の自由は、内心における信仰の自由宗教的行為の自由宗教的結社の自由の3つの内容からなる。もちろん、これらの自由には信仰をしない自由、宗教的行為をしない自由、結社をしない自由も含まれており、国家が信仰や宗教的行為を国民に強制したとすれば、当然ながら違憲である。

さらに、本条の信教の自由を保障するための派生原理として、政教分離原則が導かれる。国家が特定の宗教に対して圧迫・干渉をするのはもちろん許されないが、国家が特定の宗教に援助・助長・促進をすることもまた、それ以外の宗教の信者や、どの宗教の信者でもない者に対する迫害につながる。これは歴史が示すところである。国家が国民に対し信教の自由を実質的に保障するということは、国家が政教分離という態度をとるということにほかならない。幸福憲法は、政教分離原則を含むのである

3条――行政権[編集]

Quote1.png 第3条
前段 行政は、国民投票による大統領制により執行される。
後段 大統領の選出法及び任期は、法律によってこれを定める。
Quote2.png

大統領制[編集]

3条前段は、文言上は、議院内閣制ではなく大統領制をとることを示したものである。大統領制とは、権力分立原理(14条後段に「行政、立法、司法の三権の独立」との文言を置いていることから、幸福憲法が権力分立原理を前提することは明らかである)に基づいて立法権と行政権との抑制・均衡を保つため、立法権の担い手である議員の選挙とは無関係に、行政権の担い手である大統領を別個の選挙で選ぶ方式である。

後段の法律所管事項[編集]

3条後段は、大統領の選出法及び任期を法律所管事項としている。法律所管事項とは、国会の制定する法律によってしか定めることのできない事項である。

幸福憲法では、7条後段によって、大統領令が一般に法律に対し優越すると認められている。他方、「法律で定める」などとして、その具体的内容を国会の定める「法律」に委ね、「大統領令」の文言を置いていない規定をいくつか見ることができる。具体的には、次の4つがある。

  1. 3条後段: 「大統領の選出法及び任期は、法律によってこれを定める」とされている。
  2. 6条後段: 「国会の定員及び任期、構成は、法律に委ねられる」とされている。
  3. 10条: 「法律に反しない範囲でのあらゆる自由」とされている。
  4. 14条後段: 「〔天皇制その他の文化的伝統〕の権能、及び内容は……法律でこれを定める」とされている。

これらの法文は、16条で一般法として「大統領令もしくは、国会による法律」によると規定しているのと違い、「法律」しか挙げていない特別法(特別法は一般法に優先する)である。すなわち、上の4つは立法権によって行政権にコントロールを及ぼす趣旨の法律所管事項であり、これらには大統領令が適用されないと解すべきである。大統領自らが自分で自分を選出したり、任期を永遠にしたりするというバカなことはできないのである。

大統領の権能[編集]

国により大統領の権能はさまざまであるが、幸福憲法における大統領とは、行政権を行使する独任制の機関であり、その権能は大統領令を発することにあると解される。

大統領令は、行政機関である大統領によって定立される法規である。大統領令は一見万能のようであるが、権力分立原理に立脚する幸福憲法のもとでは、この権能は唯一の立法機関である国会(6条)の立法権を侵害しない範囲に限定されるといわざるをえない。これは前述の法律所管事項の規定を見ても明らかである[9]

なお、大統領制を採用している代表的な国家として米国を挙げることができるが、米国の大統領の権能には、法案の拒否権(望まない法案を成立させない権能)が憲法上認められているという際立った特徴がある。この拒否権は大統領制に制度上当然に伴うものではなく、米国の大統領に特有の権能であり、実際、幸福憲法には大統領に法案の拒否権を認める規定は存在しない。

国会の大統領不信任権と大統領の解散権[編集]

3条後段が「大統領の選出法及び任期」を大統領令の及ばない法律所管事項としていることから、国会の大統領不信任権が導かれる(より実質的な根拠は、権力分立原理である)。国会と内閣との協力関係が破綻したときには、国会は「現職大統領の任期を即時に終わらせる」という法案を可決する、との形式をとることで、実質的には大統領を不信任決議によって解職することが可能なのである。

