魂を込めて書いた記事はまずスルー

出典: へっぽこ実験ウィキ『八百科事典(アンサイクロペディア)』
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魂を込めて書いた記事はまずスルー(たましいをこめてかいたきじはまずスルー)とは、必笑のネタを思いつき、そしてそれに全身全霊を込めて挑んだアンサイクロペディアン地獄に突き落とす現実である。

なお、反対の存在として、適当に思いついたネタを適当に書いたら、本人が一番驚くほど爆釣という「所詮、世の中インパクト」が挙げられる。

概要[編集]

いつも冷静で世の中を達観しているように見えるアンサイクロペディアンが、唯一、自分の魂の一番打たれ弱い部分をさらす瞬間が、記事を書いた直後である。苦労に苦労して一つの記事を書き終わった直後、爆笑している人間を頭に思い描きながらNRVICUを貼られたときほど、アンサイクロペディアンが世の中に絶望することはない。自分の笑いのセンスやネタの鮮度、何よりも書き終わった直後の記事を再び吟味しなければならない労力など、様々な思いが頭の中を去来する中で必死になって記事に取り組めるやつらはエライ。なぜなら、多くの人間は、天国から地獄へ突き落とされたとき、全てを諦めるからである。かくして、カテゴリ:どうしようもない記事はいつの日も繁栄を続けることになる。

しかし、それ以上に厳しいといえるのが、アンサイクロペディアが「本当に面白い記事」に対して反応を見せづらいという側面からくる「あれ、この記事、本当に面白いのか?」という自問自答である。

そのため、アンサイクロペディアに記事を書き続けていく中で知る現実の一つが「魂を込めて書いた記事はまずスルー」である。

面白い記事への反応[編集]

アンサイクロペディアにおける現実の一つに、たとえ秀逸な記事になるような良記事だとしても、書かれた直後にその記事に対する感想をアンサイクロペディアにおいて語られることは滅多にないという悲しい話が存在する。もっとも、書いた人間の会話ページにおいて、記事を賞賛する例や、その記事のノートにおいて作者を賞賛する事例はいくつか存在する。ただし、記事、本人への批判をその両ページでするのはいくつかの事例どころの騒ぎではない。そのため、自分の書いた記事が、果たして本当に面白かったかどうかをアンサイクロペディア内で判断する唯一の材料は、画面下のカウンターのみと言っても過言ではない。

その上、初版投稿者もいい具合で書き、新着記事にも掲載されたにもかかわらず、まっっったくカウンターが回らないという悲劇もよくある話である。これは、残念ながらアンサイクロペディアンを唸らせる記事とそれ以外の人々が求める記事の温度差から来る悲劇であり、大変に知的ユーモアにあふれるほどありがちである。そして、新着記事にも掲載されずに記事のバイト数がン万を越え、膨大な人物紹介の結果、削除議論まで巻き起こるサブカルチャー系の記事のカウンターが、軽~く1万を越えるのが、アンサイクロペディアの否定できない事実である。

しかし、それが永続的な面白さかどうかと言われると、そんなことはない。まったくない

悲しい話[編集]

サブカルチャー系の記事がどんな終息を向かえるかについては、悲しい事例が存在する。1990年代初期に、大きなお友達ご用達で有名だったアニメに「きんぎょ注意報!」という作品が存在する。2017年現在、絶賛赤リンクのままであるこの作品は、その昔、おジャ魔女どれみと同じレベルで語られ、今で言うプリキュアシリーズ並みの評価をされた作品である。それほど熱く語られた作品も、時流が過ぎた後ではこの有様である。あわせて、今、六神合体ゴッドマーズについて熱く語れるか?と、一言で表すこともできる。

…悪い、宇宙船サジタリウスなら熱く語れる

記事と作品の寿命がつりあうことがない以上、なるべく、後世においてペンペン草も生えない荒野もしくは見捨てられた悲劇と言われることのないよう、記事を時代に即したレベルで手直しし続けなければいけないのだけれど、アンサイクロペディアでは、多くのサブカルチャー系作品の記事において、そのン万を越えたバイト数が手直しする意欲を阻害し続ける。

悲しい話である。

アンサイクロペディアの外部での反応[編集]

このように、自分の記事の評価を確かめる方法が少ないアンサイクロペディアであるけれど、簡単に評価を確認する方法として、各種検索ページで「アンサイクロペディア 〇〇(記事の名前)」で、外部のページが引っかかるかどうかで判断することができる。ただし、これは記事作成から反応まで半年や一年といった時間がかかる事も珍しくないため、「面白い記事が書けた!誰か面白いかどうか聞かせて聞かせて、おねがいだから!」という欲望が満たされることはまずない

