UnBooks:丁國史卷一

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丁国は、三国時代の丁国最後の皇帝張奎の孫・張高が開いた王朝。南丁。

本紀[編集]

高祖[編集]

張奎は、暗愚で、奸臣佞臣の手に移っていた。後に回国の将軍・徐昌により国が滅ぶと、子の張剛は国外に逃亡し、孫の高が国を立て直そうと丁国を建国した。後に文官の蘭景が儒の教えを以て国を治めるのが一番といい、文治政治を始め、家柄や身分を問わず多くの人材を集めた。隻景二年の時、回国を滅ぼし、翌年に回国の武将だった董寵・董寓兄弟の乱を鎮圧し、金国を従わせた。法律を定め、識字率を上げて高級官吏を恐れさせた。歴皇后が宦官の楊卩他十人と都亘侃の官吏の家を焼き払おうとしたが、高祖は此を咎め、「そんなことをしたら治安が危うく、狼の爪が丸くなるのと同じだ」と言った。民に支持され天寿を全うした。

景文帝[編集]

名は[亢β]で、高祖の長男だった。曲がった事が嫌いで、尚かつ聡明だった。 宣景や、呉陵などの将軍が、別大陸に遠征し、領土が段々大きくなっていき、民も裕福になっていった。呂顔繕、王延苙等が法律を定め、国籍もふんだんに取り調べた。やがて徐皇后が権力を握ると、渠王斯が反感を持ち始め、皇族の粛清に乗り始めたが、露見して殺された。憲法十七条を定めた。彼が三一歳になり寵臣の諸葛律が侃王遵に讒言し、徐皇后の権威が緩んだところで彼の親政が始まり、外地の遠征が多くなって、東は陋巷、西はアカネイア大陸の呉匡に辿り着く大国となった。しかしこれにより民の生活が苦しくなると遠征を控え六一歳で他界した。

殤帝[編集]

名は遼。病弱で、しかも暗愚、佞臣に振り回され続けた。最後に徐皇后に毒殺された。

安喬帝[編集]

名は飛。殤帝の頃の低迷期にあった国を中興させようと各地から儒者を集め年貢を軽くしたり、高級官吏から金を取り立てるなどして都を再建した。政治が安定し、殤帝の頃の内乱も収まってきた。

列伝[編集]

鐘宜[編集]

字は北全、納匡李の人。弓術に優れ、高祖に先行官に抜擢された。数々の戦いに参加し、金国の太子凱を捕らえるなどの戦功を立てた。老いて益々盛んな老将で、簡巳二年に国姓を給わった。三年後に他界して、諸将が慟哭した。

劉信[編集]

字は炉封。丁国の名将・劉進の孫で、郷里で兵法書を読んでいたが、高祖に才を見抜かれ参謀となった。天下統一すると、功臣の一人として特別待遇を受けた。やがて高祖が亡くなり景文帝の時代になると、彼は憲法の作成に力を注いだ。

毛方[編集]

字は白欽、初代大将軍。高祖の旗揚げ直後から仕え、死力を尽くして戦った。背中に切り傷があり、目は吊り上がっていた。軍事の訓練を一つも怠らず、征服した土地の略奪を禁じた為、敵国の地でも有名だった。天下統一すると、功臣として大将軍になった。この後も軍事を怠らなかった。景文帝が即位すると憲法の軍事の処を作成した。

袁昻[編集]

字は蒙務、クーランの人。母がアカネイアの人。父は袁忠。ミエラリア公国で反乱を起こしたが、鎮圧された。翌年彼は殺された。

呉陵[編集]

字は子務、万貞の人。国外遠征で勇名を馳せた。二人張りの強弓を一人で引くことが出来た。高祖死後、某安国、ミエラリア公国、武嬰国に遠征が始まり、彼は先頭に立って指揮をとった。某安国には八人の魯服がおり、それぞれ名前を荊亜、區案、茂欽務、馬喬、維柘己、模羽、阿糺、東南李といった。八人が会議すると、模羽よりも年上の東南李がいった。

東南李「無駄な血を流すのは我が国にとっても無益。このさい潔く降伏しましょう」

模欽務「誌王九代の血を途絶えることですぞ。軽々しく言うことでは御座らぬ」

すると、一番年下の荊亜が言った。

荊亜「模欽務殿の意見に賛成でござる。貴公は亡国の魯服でござろう」

東南李「いや、それは…」

阿糺「失望したっ」

模欽務達は東南李を激しく憎み、東南李も最早ここに良人は居らぬと呉陵の陣に走った。東南李は断固応戦を主張していると申した。呉陵は最初疑い、諜報を放ったが、諜報の証言では東南李とほぼ同じ事を言っており、戦以外道はないと思った呉陵は某安国の陣営に夜討ちをしかけた。隊長の維柘己は酒で酔っており、馬に乗った瞬間射られて殺された。六人は東南李のいう事が本当になると、将来が心配になり、会議した末に王の旻妛を殺した。この時辺境の町モボリヲでは王子の蒙歩がそれを聞くと、民に勧められて自ら即位し、武嬰国の高隹王となった。武嬰国は他国に遠征し領土を拡げ、丁国の猛攻撃にもあって町が破壊されたりもしたが命を長らえた。呉陵はどうなったかというとその後も武嬰国に遠征したが魯服・瑜礼に捕らえられ、之を裸にさせて丁国にアーッ!をさせようとしたが、逆に武嬰王に向けて「アーッ!」をしたため殺された。

李勝厦[編集]

字は丙系。蒙勇の人。安喬帝に様々な助言をして、政治面で活躍した。著書に政治の在り方についてといた「系書」、法律について書かれた「王法」がある。

楊文[編集]

字は子伉、生地不明。もとミエラリア公国の武将だったが、反感を持ち始め丁国に投降した。槍の使い手で、「之にはかの司馬系も適わない」と言った者迄居るという。安喬帝に気に入られ、車騎将軍に昇格した。仕官三年目、武嬰国に町の文易が占領されたが、彼は状況から予想し、予測していたのだという。安喬帝は寝室に入って良い迄と言われたが、戦で負った傷が悪化し、四九歳で亡くなった。

国語解[編集]

魯服…宰相が事を決める時、その事の会議をする人。