もっとも、国会が無制限に不信任権を行使できるとすれば、国会による独裁を招くおそれが強い。そもそも、国会にせよ大統領にせよその権威は最終的に国民の意思に由来するのだから、両者の意思が食い違う、すなわちいずれかの意思が国民の意思と一致しないであろう場合には、直ちに新たな民意を問う必要がある。そこで、解散権の所在につき行政説(幸福3条説、旧憲65条説)に立ち、国会の大統領不信任権への対抗手段として、大統領に解散権を認めるべきである。

このように幸福憲法は、権力分立原理を重視して大統領への権限集中を避け、立法権から行政権へのコントロールが及ぶようにした、いわば半大統領制を定めていると解される(フランス第5共和制に類似する)。実質的な運用の上では、旧憲法における議院内閣制とほとんど変わらないこととなろう。

4条――大統領の地位および権能[編集]

Quote1.png 第4条
前段 大統領は国家の元首であり、国家防衛の最高責任者でもある。
後段 大統領は大臣を任免できる。
Quote2.png

行政権を行使する主体が人間であるとき、それを元首という[10]。3条前段で大統領が行政を執行するとされているのであるから、大統領が元首であることは当然である。また、大臣とは行政各部門の長をいい、大統領制のもとでは行政の長である大統領が大臣を任免することもまた当然である。したがって、4条は当然のことを注意的に規定したものである。

5条――軍隊および警察の設置[編集]

Quote1.png 第5条
前段 国民の生命・安全・財産を護るため、陸軍・海軍・空軍よりなる防衛軍を組織する。
後段 また、国内の治安は警察がこれにあたる。
Quote2.png

軍隊の設置[編集]

5条前段は、軍隊の存在する目的を「国民の生命・安全・財産を護るため」とした上で、軍隊を防衛軍と名づけ、その設置を定めている。軍隊は、暴力によって国際紛争を解決する装置であるという性質上、前文および1条に規定された平和主義・国際協調主義とは緊張関係に立つ(国連憲章2条4項により、武力の行使が国際法上原則として違法とされていることに注意したい)。そこで、軍隊は、

国連憲章51条に定める「武力攻撃が発生した場合」における「安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間」の「個別的又は集団的自衛の固有の権利」に即し、

なおかつ、

幸福5条前段の定める「国民の生命・安全・財産を護るため」という目的に合致する

ように、最大限に謙抑的に運用されることになる。いつくかの具体的論点として、以下のようなものが挙げられる。

  • 集団的自衛権の行使は違憲となる。集団的自衛権の行使とは、自国が全く攻撃されていない場合であっても、同盟国その他の他国が攻撃されていることを理由に、「これは集団的自衛である」と言って敵国に対し武力を行使することを指す。国連憲章51条が集団的自衛権の行使を容認しているのに対して、幸福5条前段は軍隊の目的を「国民の生命・安全・財産を護るため」と限定している。この「国民」には日本国民しか含まれないことは明白であるから、集団的自衛権の行使は幸福5条前段に反する。
  • 同様に、防衛軍の海外派遣または海外派兵は違憲となる。これもまた、幸福5条前段の目的外に軍隊を使用するにほかならないからである。
  • 徴兵制をとることは違憲となる。軍隊に入隊する者は必然的に生命・安全を脅かされることとなるが、5条前段の「国民」とは個別の国民を指し、国家全体を防衛するために個別の国民の生命・安全を脅かすことは許されないからである。すなわち、自発的な志願によって安全についての権利を処分した者だけが、軍隊に入隊することができる。(なお、兵役拒否権を付した徴兵制であれば、合憲となる余地がある。)

これらの点を指して、「幸福5条は一国平和主義」との批判がなされることがある。国際社会への軍事力の供給によってわが国の外交的なプレゼンスを増そうとする立場からは、幸福5条は早晩改正されるべき条文ということになるであろう。

警察の設置[編集]

なお、5条後段のいう警察とは、犯罪の予防・鎮圧などによって公共の安全と秩序を維持する行政作用、またはその作用を担う行政組織をいう。したがって、5条後段は当然のことを注意的に規定したにすぎない。

6条――国会[編集]

Quote1.png 第6条
前段 大統領令以外の法律は、国民によって選ばれた国会議員によって構成される国会が制定する。
後段 国会の定員及び任期、構成は、法律に委ねられる。
Quote2.png

国民代表機関・立法機関たる国会[編集]