そして、実際にそんなことを聞いた瞬間に記事の面白さから、その成分を構築する要素の一つである執筆者への信頼が失われていくので、なるべくならやらないほうがいい。ただし、手練れのアンサイクロペディアンたちがそんな思いを抱かないというわけではない。彼らは常に「魂を込めて書いた記事」がスルーされることを念頭にあくまでも冷静に、淡々と記事を執筆し続けていくだけであって、ごくたまに会話ページやその記事のノート、外部のブログなどで賞賛をされると、あくまでもシラっとしつつ、必死になってそれまでの信頼を崩さないように努めて冷静に振舞うのである。

ここでその胸の内を聞くってのは野暮である。

お勧め記事[編集]

しかし、そんな賞賛を求めたくても求められないアンサイクロペディアンにも救いの道がある。それが、一部ユーザーによるお勧め記事への選出である。特に、選出の際に中でもお勧めとされる枠に入るかどうかで一喜一憂するのが多くのアンサイクロペディアンのあるべき姿でもある。しかし、手錬れのアンサイクロペディアンは選ばれて当然といってスルーするのがよくある光景である。

そして、選ばれてなかったらスルーどころではなくけっこうショックだったりするのもお約束である。

公的お勧め記事ページが新設される[編集]

2010年2月、あまりにも記事を書く労力に対して評価の少なさが割に合わないという問題の解決のため、月ごとにお勧め記事を選出することが決定。早速、Uncyclopedia:おすすめ記事としてページが作成される。しかし、作成してはみたものの、そこにはぬぐいがたい現実、アンサイクロペディアンの本性が垣間見える事態が発生。3月に入った段階でトップページからリンクが外されてしまう。

その悲しい現実とは、多くのアンサイクロペディアンは他人の記事を褒めたがらないという、ある意味、表現する側の心情を考えると致し方ない話である。

あわせて、マニアックな笑い、誰も知らないような笑いを好む人間にとって、自分の笑いのツボを世間に見せたくない、見せてはならないという防衛本能に基づいた行動でもある。それは、もしどこかのアンサイクロペディアンがロリ画像ではなく、ロリ画像に引っかかった初心者が右往左往するページを見て爆笑したとしても、それを人様にお勧めするのは問題であり、なおかつそんな個人的な笑いのツボをさらけ出すのも問題である。なおかつ、わざわざこんな話を例示するのは大問題である。

このように、人によっては、笑いのツボはなまなかにさらけ出せるものではない。正直、ブラックジョークやシックジョークの類はドン引く可能性が高いどころの騒ぎではない。確実にドン引く。笑いの幅が広がれば広がるほど、初心者に見せてはいけない世界が広がっていくのは、ある意味いたし方のないことである。

流行記事大賞[編集]

そしてもう一つ、アンサイクロペディアンにとって最高の賞賛の場として、流行記事大賞が存在する。2007年から毎年年末に開催されるこの催しは、多くの記事執筆者にとっての晴れ舞台であり、なおかつ、もっともスルー技術を問われる場でもある。他薦の候補にすべり込み、なおかつ自薦したとしても他者からの票を獲得することで、多くのアンサイクロペディアンが一年分の胸のやきもきさせた気持ちをはらすこのイベントは、逆に言えば、自信のある記事が他薦されなかったり、自薦しても見事にスルーされる姿を見さらしたりと、慣れないと本当にたまったもんではない。そのため、手錬れのアンサイクロペディアンは絶対に自信作を自薦しない。絶対に

もちろん、そんな姿はまったく見せずに冷静に対応するのが「いつものアンサイクロペディアン」である。いつもの。

秀逸な記事[編集]

そして、流行記事大賞以外に、アンサイクロペディアンに訪れる望外な喜び。それが秀逸な記事の選定である。ディスプレイの外で、記事の制作者がどんな表情をしているかは誰もわからない。そして、見事に落選したとき、いったいどんな顔をすればいいのかは誰もわからない。ただし、そんな非常事態、ろくでもない悲劇に際しても、まったく動揺することなくスルーする技能を持つのがよく訓練されたアンサイクロペディアンである。

最終的に[編集]

手錬れのアンサイクロペディアンたちは、まず自分の記事の評価で感情を動かすことなく淡々と記事を作成していくようになっていく。そうすることで、流行記事大賞にも秀逸な記事選定にも耐えられるスルー能力を身に着けていく。

わけはない

できるか、んなこと。

結論 [編集]

人の評価ってものは良くも悪くも恐ろしい。

関連項目[編集]

将軍様
流行記事大賞 金賞受賞記事

この記事は2009年流行記事大賞にて金賞を受賞しました。
この記事は偉大なる将軍様のように尊敬されるでしょう。