飯富虎昌

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飯富 虎昌(おぶ とらまさ、1504年? - 1565年)とは、真田幸村井伊直政で有名な赤備え部隊を最初に作ったことで知られる戦国武将共産主義者で、息子の謀反に2回も加担したことで有名。

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人物[編集]

「飯富」と書いて「おぶ」と読む非常に珍しい苗字だが、これは虎昌の親父か祖父辺りが甲斐国の飯富(いいとみ)とかいう土地に所領を得たのでこの苗字を名乗ることにしたらしい。しかし、「いいとみ」という読みだとなんか拍子抜けしてかっこ悪いとのことで、「おぶ」という誰にも読めない苗字になってしまった。しかし「おぶ」は「オブ」すなわち英語の「of」と読めることから、実は祖先がイギリス人だったのではないかという説もある。少なくとも実際五大陸を制覇、さらにイギリスにも渡った山本勘助は彼の真の名を「of虎昌」だと思い込んでいた。

虎昌は勇猛の将として武田のあらゆる戦で大活躍するが、敵兵相手に殺りすぎてしまうことも多かったようで、鎧は常に返り血に染まっていた。いちいち洗い落とすのが面倒だった虎昌は、最初から鎧が赤ければ返り血に染まっても洗いなおす必要がないという斬新な発想をして、自分の部隊の具足をすべて真っ赤に染めてしまった。これが赤備えの始まりである。

すべての具足を赤に染めた赤備えの部隊は、敵に対する威圧効果を存分に発揮した。信濃のちっぽけな豪族連合などは赤備えを見ただけでションベン垂らして瓦解してしまい、虎昌から赤備えを引き継いだ弟山県昌景が若き日の徳川家康を恐怖のあまり脱糞させたことは有名である。しかし村上義清ぐらいの剛の者になると威嚇効果は全く効かず、ひよこがカラーひよこになった程度にしか認識されなかったようだ。なお村上義清は川中島の合戦で赤備えに対抗してすべての鎧を白銀で作った白備え隊を結成したようだが、赤備えとは逆に鎧に飛び散った敵の返り血がコントラストのせいで非常に目立ってしまい戦後洗い落とすのに苦労した。

飯富虎昌は武田信玄の若年期の重臣として板垣信方甘利虎泰と共に活躍した。父親武田信虎の代から仕えていて、上田原での村上義清との戦いで板垣と甘利が戦死してからは、事実上の筆頭家老となり、信玄の長男武田義信の傅役も任されるほど信任された。

しかし義信は今川義元の娘を妻にしていたため、信玄が今川との同盟を切ったことに対して同盟破棄は信義に反すると反発して反逆を決心する。この謀反は事前に露見することとなって失敗し、傅役の虎昌は義信の謀反に同調した主犯とみなされて切腹を命じられた。だが同僚達が飯富殿に限って御館様に謀反を起こすはずがないと虎昌が死んでから擁護をはじめたことで一応名誉は守られた。

最期については美談がある。虎昌は義信の謀反に表向き加担する一方で、弟の飯富昌景に謀反の仔細を信玄に伝えるよう話し、ことが露見すると自分ですべての罪を背負って切腹したという。信玄と義信、両者に対する忠誠と配慮、そのためにわが身を犠牲にしようとする美しい自己犠牲の精神が現れたエピソードだが、この美談には下克上の世の中にそんな都合の良い美談なんてあるわけないだろうと突っ込みが入れられていて、近年ではその泣ける最期にもケチがつけられている。実は信玄は権力の大きい虎昌を排除したがっていて、義信の謀叛に かこつけてついでに虎昌を失脚粛清させたというのである。これが事実であれば虎昌は主君の厄介払いで死んだことになる。いやいや賢君信玄公に限ってそんなことはあるまい捏造だ、いや信玄なぞ下克上を体現した血も涙もない暴君である美談はそのカモフラージュだと、武田信玄の信者、アンチともども論争の的になっているが、虎昌本人の都合はわりとスルーされるため、死後も主君に振り回される可哀想な人である。


二度謀反に加担した男[編集]

虎昌は、信玄による信虎追放、そして義信による信玄追放未遂と、息子による親父の追放劇に2回も加担している。それぞれ色々な美談で脚色されているが、謀反は謀反である。忠義の猛将という印象のある飯富虎昌だが、二度も謀反に加担したことや、返り血を落とすのをめんどくさがって鎧を真紅に染めていたことを考慮すると、以外と獰猛で過激な人物だったのかもしれない。

死後[編集]

弟に飯富昌景がおり、虎昌の死後、家督継承を信玄から許された。しかし、飯富(おぶ)という苗字が難読過ぎるのを嫌った昌景は、甲斐の名族である「山県」の苗字を勝手に名乗って、山県昌景と改名してしまう。突然の改名だったが、主君の信玄も「飯富って苗字は読みにくすぎるから改名してくれて助かった」と安堵したらしい。

思想[編集]

虎昌は熱心な共産主義者であったことでも知られている。信玄が「甲州法度」を制定した折には虎昌も関与したが、彼の共産主義思想を反映させたと見られる条文がいくつか散見されている。また切腹についても共産主義内における内ゲバを示唆する史料も見つかっていて、今後の研究が待たれる。熱心な共産主義者であった虎昌が赤備えを率いていたことから、赤は共産主義のシンボルとなり、共産主義者を摘発することを赤狩りと呼ぶようになった。なお資本主義の犬である織田信長は、武田を滅ぼした後、共産主義を甲斐信濃から根絶やしにするために徹底した赤狩りを敢行した。これが日本の歴史上最初に行われた共産主義への弾圧である。