6条前段は、「国民によって選ばれた国会議員によって構成される国会」との文言によって、国会議員が国民を代表することを定めている。さらに、「法律は……国会が制定する」との文言によって国会に立法権を与え、幸福憲法はその他の国家機関に立法権を与える規定を置いていない。すなわち、国会は国民代表機関であり、国の唯一の立法機関である。

なお、「大統領令以外の法律」という文言は、あたかも大統領令が法律の部分集合であるかのように読めなくもないが、これは大統領令と法律とが別の法形式であることを述べたにすぎない。大統領に立法権を与える趣旨でないことは、幸福憲法の立脚する権力分立原理に照らしても明らかである。

国会議員の地位[編集]

6条後段は、国会の定員・任期・構成が、大統領令の適用を排除する法律所管事項であることを示したものである。国会を構成する議院の数は、憲法上定められておらず、法律によって一院制をとることも二院制をとることも可能である。

ただし、6条後段を文言どおりに受け取ると、例えば国会議員の任期を永遠にしたり定員を1人にしたりするような、立憲民主主義に反する法律を制定することも可能となってしまう。幸福憲法ではこれを避けるため、司法府が立法府に違憲判断を突きつけることで、権力間の抑制・均衡を働かせることが予定されている(7条)。

7条――最高裁長官の権能[編集]

Quote1.png 第7条
前段 大統領令と国会による法律が矛盾した場合は、最高裁長官がこれを仲介する。
後段 2週間以内に結論が出ない場合は、大統領令が優先する。
Quote2.png

司法府による調整機能[編集]

最高裁長官とは「最高裁判所の長たる裁判官」の略であり、司法府の長である。7条は第一義的には、立法権と行政権との衝突を司法権によって調整する機構を定めたものである。

7条後段は「2週間以内に結論が出ない場合は、大統領令が優先する」と定めており、この文言の反対解釈から、「2週間以内に結論を出した場合は、大統領令は劣後する」という帰結となる。すなわち最高裁長官は、立法権からも行政権からも独立して、独自の法的判断によって「結論」を出す権能をもっており、大統領といえどもこの「結論」には逆らえないことになる[11]。すなわち、7条は司法権からのコントロールによって行政権への抑制・均衡を働かせることを眼目としている。

司法府の違憲審査権[編集]

さらに、7条後段の文言は一般原理として、(行政府の)大統領令が(立法府の)法律よりも形式上強い効力をもつということを定めている。したがって、司法府によるコントロール権が大統領令に及ぶのであれば、大統領令よりも形式的効力において劣後する法律に対しても、同じ権能が及ぶのはもちろんである(勿論解釈)。

もっとも、国会の作った法律の当否を判断する基準として、国会の作った法律を司法府が使うのでは何の意味もない。そこで必然的に、司法府は憲法を基準として、法律がそれに合致するか否かを判断することになる。憲法に適合しない法律が違憲として否定され、憲法に適合する法律が合憲として肯定されるのである。すなわち、7条は司法府の立法府に対する違憲審査権をも認めていることが導かれる。法の支配に立脚しているわが国では、このように司法権の尊重が帰結されることは当然である。

8条――三審制、最高裁長官の地位[編集]

Quote1.png 第8条
裁判所は三審制により成立するが、最高裁長官は、法律の専門知識を有する者の中から、徳望のある者を国民が選出する。
Quote2.png

8条は、裁判所の構成と最高裁長官の公選を定めている。

旧憲法と異なり、三審制を憲法上の要請としていることから、公正な裁判所による司法権の慎重な行使を憲法自身が求めていることがうかがわれる。司法権の尊重という、法の支配の一内容の現れとなっている条文である。

最高裁長官の在職要件[編集]

8条は最高裁長官の在職要件をも定めている。1. 法律の専門知識を有し、2. 徳望があり、3. 国民が選出したことの3要件が、それである。

「法律の専門知識」と「徳望」[編集]

第1と第2の要件である「法律の専門知識」と「徳望」は、必ずしも明確な規定ではない。したがって、恣意的な運用、ことに国会や大統領の不当な介入(例えば、大統領が「こいつには徳望がない」と宣言すればその裁判官が失職する、というような事態)を避けるため、これらの文言は可能な限り客観的に解釈する必要がある。

