1558年ワールドカップ日本代表

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2006年ドイツW杯公式ポスターに描かれた義輝ジャパンの勇姿。合同練習のひとコマか。背番号から手前の選手は尼子晴久と思われる

この項では1558年ワールドカップ日本代表(-にほんだいひょう)について記述する。本大会出場を目指して戦ったが、ワールドカップ出場はならなかった。

概要[編集]

当時征夷大将軍であった足利義輝正親町天皇から代表監督に任じられ、マスコミ等で『義輝ジャパン』の愛称で呼ばれた。コーチ陣には管領 細川晴元に加え、蹴鞠界の第一人者で飛鳥井流宗家飛鳥井雅綱や足利義輝監督の恩師でもある剣豪上泉信綱を迎えるなど、悲願のW杯本戦出場をめざし万全の布陣で臨んだ。

しかし代表選考段階から混迷を極めた。当時まだ無名の存在だった織田信長の抜擢や、足利義輝監督との対立により実力者三好長慶の召集が見送られるなど、順風満帆とはいいがたい船出となった。国内リーグ戦スケジュールとの調整不足で過密日程となったことや、国内リーグ優先のため各クラブが代表への選手派遣を渋るなどの理由で、合同練習が十分行えなかった。最終的には足利義輝監督が望むほぼベストのメンバーが集まったものの、個々の選手たちの能力とは反比例してチームワークはまったく機能せず、期待はずれの最終予選敗退となった。日本のワールドカップ本戦出場は実に440年後の1998年フランス大会まで待つことになる。

日本代表メンバー[編集]

アジア最終予選日本チャンパ王国代表戦、先制ゴールを決めた尼子晴久

当時天才フットボーラーの呼び声も高かった今川義元をはじめ武田晴信長尾景虎毛利元就北条氏康ら、個々の能力では世界で十二分に戦えるメンバーが揃っており、まさに日本史上に残るスター軍団であった。
キャプテンシーは名門駿河SC今川義元に、背番号10のエースナンバーは当時国内リーグ 首位の出雲FC尼子晴久に与えられた。また安芸FC(後のサンフレッチェ広島)からは毛利元就吉川元春小早川隆景という最多の3選手が代表選出された。

錚々たる顔ぶれで本戦出場の期待を託されて臨んだものの、選手間の連携が非常に悪かった為にアジア最終予選で、まさかの敗退を喫した。

その敗退の一因にも挙げられていたのが、平均年齢39.8歳というメンバーの高齢化問題であった。今回FWで選出された織田信長以外にも浅井長政長宗我部元親松平元信宇喜多直家島津義久義弘兄弟など、どのポジションを見渡しても有望若手選手が全国各地で、その才能の片鱗を見せていた。特に、父に勝る不世出の天才と謳われた今川氏真の選出も考えられたが、いずれも所属クラブでの出場機会が少ないことから召集を見送られていたのであった。

なお、39.8歳という平均年齢は予選参加114ヵ国中でマンコ・カパック2世監督率いるインカ帝国代表に次いで2番目の高齢である。(なお、選手全員が17歳として登録されていたソンガイ帝国代表には年齢詐称疑惑があり、実際には3番目であると思われる。)

背番号 選手名 ポジション 所属クラブ(当時) 備考
1 龍造寺隆信 GK 肥前(鳥栖)
2 北条氏康 DF 相模(横浜FM)
3 毛利元就 DF 安芸(広島)
4 六角義賢 DF 近江
5 大友義鎮 DF 豊後(大分)
6 伊達晴宗 MF 陸奥
7 武田晴信 MF 甲斐(甲府)
8 今川義元 MF 駿河(清水) 主将
9 長尾景虎 FW 越後(新潟)
10 尼子晴久 MF 出雲
11 島津貴久 FW 薩摩
12 吉川元春 FW 安芸(広島)
13 蘆名盛氏 MF 陸奥
14 山名祐豊 MF 但馬(神戸)
15 朝倉義景 DF 越前
16 佐竹義昭 DF 常陸(鹿島)
17 小早川隆景 MF 安芸(広島)
18 最上義守 DF 出羽(山形)
19 赤松義祐 DF 播磨(神戸)
20 斎藤義龍 GK 美濃(岐阜)
21 細川藤孝 GK 和泉(C大阪)
22 織田信長 FW 尾張(名古屋)

監督[編集]

コーチ[編集]

戦術[編集]

義輝ジャパン主なスターティングメンバー

義輝ジャパンの基本戦術は3-5-2システム。特に起点となる選手は設けず、各々が臨機応変に攻撃参加していくものである。義輝監督の狙いは、ポジションに囚われず各選手が状況に応じて流動的にポジションチェンジを繰り返す『全員守備·全員攻撃』にあった。

しかし日程的な問題で合同練習が充分にできなかったのは義輝ジャパンにとって致命的であった。日々国内リーグでしのぎを削る選手たちが意思疎通を図り、高度な連携を生むにはあまりに練習時間が短すぎた。 結局組織だったプレーは殆ど浸透せず、全員がただひたすらボールに群がっていく、いわゆる金魚のフンとなってしまった。ゴールキーパーまでもが積極的に攻撃参加しようとするそのシステムは、3-5-2というよりもはや0-0-11と呼んで差し支えない斬新なものであった。残念ながら義輝監督の意に反し選手たちの戦術理解度は現代小学生の遊戯レベルであったといえる。

義輝監督の理想の高さと現実のギャップはあまりに大きかった。だが1974年ワールドカップ準優勝のオランダ代表が見せたトータルフットボールを400年以上も前に実践しようとした義輝監督の戦術眼は賞賛に値しよう。

義輝ジャパン全戦績[編集]

1次予選、最終予選とも対戦はホーム·アンド·アウェイ方式で行われた。

アジア1次予選[編集]

グループ4 1位 ()は試合会場

  • ○日本10-0琉球王国(近江坂本)
  • ○日本4-1シャム(比叡山延暦寺)
  • ○日本3-2ドゥッラーニー朝(カンダハール)
  • ○日本7-0琉球王国(首里城)
  • ○日本2-1シャム(アユタヤ王宮)
  • ○日本2-1ドゥッラーニー朝(京都御所)

1次予選では順調に勝ち続けたが、格下相手のため当然の結果とも言える。 だがこの1次予選の好調がかえって次の最終予選で油断を生む原因となった。

アジア最終予選[編集]

グループB組 3位 ()は試合会場

  • ○日本2-1チャンパ王国(ミーソン聖域)
  • △日本1-1ムガル帝国(近江坂本)
  • △日本2-2北元(高野山)
  • ○日本3-1チャンパ王国(京都御所)
  • ●日本3-4ムガル帝国(デリー)
  • △日本1-1北元(モンゴル高原)

後半3点差を引っくり返されたムガル帝国とのアウェー戦では世にムガル崩れと呼ばれる大失態を演じた。 最終戦北元戦は、点差に関係なく勝てば決勝大会進出だったが、1-0の日本リードで迎えた後半ロスタイム悪夢の同点ゴールを許し、勝ち点差でムガル帝国と並ばれ、得失点の差でB組3位に終わる。総合順位でも6位となり大陸間プレーオフ進出の望みも断たれ日本の予選敗退が決定した。

関連項目[編集]


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