黒田清隆

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黒田 清隆(くろだ きよたか、天保11年10月16日(1840年11月9日) - 明治33年(1900年)8月23日)は日本の酔っ払い。いつも一升瓶を持ち歩いており顔に酒気を帯びていた上酔った勢いで暴れると手がつけられなくなる問題人物。そんな問題人物にもかかわらず日本の2代内閣総理大臣になっちゃった人。酒の飲みすぎのせいで山縣松方みたいに長生きできなかった。しかしあれだけ酒飲んでて60まで生きたのだからむしろ十分長生きしたんじゃないのとも言われる。

生涯[編集]

薩摩藩の下級武士出身。金持ちになって好きなだけ酒を買うのが夢で明治維新に参加したらしい。未成年どころか3歳の頃から飲酒していたが後年これを糾弾された黒田はガキの頃から酒飲んでて何が悪いと開き直っている。

酔っ払いながらも正確に大砲を発射できる射撃能力と命中精度の高さを評価され砲手となった。ちなみに黒田はしらふの状態だと酔っ払った時よりも命中率が若干落ちたと言う。生麦事件では血気に逸って抜刀しようとする薩摩藩士らをむしろ止めようとしたと言われているが、実際は二日酔いのせいで抜刀どころか立っているのもやっとであったらしい。

薩長同盟では西郷隆盛桂小五郎の間を取り持って二人に酒をもてなしたが結局は黒田自身が酔い潰れて寝てしまった。しかしその豪快な人柄をかえって西郷らに気にいられた。鳥羽伏見の戦いでは酔っ払った勢いで大砲を連射して幕府軍を打ち破った。その後の奥羽越列藩同盟との闘いでは自ら編み出した我流の酔拳で戦い奮闘した。

幕府軍残党との五稜郭での最終決戦では敵将榎本武揚に男気を感じたのか榎本の助命を要求。榎本を許すまで俺は動かんと一升瓶片手に座り込み講義をした。黒田の熱意が通ったのか榎本は助命された。榎本は黒田の好意に感嘆し、以降二人は飲み友達になった。

その後は開拓史となり北海道樺太に眠っているウォッカの源泉を巡ってロシア帝国と激闘を繰り広げたが引き分けに終わった。征韓論争に際しては黒田は「外国の酒より領内の酒」を重視し、まずは日本での造酒に力を入れるべしと主張した。その後ロシアの酒好き官僚に日本酒を献上してご機嫌を取り千島列島の所有権を獲得した。西南戦争では酔っ払った勢いで奇襲攻撃を仕掛けて味方を勝利に導いたが、その後嘔吐してダウンしてしまいしばらく寝込んでいた。明らかに酒の飲みすぎである。ちなみに黒田が開拓使時代に育てた屯田兵は鍛えられており西南戦争以降も戦闘で活躍したが酒癖の悪さまで受け継いでしまったらしく、後に山縣有朋から禁酒を命じられている。

しかし黒田の妻が亡くなった際に黒田が酔っ払った勢いで妻を斬り殺したと言う噂が流れ、黒田自身事実酔っ払ってて覚えがないとのことから国民からの疑いの目を向けられた。薩摩の同僚達が慌てて火消しした為大した大事には至らなかったがこれ以降黒田の評判はずるずると落ちてゆく。ちなみにこの火消しのせいで大久保利通が暗殺されたのだとも言われる。

後憲法の発案にかかわったり2代目内閣総理大臣になったりしたがなんだかパッとせず人望も落ちてゆき自棄酒に浸る事が多くなり晩年は不遇だった。

Nemurineko.jpg この節を書こうとした人は途中で寝てしまいました。
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逸話[編集]

  • 常に酒を飲んでないと欲求不満で暴れだしてしまう。で酒を飲むと酔った勢いで暴れだす。
  • 酔った勢いでジャイアンの頭を足蹴にしたことがあったが、これに関して彼は一言も詫びていない。さらに山内一豊の股間も脚蹴りにしたことがあったが、酒を飲んでいてもやっているため、どうでもよくなった。
  • 天下無類の猫フェチで屋敷で100匹くらい飼っていた。時々その猫を大広間に集めては全裸で転げ回ったり、雌猫と交尾しようしたこともあったがこちらは未遂に終わっている。

関連項目[編集]

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