具体的には、「法律の専門知識」があるかどうかは、適切な試験を経て法曹資格を取得した上で、一定期間法律実務や司法行政の職を経験した(「判事を10年以上務めた」など)かどうか、といった明確な基準で判断すべきである。また、「徳望」とは徳(倫理的な品性)が高く人望が厚いことをいうが、品性や人望といった概念に伴う曖昧さを排除するため、この要件も「禁錮以上の刑に処せられていない」といった明確なものと解するべきである。この結果、「法律の専門知識」とは裁判所法・国家公務員法にいう資格事由があることと同義、「徳望」とは同法にいう欠格事由がないことと同義となろう。

「国民が選出」[編集]

第3の「国民が選出」したという要件は、文言どおりには、国会議員などと同様な選挙によって多数決で選ばれたことを意味しているかのようである。しかし、立憲主義の見地からは、多数決で決まった法律といえども、少数者の自由を不当に奪うもの=立憲主義に適合しないものであってはならない。このような判断をする司法府の長を、多数決原理にかからせることは極力避けなければならない。

そこで、司法の政治化を避け、法の支配の一内容である人権保障をまっとうするため、この「国民が選出」という文言はごく消極的に解されることになる。すなわち、その裁判官の経歴を公開して国民に審査させ、国民の信を得ない者だけを失職させるもの、と解するべきである。結果として、この要件は旧憲79条2項~4項の国民審査とほとんど変わらないことになる。

9条――人の公務就任権、公務員の報酬受領権と奉仕義務[編集]

Quote1.png 第9条
前段 公務員は能力に応じて登用し、実績に応じてその報酬を定める。
後段 公務員は、国家を支える使命を有し、国民への奉仕をその旨とする。
Quote2.png

公務就任権[編集]

9条前段は、「公務員は能力に応じて登用し」との文言で人の公務就任権を、「実績に応じてその報酬を定める」との文言で公務員の報酬受領権を定めた規定である。

9条前段の文言上、公務に登用される者が日本国民に限定されていない。すなわち、これが外国人の公務就任権を認めた規定なのかどうかが問題となる。この点、国民主権原理から、政治・行政についての意思決定をする力・権威は国民に存するべきだから、国政レベルでの外国人の公務就任権は否定すべきと解されるであろう。

他方、住民自治(幸福13条)が強く要請される地方自治体においては、外国人といえども永住者等のように、地方自治体に緊密な生活基盤をもつ者の公務就任権は否定されていないと解される。もっとも、文言上積極的に保障されているとまではいえないから、外国人の公務就任権を認めるかどうかはもっぱら立法政策の問題として、国会を通じて全国民にゆだねられているいうことになろう。すなわち、旧憲法下の判例法理と同じ帰結となる。

なお、公務員は労働者であるのだから、報酬としての賃金を受けることは当然である。したがって、報酬受領権については当然のことを注意的に規定したにすぎない。

公務員の奉仕義務[編集]

9条後段は、旧憲15条2項(「すべて公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない。」)を実質的にそのまま維持した規定である。

10条――平等原則と包括的自由[編集]

Quote1.png 第10条
国民には機会の平等と、法律に反しない範囲でのあらゆる自由を保障する。
Quote2.png

10条は、人権保障という立憲主義において最も重要な役割を担う規定である。

「機会の平等」の保障[編集]

10条は、国民に「機会の平等」を保障している。機会の平等とは多義的な概念であるが、幸福憲法下では、これは相対的平等を前提として形式的平等を原則的に保障し、補充的に実質的平等を取り入れたものと解される。

絶対的平等と相対的平等、形式的平等と実質的平等[編集]

絶対的平等は、個人間の条件の差異を無視して平等に取り扱うことをいい、相対的平等は、同一条件のもとでは平等に取り扱うが、条件の異なる個人間では取り扱いの差異を許すことである。これに対し、形式的平等実質的平等は、人の現実のさまざまな格差を是正しないか、是正するかの違いである。これらは混同しやすい概念であるが、大雑把な組み合わせの例を挙げると、以下のようになる。

絶対的平等を前提とした形式的平等
収入2000万の人からは税金を200万取り(手取り1800万)、収入200万の人からも税金を200万取る(手取りゼロ円)。
絶対的平等を前提とした実質的平等
(絶対的平等のもとでは、実質的平等は観念しえない。)
相対的平等を前提とした形式的平等
収入2000万の人からは税金を200万取り(手取り1800万)、収入200万の人からは税金を20万取る(手取り180万)。
相対的平等を前提とした実質的平等(の極端な例)
収入2000万の人からは税金を1820万取り(手取り180万)、収入200万の人からは税金を20万円取る(手取り180万)。
相対的平等を前提とした実質的平等(の穏当な例)
収入2000万の人からは税金を800万取り(手取り1200万)、収入200万の人からは税金を20万取る(手取り180万)[12]

