鳥居元忠

出典: へっぽこ実験ウィキ『八百科事典(アンサイクロペディア)』
移動: 案内検索
Wikipedia
ユーモア欠落症患者のために、ウィキペディア専門家気取りたちが「鳥居元忠」の項目を執筆しています。
「やっぱ命は大事だよね~」
鳥居元忠 について、織田有楽斎
「彦右衛門は俺の関羽のような存在だ(という事にしておこう)」
鳥居元忠 について、徳川家康

鳥居 元忠(とりい もとただ、天文8年(1539年) - 慶長5年8月1日(1600年9月8日) )は、戦国時代の武将。徳川家康の家臣。通称は彦右衛門鳥居忠吉の末っ子。

本能寺の変では京都から逃げだしたが、関ヶ原の戦いでは前哨戦で死んだ。

生涯[編集]

酒井忠次平岩親吉大久保忠世らと並んで、家康が今川義元の元で人質生活を送っていた頃からの側近であった。講談などによると、家康が今川家臣から粗略な扱いを受けたり、“麻呂野郎”今川氏真をボコボコした時に元忠が身を挺してこれを庇ったり、一緒に袋叩きするなど、忠臣としての美談が描かれているが、実際は家康に対して主従愛を通り越した恋愛感情を抱いており、庇うどころか自ら家康の寝床まで夜這いして襲っていた。家康があまり男色を嗜まかなったのは、元忠に襲われたことによるトラウマのせいだとされている。

その後、元忠は数々の戦場に従軍し武功を挙げたが、戦の中で脚を負傷して歩行が不自由となり、本多忠勝井伊直政ら若い世代が頭角を現し自らの出る幕が少なくなると、不貞腐れて部屋に篭り自慰に耽ることが多くなった。

それが原因かは不明だが、元忠は若くして認知症になってしまう。こんな逸話がある。武田家滅亡後、家康は美人と名高い武田家重臣馬場信春の娘を妾に欲しがり元忠に探索を命じたが、信春の娘は結局見つからず仕舞いであった。しかし、それから暫くの後、家康は見つからなかったはずの信春の娘を元忠が自らの妻にしているという話を耳にする。剛直な元忠が垣間見せた横着な一面を家康は面白がり、破顔一笑して許した、という逸話だが、実際の所はボケが回っていた元忠が信春の娘が見つかったこと、そして彼女を自分の妻にしたことすら忘れてしまった、というのが真相のようである。家康が許したのも、認知症の老人(まだ老けてないが)を叱責しても仕方がないと諦観したためである。

50代も後半になると元忠の痴呆はますます悪化し、城内で糞尿を垂れ流したり突然奇声を上げたりと奇行も多くなり、介抱無しではまともに生活できない身体となってしまう。老人養護施設など存在しないこの時代、家康はこのボケ老人を山に捨てるなり路上に放置するなりして処分するか否か散々悩んだが、やはり人質時代から自分の支えとなってくれた忠臣を捨てることには躊躇いを感じ、自分の世間体も悪くなることなどからもついには処分には至らなかった。それに、自分が漏らしたのも押しつけられるし。病死してくれればそれに越した事はないと不謹慎な事を考えていた家康だが、頭がボケたにも拘らず元忠は元気であり、同年代の秀吉や前田利家が亡くなってもまだピンピンとしていた。

しかし処分に困っていたこのボケ老人を都合よく始末する格好の機会が訪れる。秀吉死後、家康は上洛命令を無視した上杉景勝討伐に向けて会津へと進軍するが、その最中に上杉と結託している石田三成がその間隙を衝いて挙兵し、徳川軍を挟み撃ちにするとの知らせが届く。会津遠征そのものが三成を誘い出すための家康の罠だったとも言われているが、いずれにせよ、時間稼ぎの為に伏見城に居留守役を留め置かなければならなかった。家康は元忠を始末するこれ以上の好機はないと捉え、彼に伏見城の守備を任せる。

その旨を伝える折、元忠は家康の命令を上の空で聞き流していたが、家康が主旨を伝え終わると、急に畏まり、一言家康にこう告げた。

喜んで、一命捧げ奉る
主命 について、鳥居元忠

そう言うと元忠はかつて戦場で負傷した脚を引きずりながら覚束ない足取りで去っていった。元忠に会う直前まで、これであのボケ老人とおさらばできると小躍りまでしていた家康だが、遠ざかってゆく元忠の足音を耳にしながら、自分の浅はかさを恥じて号泣した。しかし、ボケ老人一人に城の守りを任せるのはやはり不安なので、元忠を監視し、ついでに一緒に玉砕してくれる付添いの役がくじ引きで選ばれ、この気の毒な役目には松平家忠内藤家長の二人が選任された。

元忠らはわずか1800の兵で伏見城に篭るが、島津義弘宇喜多秀家小早川秀秋ら4万の大軍に包囲される。城攻めの大将である秀家は元忠に降伏勧告を呼びかけたが、痴呆の元忠は全く理解できず、唸るような奇声で返答。これを侮辱ととらえた秀家は激怒し総攻撃を命じる。しかし戦闘となると、それまで目の焦点も合さっていなかったボケ老人の元忠は急に覚醒し、寡兵で大軍を相手に予想外の奮戦を繰り広げた。数に勝る西軍だが攻めあぐね、長束正家が伏見城内の甲賀衆を脅して寝返らせ、内側から火を放たせたことによりようやく落城に至った。元忠を筆頭に城兵は壮絶な玉砕を遂げた。脚を負傷し、痴呆となり、戦場で武功を立てること叶わず余生を過ごしていた元忠だが、最期に死に花を咲かせた事により、徳川四天王に劣らない知名度と勇名を馳せたのであった。

かくして、三河のボケ老人は、三河武士の鑑となった。
鳥居元忠の最期 について、司馬遼太郎

映像作品における鳥居元忠[編集]

近年では元忠認知症説が主流となっており、2000年の大河ドラマ葵~徳川三代ではこの説が採用され、元忠を演じた笹野高史と家康役の中村橋之助との掛け合いはドラマ屈指の名シーンとして評価が高い。

…上の話は三年前の大河「毛利元就」の福原広俊役の話だったような気もする。どうやら筆者も認知症になってしまったようだ。そういうわけで、後は歴史に詳しい偉大な兄弟達に加筆を任せる。

この項目「鳥居元忠」は、執筆者がクラックをキメていた可能性もありますが、今はまだクソの山です。より愉快にしてくださる協力者を求めています。さぁ、これを見ているあなたも、恥ずかしがらずに書き込んでみよう! (Portal:スタブ)