風立ちぬ

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おわあ、こんばんは おぎやあ、おぎやあ、おぎやあ おわああ、この記事の作者は病気です。
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畏クモ天皇陛下ハ御自ラ全臣民ノ爲ニ
本項ノ全内容ヲ天覽遊ハサレタリ
Naval Ensign of Japan.svg 大本營認可
本項ノ全文章及全内容ハ完全ニ正シキ事實トシテ大本營ニ依リ認可セラレタリ
全臣民ノ爲ニ畏クモ現人神タル天皇陛下ハ御自ラ本項ニ御目ヲ通サレ給ヘリ
此ノ項目ノ内容ヲ疑フハ現人神タル天皇陛下ヲ疑フト同義ニシテ
誤リタル思想ヲ持ツトセラルヽ場合ハ政治犯思想犯トシテ内亂罪ノ對象トス

風立ちぬ(かぜたちぬ)とは、堀辰雄による結核療養日記の小説…が何を間違ったかアニメ業界の病的なまでの右傾振りを世界に向けて示すことになった文学作品または宮崎駿最後(?)の映画である。

小説[編集]

この小説は戦火漂う1936~37年にかけて、自らも病弱だった作家・堀辰雄が婚約した少女の闘病に付き添った経験をもとに書かれた。国語教科書で作家名とタイトル名を知っているだけの一般読者のためにあらすじを書くと、「私」という名の男が父親に談判してその娘・節子を嫁にする。しかし、節子は間もなく結核に冒され、八ヶ岳の山麓にあるサナトリウムで療養することになる。

「私」は職をなげうって節子に付き添うとの名目で、念願の作家になる夢を叶えることを選択する。そこから先はサナトリウムでの療養生活の1年が「私」の日記を通して語られる。しかし、療養による治療はうまくいかず、節子は最後の一章を残して死んでしまう。「私」は節子の秘密が書かれているその療養日記を出版して多額の印税でも手に入れたのか、最終章では遥か遠くの山小屋で一人ひっそりと暮らしている。

「風立ちぬ」というタイトルは、ポール・ヴァレリーというフランス人作家の詩に由来する。「風立ちぬ、いざ生きめやも」と後半部分は現代人にとって意味不明の訳文だが、なんとなくの有り難さを際立たせている。取り敢えず小説では、「死の影」が背後に見える大自然の雄大さという意味である。

この小説は、刊行後結核闘病小説(「私」は闘病してないけど)の古典と評されるようになり、医療関係者の間で広く読まれるようになった。堀はそれ以外に小説を書かなかったと思う一般市民も続出した。

映画[編集]

2010年代宮崎駿監督が『風立ちぬ』を「スタジオジブリの社風を体現する作品をつくって、私の最後の作品にしたい」と表明した。それを聞いた全国のジブリファンは病気に苦しむどんな美少女が出てくるのだろうと期待した。

しかし、その期待とは真っ向から反する構想が打ち出された。軍靴の足音が全く響かない原作世界に名字が同じという理由だけで、堀辰雄と「ゼロ戦」の開発者・堀越次郎をドッキングした新人物を投入し、九条信者でなくとも軍靴の足音が聞こえてくる内容にしたのだ。堀越次郎は堀越 次郎で決して堀 越次郎ではないという批判は、宮崎にとってものの数ではなかった。スタジオジブリのジブリとは、イタリアの軍用機のことであり、故に軍用機繋がりで本作はジブリ精神を体現しているとの説明だった。

きれいな軍人

主人公は軍国病をきれいに克服した堀越次郎となり、病弱青年・堀辰雄の影はみごとに払拭された。これもジブリなどアニメスタジオの方向性を示す決断だった。やはり主要な視聴者は社会上の病人ではなく、明るい健康人であってほしいとの願いがこめられているのだ。それは堀越次郎の中の人惣流なんとかという飛行機っぽい名前の少女をして思春期の悩みに苦しむ青年に対して「気持ち悪い」と言わしめた伝説の持ち主であることを考えれば自然な選択だった。

宮崎はヒロインの名前を変更した。節子ではなく、堀辰雄の別作品に登場する菜穂子をヒロインにしたのだ。これは作品が根幹から異なる原作レイプならぬ殺害だという批判に応えるための変更で、「このアニメ映画は堀辰雄の小説とは何の関係もありません」ということを明示するための措置だった。事実、ハリウッドならずともアニメ上の設定変更はどこのスタジオも朝飯前で行っていることである。一般への知名度ナンバーワンのアニメ制作会社たるスタジオジブリは、そうした行為を率先して行わねばならぬのだ。

福祉文学としての同名作品に止めを刺すように、宮崎は堀越次郎にタバコを吸わせるという禁術まで採用した。もちろん、結核で療養中の患者の前でタバコを吸うのは、最悪クラスの禁則事項である。定年でも衰えを見せない宮崎にとって医療福祉などは無用の長物だ。アニメスタジオが福祉とは無縁の市場原理で動く商品であることを証明するために、タバコを吸わせたのだ。

反響[編集]

宮崎はこのように改変した映画を、「ぼくの反戦・護憲精神の賜物」とするパンフレットを作成し、メディアの前でも大いに吹聴した。上のような改変点を挙げて、「ならば、どうして戦争のせの字もない原作世界に軍国主義の偉人を持ち込み、あそこまで反福祉的な行動をとらせたのですか?」という問いが出されたが、そうした質問はハヤオ信者の賛辞の前に消滅した。

その通り、こうした質問はアニメの解釈文法を知る者にとって、意味不明なものだった。ナチスドイツの戦車にまたがるアニメが流行っても、戦争礼賛のゲームをいくらやっても、日韓併合は合法と唱えても、南京大虐殺はなかったと唱えても、「僕は反戦派だ」とやれば社会的に通用する日本の思想風土に、こうした問いは解釈致しかねるものだったのだ。

しかし、こうした訴えは、「戦後日本」の背景を解さない人間にとっては理解不能なものでしかなかった。むしろ、「ここまで戦争を煽っておいて戦争反対というのは、戦争は平和のニュースピークではないかという疑念が海外で沸き起こった。多くの外国人視聴者は「これで反戦派というのなら、一般的な日本人アニメ愛好家はどこまで日本軍国主義に肯定的なのだろう?」という感想を抱いた。2013年末の安倍晋三首相の靖国参拝が中韓を超える波風を立たせたのは、宮崎駿の風立ちぬが背景にあるという見方が根強く存在している。

関連項目[編集]