絶対的平等を推し進めると不合理な結論が導かれることは言うまでもない。前提として相対的平等をとることとして、社会に存在する現実としての格差をどの程度是正するかが問題となる。格差の是正を極端に推し進めると(極端な実質的平等)、全体の平等という理念のために個人の権利の侵害を招くことになり、これも不当である。だからといって格差の是正を全く考慮しなければ(極端な形式的平等)、幸運にも「機会」に恵まれた者だけが富を独占し、そうでない者が「機会」を得ない社会を生み、これも正義・公平の観念に反する。

したがって、ほどほどに実質的平等の理念を取り入れ、政治部門がほどほどに介入して国民に「機会」を分配することが、幸福10条のいう「機会の平等」を保障する方途として最も穏当であろう。

「法律に反しない範囲でのあらゆる自由」の保障[編集]

「あらゆる自由」の内容[編集]

10条はまた、国民に「あらゆる自由」を保障している。その具体的内容のいくつか(特に、歴史的に国家権力によって制約を受けることがしばしばあったもの)を以下に挙げる。

国家からの自由(自由権)
  • 幸福追求権
    • プライバシー権
    • 肖像権
  • 精神的自由権 - 特に、政治的な集会・結社・表現には幸福11条による保障も及ぶ。
    • 思想・良心の自由
    • 信教の自由 - 幸福2条でも特に保障される。
    • 集会の自由
    • 結社の自由
    • 言論・出版・その他一切の表現の自由
    • 学問の自由
  • 経済的自由権
    • 職業選択の自由・営業の自由
    • 財産権
    • 居住移転・外国移住・国籍離脱の自由 - 人身の自由としての側面もある。
  • 人身の自由
    • 奴隷的拘束・意に反する苦役からの自由
    • 適正手続の保障
    • 刑事被疑者・被告人としての権利
      • 令状なき捜査からの自由
      • 不当な抑留・拘禁からの自由
      • 公平な裁判所の迅速な公開裁判を受ける権利
      • 拷問・残虐な刑罰からの自由
      • 弁護人依頼権
      • 自己負罪拒否権
      • 二重の危険からの自由
国家への自由(参政権)
「政治参加の自由」として、幸福11条でも特に保障される。
国家による自由(社会権および国務請求権)
  • 社会権
    • 生存権
    • 教育を受ける権利
    • 勤労権・労働基本権
  • 国務請求権
    • 請願権
    • 裁判を受ける権利
    • 国家賠償請求権
    • 刑事補償請求権

「法律に反しない範囲」の意義[編集]

10条はまた、「あらゆる自由」の保障について「法律に反しない範囲」との留保を付している(法律の留保)。これは、法律によりさえすれば無限定に国民の自由を制約できると読むのではなく、「国民の自由を制約するには国会の定める法律によることが必要で、大統領が単独で大統領令を発して国民の自由を制約することはできない」という、法律の留保の本来の意味(法律による行政)に即して解釈すべきである。

もちろん、国会の制定した法律といえども、その内容が適正でない法律によって国民の自由が制約されてはならない。したがって、ここでいう法律とは、正しい法律という意味に限定される。参考までに、旧憲31条の文言では「法律の定める手続によらなければ……刑罰を科せられない」と規定されていたが、これは「正しい法律の定める正しい手続によらなければ」と読まれていた(適正手続の保障)。すなわち、「刑罰を科すには法律さえあればよく、その法律はどんなメチャクチャな内容でもよい」のではなく、「刑罰を科すには法律が必要で、その法律は立憲主義に合致する正しい法律でなければならない」のである。幸福10条においても、「法律」の文言を同様に解すべきことは言うまでもない。

ここでいう正しい法律とは、法の支配に基づく立憲主義に適合した法律、すなわち個人の自由と権利を守る法律である。すなわち、個人の自由といえども他の個人の自由に衝突する場合には、無制約に自由を行使させるわけにはいかない。そのような衝突を調整し、個人ひとりひとりにとって公平に自由を確保するような法律だけが、10条で認められる「法律」だと解されることになる(旧憲法下の「公共の福祉」に関する一元的内在制約説を参照)。

