高田渡

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高田渡(たかだ わたる、1949年2005年)は岐阜県に生まれ、1960年代末から2000年代にかけて活躍した日本のフォークシンガー吟遊詩人であり、日本の歌謡史に残る酔っ払い、なぎら健壱初号機、自衛隊勧誘の第一人者である。あまりにも飲みすぎたせいで札幌で死んじまったが、会いたかったら今でも吉祥寺で飲んでいる。

概要[編集]

高田渡は日本のフォーク史の黎明期から活躍してきた酔っ払いであり、フォークの重鎮であり、かつ酔っ払いであり、酔っ払いである。1月1日に生まれたために、そういう宿命を背負った可能性が高い。一時期、完全に忘れられた存在となっていたが、2000年代に入り突如脚光を浴び、その直後に死亡。ただし、今でも場末の酒場で酔っ払い、かつ歌っていることが確実なので、ファンは全然気にしていない。

生活の柄[編集]

いつだって飲んでいる。飲みながら歌っている。歌いながら寝るという必殺技すら身につけている。むしろ飲まなければ高田渡ではない、という稀有な存在。おかげで寿命を縮めちまったが、本人もファンもまったく気にしていない。結局、自分の生きたいよーに生きたので、楽曲も人柄もファンからめちゃくちゃ愛されている。

まったくもって世間に全然さっぱりとにかく知られてないけどね。

自衛隊に入ろう[編集]

彼は1960年代後半に変人岡林信康のはじめたフォークブームに感化されてギターを爪弾き始め、当初は京都を中心に活動、壮士演歌(大正時代の政治を扱ったコミックソング)の流れを組んだ歌を次々と発表し、注目を集める。そのため、大正時代の歌曲を調べるときにほんとーにありがたい存在である。また、1969年に発売された代表曲、「自衛隊に入ろう」は、自衛隊幹部も絶賛するほどのメッセージ性を持ち、サヨは喜び勇んで反戦歌として持ち上げたにもかかわらず本人は「右も左も全部誤解してくれて、『やったぜ』と思った。 なーんだ、紙一重だぜ、こいつら、と思っていたら、すぐに放送禁止ですよ」と言い放った、超有名放送禁止歌曲に分類されている。そのほかにも、ホームレスについても歌っている。値上げについても歌っている。アイスクリームについても歌っている。

まぁ、アメリカのフォークソングも似たような題材から始まっているので、こっちのほうが正しい。

歌えりゃなんでもいいんだ。

三億円事件の唄[編集]

また、きょーれつにアメリカのフォーク野郎どもに対する敬慕の念を持ち、ピート・シーガーやウディ・ガスリーの歌曲に対する信仰は、それはそれは激しかった。なお、ウディ・ガスリーは生涯かけて歌い続けて、結局、売れないまま死んでしまったわけだが。まったく同じ道のりを本人も歩むとは、はたから見てると本当に笑える。もっとも、両名ともに詐欺師ボブ・ディランを生み出す源流となるわけだから、その功罪は大きい。そのため、高田渡も酔っ払いとしてまったくぶれなかった。歌い手としても。

ただし、歌いながら寝ちまって、イスからずり落ちたことは何べんもある

しらみの旅[編集]

逸話はそれこそ腐るほどあり、反骨精神旺盛、頑固で皮肉屋で大酒のみ、そのくせ歌が大好きときたもんだから、まったくテレビで扱えるような人材ではなかった。よーやく出てきたのが、50代に差し掛かった2000年に入ってから。もちろん、長年のファンはしっかり確保していて、若者の、しかもアングラな連中にとっては神様みたいな存在になっていた。そして、しっかり映像を残して、しっかりと死んだ。

見事すぎて泣きたくなる

値上げ[編集]

フォーク界における三大酒飲みの栄えある第一位に輝く存在であり、二位の友川かずき、三位のなぎら健壱とコンサートを開いたときは、朝の10時の段階ですでに酔っ払っていた。友川かずきも、前日に飲みすぎて血を吐いた後だった。そして、なぎら健壱も、リハーサルの段階で飲んでいた。

一応、客が金を払って聞きに来るコンサートについての話である。

長屋の路地[編集]

本人は3歳で母を亡くし18歳で父親とも死に別れ、東京の夜間学校に通いながら歌を歌い始める。ハーモニカホルダーを自作し、4本弦のウクレレを8本弦に改造したはいいが見事にぶっ壊し、有名になった後でシバ、若林純夫らと武蔵野たんぽぽ団を結成し、加川良、岩井宏と三ばかトリオとして全国を回り、まぁ、とにかく高田渡だった

コーヒー・ブルース[編集]

Wikipedia
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