UnBooks:イギリスのモデルケースにみる少子化打開への展望

出典: へっぽこ実験ウィキ『八百科事典(アンサイクロペディア)』
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非正論3月号
アンサイクロメディア財団自称論説委員 折田千枝乃


今年も春一番が訪れ、紳士淑女たちは心うららかに、日々の骨盤の緊張も解けるであろうこの頃。しかし、この世に天文学的な数生まれる両生類の幼生たちは、この温もりを経験すること無く一瞬の時を終え、土へと還っていくのである。

日本少子化は言うまでもなく危機的な状況である。その数で0.01増えた、0.02減ったなどと一喜一憂している間にも、出生数は減少の一途をたどっている。かつては家庭を持ち始めるはずであった年代が、今ではもう少子化が始まった世代に差し掛かっており、彼らはご存知の通り我が子を持つことが出来るような状況には無い。若年層の所得は減少し続けている。これを終わりの始まりと言っても、決して言い過ぎではない。

過小評価された力[編集]

あらゆる面において世界でイニチアシブを持つとされる先進国諸国——しかし、人から人へと社会を継承するという「競争力」においては、これらの国々は危うい程に弱体化している。

対して、発展途上国では次世代への継承力は余りあるものであり、この点においては世界の行く末を握っていると言える。彼らの所得は確かに低いが、多数の子供を持ち暮らしている。彼らは子供たちを含めて、その時々での足るを知り、難解な弁証法を知らずとも本能で、生活の向上と子孫の繁栄に努めるのである。

自身も22人の兄弟がいるオスマン・サンコンアフリカ連邦日本大使はこう語る。「武田信玄の『人は城、人は石垣、人は堀』——1番感銘を受けた日本の言葉です。石垣の石を一つ一つこまめにメンテナンスすることは確かに難しいでしょうが、今の日本の石垣は、全体を点検することが放置された挙句に崩れかけているように見えます。」

石垣を放棄した日本。少子化を打開することは憲法9条に違反するのであろうか? 繁栄などというものは、所詮は諸行無常であるのだろうか?

現代にマッチした出産と養育[編集]

ブラウン首相も賞賛した、少子化打開テストモデル一家。

そんな中、イギリスの首都ロンドンでは、地域の少子化を是正するための新しいテスト政策が行われている。アルフィー・シャンテルモデルと言われるこのトライアル。テスト政策対象者となった新生児、メイジーちゃんの両親の名から採られたものである。

特筆すべきことは父母の年齢である。それぞれ13歳と15歳。父母は落ち込む訳でもなく、かと言って舞い上がる訳でもない。ただ幸せに満ちている。冷静に妊娠検査をし、命の尊さから出産を決めた父母。通常なら若気の至りが過ぎると大変な非難に会うところであるが、彼らの落ち着きからここにおいては、極めて穏やかなものとなっている。更に、アルフィー・シャンテル夫妻は、己をよく知っている。すぐに働いた所で、まともに養育できるはずも無いことを。そして、人の繋がりもまた能力である。もっとも信頼できる人に娘を托し、自分たちも授乳やおしめの交換、あやしや子守歌など、可能な限りのことをする運びであるようだ。

シャンテルは賢明である。子供を産むためにその機会を怠ること無く確保し、8人の相手を見定めた結果、年齢というラベルに騙されずにもっとも人柄のよいアルフィーと共に生を送ることとした。これに対しては他の相手も改心し、一緒に養育を手伝うことを希望する者まで現れている。

「メイジー・シャンテル・アルフィーの一家は、如何に若くして所得が無くとも次世代という生を肯定することができるかという、先進国が持つ課題に対する一つの解答です。」——NGO「ヤング・マザーズ・アンド・ファザーズ・ネットワーク・オブ・ロンドン」の公報担当、メラニー・ブラウンさんはこう述べる。「現代文明の規範となっている『一父一母両成人』という観念は、今や実現できれば大変おめでたいという実現困難な理想でしかありません。バレンタインデーのギフトをきっかけに付き合い、結婚へと至る程に。この理想から外れれば外れるほど、生を受けた子供たちの未来は加速度的に暗くなっていきます。現代社会は理想だけを追い求めたためにその限界を露呈し、自爆へのカウントダウンを始めていると言え、今後はこの理想から外れた親子を如何に救い出すかが鍵となるでしょう。」

古くは我が国も[編集]

現在の日本においてアルフィー・シャンテルモデルは、ドラマに出てくるような絵空事としか思えない。しかし、この流れは高々数十年、長くても150年足らずの動向でしか無い。

日本でもかつては12歳が元服であった。女子においてもこれは同様であり、翌年には第一子が誕生していたりする。彼らには思春期青春を満喫する余裕など無かった。また、離婚する夫婦などもざらにあったが、片親の子供たちは地域社会で真っ当に育てられた。片親の子を幕府が弾圧したという記録は無い。事態が変化したのは明治以降のことであり、これは世界の画一化を強いるキリスト教的な思想の流入によるものである。この同年代の一夫一妻が生涯を添い遂げるという、今となってはとても一律に実現不可能なシステムは、幾ら夫婦の形が多様化してもなお社会の標準となっている。

だがちょっと待ってほしい。本来ならばしっかりと持ち得たばかりその機能を果たしていることこそ、生理的には自然と言えるのでは無いか。学校でごっこ遊びのように恋愛を扱い、保健体育はお楽しみ時間と化し、擬似恋愛ですらこれに勝るという現状こそが、異常と言えるのでは無いか。

これは決して一律に早婚を薦めるものではない。人には個性と個人差があるからだ。しかし一般的とされる人生のプロセスが遅かったり、無いことが個性であるのなら、早いこともまた個性である。集団によるやっかみや嫉妬のコンセンサスは社会を機能不全にさせるだけである。もし彼らが犯罪を犯したのだとしたら、本来ならば単純にその該当する犯罪者——殺人犯強姦魔傷害致死犯育児放棄者——として扱かわれるだけである。異常性愛者というレッテルは、マスコミが持つには不釣り合いなエルメスのバーキンに過ぎない。


自由を謳っている現代社会。しかしその実際は空気によってがんじがらめにされたという点では、歴史上もっとも不自由な社会体制と言える。確かに問題が全く無い社会などこの世に存在しない。しかし、今この時代は、問題が山積しているのにも関わらずプロパガンダにより一番マシと吹聴しているという、ソビエト連邦末期にも似た状態ではないだろうか。

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