11条――国民の政治参加の自由[編集]

Quote1.png 第11条
国家は常に、小さな政府、安い税金を目指し、国民の政治参加の自由を保障しなくてはならない。
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11条の重要な点は、国民に政治参加の自由、すなわち参政権を保障していることである。参政権は10条のいう「あらゆる自由」にも含まれるが、国民主権のもとで国民が有する重要な権利であるから、改めて条文を設けたものである。

また、11条に「安い税金」とあるのは、税金を課することは個人の財産権に対する国家からの制約にほかならないから、その額が不合理に高いことが明白な場合には違憲とされることを示したものである。財産権に限らず、あらゆる国家行為は、国民の自由・権利を不当に害する場合には違憲とされるべきであるから、これは当然の規定といえる。

なお、11条には文言上「小さな政府」を目指すとあるが、これはせいぜい国の努力目標を示したものにすぎないと解される。「小さな政府」論は、「神の見えざる手が経済を最適化するから政府は介入するな」との主張と結びつきやすく、極論すれば「公共投資、社会保障、為替介入、破綻銀行への公的資金投入などの経済政策はことごとく幸福11条に照らし違憲である」とされかねない。そもそも、経済政策の是非の判断能力は司法部門よりも政治部門のほうが高く、また違憲判断が裁判所に可能だとしても、裁判所が政争の具として利用されること(司法の政治化)は避けるべきである。したがって、この「小さな政府」の部分に法的拘束力はないというべきであろう。

12条――憲法の私人間効力[編集]

Quote1.png 第12条
マスコミはその権力を濫用してはならず、常に良心と国民に対して、責任を負う。
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マスコミに対する効力[編集]

12条は、マスコミが国民に対して責任を負うとした規定である。ここでいうマスコミとは、不特定多数人に対し一方的・大量に表現物を送る送り手をいうと解される。典型的には新聞社、出版社、放送局等が含まれよう。

憲法は国家に対する命令であり、マスコミは国家機関ではなく私企業である。したがって、憲法によってマスコミが拘束されるのは本来は奇妙なことである。しかし、現代社会では、資本主義の高度化と情報社会の発展に伴って、マスコミという社会的権力による人権侵害の危険性が増大している。このような、国家でない者による侵害から、個人の自由・権利を守るために、憲法に私人間効力を認める必要性が生じる。12条は、まさにこの私人間効力を宣言した条文といえよう。

そして、12条はマスコミが「国民に対して、責任を負う」としており、マスコミは国家に対する責任を負うのではない。すなわち、国民個人の憲法上の人権を侵害したマスコミは、その個人に対する責任を果たすべき(具体的には、損害を賠償し名誉回復措置をとるべき)ということになる。

もっとも、マスコミも国家との関係では一私人である。もし仮に、憲法の人権規定がマスコミ(という私人)に直接適用されるとすれば、国家がマスコミの行為を「違憲である」と断ずることとなる。これは憲法がそもそも私人の対国家防御権であることからすると、本末転倒である。極論すれば、「国民に対する責任」を口実に、国家がマスコミの表現の自由を不当に侵害することになりかねない。

そこで、私人間には憲法の人権規定を直接に適用するのではなく、私法の一般条項である民法90条(公序良俗違反行為の無効)や民法709条(不法行為による損害賠償)の解釈に憲法の趣旨を取り込むことにより、憲法が私人間の行為に間接的に適用されるようにすべきと解される(間接適用説)。

すなわち、マスコミの行為がたとえ憲法で保障されたプライバシー権などの個人の人権と衝突しても、マスコミは国家ではないのだから「違」になることは論理的にありえない。しかし、個人の人権を尊重するという趣旨は民法の領域にも及ぶべきだから、マスコミの行為はその趣旨に反して「違」となり、民法90条や民法709条を根拠として個人への賠償責任が生じる(民法を通じて間接的に憲法が適用される)、ということになる。

その他の私人に対する効力[編集]

12条は文言上「マスコミ」のみを挙げているが、これは、たとえ表現の自由(精神的自由権)という優越的な人権を行使する者といえども、国民個人の自由・権利を侵害してはならないという趣旨である。したがって、精神的自由権よりも政策的制約を受けやすい経済的自由権の行使によって個人が人権侵害を受けた場合も、もちろん12条を適用ないし準用すべきであろう(勿論解釈)。

