駒井政武

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駒井 政武(こまい まさたけ 生没年不詳)は戦国時代武将甲斐武田氏家臣。駒井政時の子。駒井信為の弟。駒井政直(昌直)の父。名は昌頼かもしれない。高白斎と号した。脳筋猪武者揃いの武田家において、文人的要素を持った稀有な人物で、日記やら随筆やらを残している。板垣信方と共に父武田信虎に忌避されて非行に走っていた若き頃の武田信玄のお目付け役、世話役であり、少年のころも、成人してからも常人離れした思考の信玄には色々と手を焼かされた。信玄の少年時代の頃は彼が寝小便をする度に布団を変えてやるのが日課で、「さぞや、(小便が)沁みましょう」が口癖であった。

人物[編集]

武田家で最も影の薄い武将でありながら、記録魔にして新聞記者。あまりの影の薄さから甲陽軍鑑はおろか、下らない資料にもごくたまにしか名前が出てこないが、信憑性のある資料には必ず出てくるよく分からない人物。武田信玄の手紙にも、「駒井を呼ぼうとしたが、気付いたら、わしが踏んでいた。」とか、恵林寺の記録にも「第17回武田杯争奪かくれんぼ大会にて、駒井高白斎17回連続優勝、その存在感の無さは天賦の才なり云々」と記されるほど存在感がなかったという。しかしそれを武器に武田家の記録「高白斎日記」を著して、後世に記者の鑑とたたえられる。

高白斎日記[編集]

只でさえ影の薄い駒井が著した記録。武田信虎から信玄までに起こった、事件事故とゴシップ記事が満載された日記である。まさに、「東スポ戦国版」。あまりにいろいろな記事を入れたので、武田家の恥まで後世に残してしまった。現代のタブロイド記者にとっては教科書であるという。

記載している記事の一部

  1. 砥石城で負けた。(砥石崩れ
  2. 信玄信虎を追放した。
  3. 原美濃守が「食いしん坊万才」に出演した。
  4. 馬場民部が暑苦しい顔つきだった。
  5. 武田信玄がコマネチした。
  6. 武田信繁が切れた。←この時、駒井は偶然居合わせたらしく事実のみ記入している。
  7. 甘利虎泰の子孫が国会議員甘利明
  8. 板垣信方が「板垣死すとも自由は死せず」と叫んで上野原合戦にて戦死
  9. 三国同盟締結の祝いで、武田信玄がドジョウすくいを披露した。
  10. 9の件、負けじと北条幻庵聖火アテネから持ってくると言う暴挙を行った。
  11. 9の件、今川義元がコントを行って座を凍り付かせた。
  12. 信玄高坂弾正『男』の『愛人』のことで大もめにもめ信玄が以前手紙で謝ったのにもかかわらず高坂に土下座した。
  13. 12の件、家臣のみならず、信玄の家族も同席していたうえ後日、記者会見が開かれた。
  14. 鉄砲を使ってみたら、味方殺しが続発した。
  15. 武田家で、足軽の待遇改善ストライキが起こった。
  16. 飯富兵部が甲冑の赤色の色づけを柿右衛門に頼んだら、あまりの高額に大赤字を出した。
  17. 山本勘助が競馬のイカサマ行為で北斗爆裂拳を喰らう。
  18. 武田軍、ラオウに勝利する。
  19. 武田信玄が「クイズミリオネラ」で1000万円ゲット
  20. 真田幸隆砥石城にて砥石マルチ商法を開始した。これが、大当たり。

とまぁ、いろんな記事を書いたとして高く評価されているらしい。