138度線

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白線が138度線
日本戦争後の東経138度軍事境界線

138度線138どせん、英語:138th meridian east)は、日本列島を南北に通る東経138度線上に引かれたアメリカソ連の分割統治ラインである。付近にある大都市の名から、静岡・糸魚川線ともいう。日本戦争後の東西日本の軍事境界線もやはり138度線と呼ばれることがあるが、右記画像を見れば分かるとおり正確には一致しない。 これは、1950年に開戦した日本戦争が膠着状態のまま休戦に至ったため、停戦時の戦線がそのまま境界線になったからであり、日本海側(裏日本)では西日本軍が138度線の東に食い込み、太平洋側(表日本)では東日本軍が西に食い込んでいた。

歴史[編集]

日本の分割統治[編集]

1945年8月9日、ソ連大日本帝国に宣戦布告し、満州への侵攻と同時に北海道への侵攻を開始した。この状況を受けてアメリカは対応を検討し、自国の攻撃によって弱体化させた大日本帝国ソ連に占領される事態を防ぐ為、大日本帝国に早期降伏を勧告する事が決まった。

しかし大日本帝国は断固として降服を拒否。アメリカは3発目の原子爆弾製造を急ぐとともに、1945年11月2日九州南部へ上陸、翌1946年1月までに九州を統治下に置いた。しかし、陸軍を中心とする戦争継続派は断固としてポツダム宣言受託を認めず、米ソ両軍がそれぞれ東西から侵攻を続けた為、最終的には現在の138度線とほぼ同じ線に両軍が同時に到達する事になった。(本土決戦) ここに到り、長野県の松代大本営に臨時的に移っていた大日本帝国政府はようやく降服を受諾した。(松代宣言

アメリカソ連は交渉の末、大日本帝国東北地方・北海道地方からなる北日本、関東地方・北陸地方・東海地方からなる東日本、近畿地方・中国地方・四国地方・九州地方からなる西日本に分割し、北日本はソ連、西日本はアメリカが統治し、東日本は米ソの共同統治とすることで合意した。 本土より一足先に米軍の手中に収まっていた沖縄(琉球)は、米軍による軍政を経た後に正式な米国領土とされた。(米領琉球

この頃、東日本では共産主義勢力を中心とした「日本革命委員会」や大日本帝国陸海軍の残党を中心とした「大日本統一委員会」が発足し、日本人による東日本の独立の動きが高まっていた。 革命委員会はソ連が、統一委員会はソ連の進出を抑える事で一時的には利害が一致している米国が、それぞれ秘密裏に支援を行っていた。 しかし東日本政府の代表選挙の立候補資格を巡って、両組織の後ろ盾であるアメリカソ連の利害対立が更に激化。両者が別々に選挙を行う異常事態となり、結果として1948年、日本民主主義人民共和国大和民国という2つの国家が東日本に建国された。

日本戦争[編集]

1950年6月25日、同日の朝鮮民主主義人民共和国大韓民国侵攻と同時に、日本民主主義人民共和国はソ連統治下にあった北日本と統一した上で大和民国に宣戦布告し、東京の侵攻を開始した。これに対してアメリカは6月26日、大和民国を西日本と統一させて対抗、日本戦争が始まった。

当初、戦況は先制を仕掛けた日本民主主義人民共和国が有利であった。東京は瞬く間に人民軍によって占領され、関東地方の大半が日本民主主義人民共和国の支配下に入った。その後も人民軍は西への侵攻を続け、7月10日には大和民国の首都である大阪市を占領した。 この侵攻により、12日、大和民国福岡市に臨時政府を置いた。 25日、国連議決により派遣されたアメリカ中心の国連軍により、大規模な大阪市奪還作戦(舞鶴上陸作戦)が決行された。 これにより、8月4日、大和民国は大阪市の奪還に成功した。 しかし、大阪市、そしてその近郊の京都市は長日に及ぶ戦闘の末に焦土と化しており、大阪市の奪還は即ち、首都圏再興に全力を注がなければならないという現実を大和民国に叩き付けた。 大阪市の奪還に勢いを付けた国連・大和民国軍は東への侵攻を続け、18日に名古屋市奪還、29日には東京の奪還に成功した。 翌日、日本民主主義人民共和国は札幌市に臨時政府を置き、休戦協定を求める声明を出した。(札幌革命声明) しかし大和民国側はこれを破棄し、更なる侵攻を続け、日本列島統一への道を目指すことを決断した。 9月17日、国連・大和民国軍は仙台市を占領し、24日には青森市を占領した。 翌、25日、大和民国は降伏を勧告した。 これを受け、事態を重く見た日本民主主義人民共和国は徹底抗戦を決め、中国に義勇軍の派遣を要請した。中国側は、人民解放軍部隊を朝鮮戦争にも派遣されていた「中国人民志願軍」の一部と言う扱いで日本にウラジオストク経由で派遣することを決め、「中国人民志願軍第二方面軍」と名づけられた部隊は、10月4日、札幌で人民軍と合流した。 人民軍・志願軍の合同侵攻が開始されるのはその2日後の6日のことである。

Nemurineko.jpg この節を書こうとした人は途中で寝てしまいました。
後は適当に頑張って下さい。(Portal:スタブ)

最終的に両者は東経138度線を挟んで膠着状態に陥り、休戦協定を結んだ1951年以降は断続的に小規模な戦闘が起こるという状況が繰り返されるようになった。1953年8月15日、東京で停戦協定が結ばれ、3年間続いた戦争は終結した。この結果、日本は138度線に基づく軍事境界線によって分断され、以東を日本民主主義人民共和国東日本)、以西を大和民国西日本)とすることに決まった。

現状[編集]

長野県松本市に於ける犀川の起点。ここでも、川を挟んで東西両軍が軍事拠点を設けている

138度線付近には両国が敷設した大量の地雷があり、また幾重にも高圧電線が張り巡らされていて、人は住んでいない。上越長野上田松本茅野などの数ヶ所には両国の軍事拠点が設けられ、緊張状態が続いている。他の地域は山脈となっており居住者はもともといないが、両国が監視拠点を設けている。また佐渡島は東西日本の双方が自らの領土と主張しており、この付近の海域では小規模な衝突が繰り返されていた。1964年に偶発的に発生した佐渡沖海戦に端を発する佐渡島事件では、一時的に東日本が島を占領する事態になり、東西の全面戦争に発展する可能性もあり、(佐渡島危機) この島は東西の火種となっており、「列島の火薬庫」とも呼称されていた。2013年12月までは西日本政府統治下に於かれていたが、西日本政府の悪政ぶりと媚中・媚韓ぶりに嫌気が差した佐渡島民が2013年11月3日に武装蜂起し、駐屯する西日本軍との間で戦闘状態に突入。佐渡島民軍側は佐渡解放戦争、西日本軍側は佐渡蜂起と称したこの戦いは、東日本軍が佐渡島民軍を支援したこともあり、2013年12月25日に佐渡島民軍の勝利で終結。佐渡島民は佐渡人民共和国の独立を宣言し、東日本との国交を樹立した。なお、「佐渡人民共和国」の独立宣言文が外国通信社に配信された際に、本来国名を「People's Republic of Sado」とすべきところを、誤って「People's Republic of Sade」と表記されたため、全世界のサディストマゾヒストたちが沸き返るというハプニングが発生した。なお、この佐渡解放戦争において、佐渡島民軍を支援した東日本は、「佐渡を併合する気ではないか」という国際社会からの批判をかわすため、佐渡人民共和国を即日承認し、大使館の設置を発表した。

関連項目[編集]

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