例えば、大企業が従業員を雇う際に、労働条件を決めるのは営業の自由(幸福10条)の行使であるから、国家がこれに介入することは避けなければならない。このような雇用関係は私的自治の領域にあり、原則として当事者が自由に決めるべきことである。しかし、企業側が従業員の出身地や政治的思想によって賃金に差別を設け、このような労働条件を企業の強い立場を悪用して押し付けるようなことがあれば、それは幸福10条の平等原則の趣旨に反する。そこで、このような労働条件は公序良俗違反(民法90条)として違法・無効となり、企業側に従業員個人に対する賠償責任が肯定されることとなろう。

13条――地方自治[編集]

Quote1.png 第13条
地方自治は尊重するが、国家への責務を忘れてはならない。
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13条は地方自治の総則規定であり、旧憲92条と同趣旨のものである。

文言上は「国家への責務」と書かれているが、この「国家への責務」とは地方自治体が国家に対し何をする責務であるのかが書かれていない。したがって、この規定を根拠として、国家が地方自治体に何かをさせること(何かをしない状態を違憲とすること)は不可能というほかはない。すなわち、この「国家への責務」云々という部分は、地方自治体に対し何ら法的拘束力をもちえないことになる。

すなわち、幸福13条は、「地方自治は尊重する。」とだけ書いてあるのと同じと解するしかないのである。実質的には、旧憲92条における「地方自治の本旨」の要請(すなわち、団体自治の要請と住民自治の要請)をそのまま維持した規定として運用することとなろう。

14条――天皇制の法定、権力分立原理[編集]

Quote1.png 第14条
前段 天皇制その他の文化的伝統は尊重する。
後段 しかし、その権能、及び内容は、行政、立法、司法の三権の独立をそこなわない範囲で、法律でこれを定める。
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幸福憲法における天皇制[編集]

14条は、天皇制その他の文化的伝統の内容を法律所管事項とする規定である。すなわち、天皇に関する定めには大統領令が及ばない。天皇を民主的コントロールの下に置き、大統領が天皇を権威として利用することを防ぐ趣旨である。

幸福憲法における天皇は、日本国の象徴であることが憲法上要請されていない。したがって、天皇の存在意義をいかに規定するかは、もっぱら立法政策の問題として、国会を通じて全国民にゆだねられているということになる。

幸福憲法の前提としての権力分立原理[編集]

14条の重要な意義は、権力分立原理の現れとなっていることである。14条は、「行政、立法、司法の三権の独立」が成立していることを前提として書かれている。このことはわが国が立憲主義国家である以上、書く必要がないくらい当然の前提といえるが、権力分立というわが国のよって立つ法原理を明確にするために、あえて明文を置いたのである。

15条――硬性憲法性、最高法規性[編集]

Quote1.png 第15条
前段 本憲法により、旧憲法を廃止する。
後段 本憲法は大統領の同意のもと、国会の総議員の過半数以上の提案を経て、国民投票で改正される。
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15条前段は「後法は前法を廃する」という法原則から帰結されることにすぎず、特段の意味がない。

15条後段は、幸福憲法が硬性憲法であることを示している。すなわち、法律の制定改廃が唯一の立法機関である国会(6条)にゆだねられ、大統領令の制定改廃が大統領の専権に属していることに比較して、憲法の改正には「大統領の同意」「国会の総議員の過半数」「国民投票」という3要件があり、はるかに厳格な手続要件が規定されている。

これは、幸福憲法が最高法規であることの現れである。わが国の立脚する法の支配のもとでは、憲法が最高法規であることは前提として要請される。また、下位の法令の改正要件が上位の法令よりも厳しいと解するのは端的に不合理であり、採用しえない。したがって、憲法は最高法規として他の法令すべてに優越し、わが国に憲法に反する法令の存在は許されないのである。

16条――一般条項[編集]

Quote1.png 第16条
本憲法に規定なきことは、大統領令もしくは、国会による法律により定められる。
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16条は、大統領令と国会制定法が法源の性質をもつことを規定している。これ自体は当然の規定ではあるが、この一般法としての16条が存在することから、3条後段・6条後段・10条・14条後段が「法律」のみを挙げ「大統領令」を挙げていない特別法であることがわかる。すなわち、16条は大統領令の及ばない領域があることを間接的に示すことによって、権力分立原理を補強した規定といえるであろう。

結語[編集]

以上、幸福憲法のごく短い規定群を概観してきた。ここから理解されるのは、憲法の条文がいかなる体裁のものであろうとも、立憲主義に適合するように解することは可能だということである。

繰り返しになるが、われわれはわが国が立憲主義国家であることを知っている。日本国民の総意そのものが、日本を立憲主義に基づかない国家に変えてしまおうとしない限り、憲法がいかに改正されようとされまいと、わが国は立憲主義国家であり続けるのである。

逆に言えば、われわれの総意そのものが立憲主義を廃棄しようと決意すれば――その文言にどんな名文名句が書かれていようと――憲法は、たちどころに死ぬ。幸福憲法は逆説的に、そうわれわれに教えているのである。

脚注[編集]

  1. ^ 以下、現行新・日本国憲法の条文を参照するときは「幸福○○条」、旧日本国憲法を参照するときは「旧憲○○条」と表記する。
  2. ^ コンメンタールとは、「逐条解説書」を意味する和製ドイツ語である。このコンメンタールの執筆にあたり、著者は起草者自身による解説書1ページたりとも参照していない。法解釈は、時として起草者の意思を超えなければならないのである。
  3. ^ この「昔」とはおおむね絶対王政の時代を指す。それよりもさらに少し昔(中世)には、国王といえども諸侯との関係において「同輩中の主席」にすぎなかったので、国王にも従うべき法がある(諸侯の権益を守れよ)という中世法優位の思想が採られていた。
  4. ^ この「国民」とは主にブルジョワの人であり(市民革命の「市民」とは現代のイメージと異なり、もっぱらブルジョワを指す)、その主な関心はカネ=財産であった。財産の恩恵を受けるには生命があることが前提であり、財産を増やすためには自由な経済活動が必要で、そのためには国王が勝手に国家権力でいろいろ規制をしてくると邪魔なのである。しかし、そういうことを表に出すと大多数の国民の支持は得られないから、平等や博愛の理念を錦の御旗に掲げることにした。それによって全国民が少なくとも絶対王政の時代よりはマシな自由を獲得できたのだが、あまりに自由(特に、経済政策における自由放任主義)を徹底すると、今度はブルジョワの人の財産が増えて貧乏人はより貧乏になるだけである。そこで、社会権(国家による自由)を保障する必要が生じることになる。
  5. ^ 権力分立は立法権・司法権・行政権の三権分立と呼ばれることが多いが、立憲主義の黎明期には裁判所は国王の出先機関にすぎず、司法権と行政権とは未分化であった。最初に行われたのは、国家権力から立法権を分立させることである(このように、すべての国家権力から権力分立原理によって一定の権限を引いていった残りを、行政権と呼ぶ)。幸福憲法では、14条後段に「行政、立法、司法の三権の独立」との文言が現れることから、権力分立原理を前提としていることは明白である。
  6. ^ この「正しい法」とは、法の支配に基づく立憲主義に適合する法という意味である。
  7. ^ 諸外国の憲法を見ても、神や造物主という宗教的権威を人権の根拠付けに持ち出している例は多いが、だからといって無神論者が人権保障の対象から外されるわけではない。
  8. ^ ある条項の条文が句点で切れて2文になっている場合、1文目を前段、2文目を後段という。3文になっている場合は、1文目を前段、2文目を中段、3文目を後段という(まれにしか見られない)。4文以上になっている場合は、減らしたほうがよい。
  9. ^ 行政法学上、行政機関による命令は法規命令(国民の権利義務に関する規範)と行政規則(国民の権利義務に関係しない行政機関内部の規範)の2つに大別される。すなわち、幸福憲法においては、行政規則を定めるのは大統領の専権であるが、法規命令を定めるには法律の根拠=立法権からの個別的な授権が必要ということになる。
  10. ^ ちなみに、旧憲法下の内閣総理大臣は、元首ではない。旧日本国憲法では行政権は内閣という合議機関の権能(旧憲65条、73条)であって、内閣総理大臣個人の権能ではないからである。
  11. ^ 言うまでもないが、「大統領は最高裁長官の結論に逆らうことが可能」という解釈はとりえない。幸福憲法があえて7条という条文を置いた意味が無意味化され、わが国の立脚する権力分立・法の支配という法原理に反するからである。
  12. ^ 総合課税の累進税率を参考にしている。控除額は無視した。

関連項目[編集]