陳寿

出典: へっぽこ実験ウィキ『八百科事典(アンサイクロペディア)』
移動: 案内検索
「不義厨必死杉wwwwwwwwwwwwwwwwwww死ねよwwwwwwwwwwwwwww」
陳寿 について、朱子学者
陳到って誰?勝手に捏造すんなよ。それは周倉だろ?」
陳寿 について、演義厨
「誰?」
陳寿 について、無双厨
「誰?」
陳寿 について、横山光輝
「臣、亮が申し上げます。誰?」
陳寿 について、諸葛亮
「大した功績もない小人物だ」
陳寿 について、検証厨(正史厨)
「誰?そんな奴居た?」
陳寿 について、劉備
「時空を超越した英雄、か…的確に味な事言うじゃねぇか。その賛辞、そっくり汝に返すワ!」
陳寿 について、曹操
発狂した検証厨攻撃されて、凹む陳承祚センセ

陳寿(ちんじゅ、233年 - 297年)は、の時代の『三国志』を著した人だといわれている古代人。立派な文人だが、この時代でも随一の空気の読めなさから出世できず、死ぬまで冷や飯を食らった人物でもある。本書『蜀書』「後主伝」で劉禅のバカっぷりを糸を引き合いにして弁護しているため、劉禅は悪くない教団の熱烈な信者であると思われる。そして、実は陳式(『華陽国志』「劉先主志」注の校勘記では「陳戒」となってるYO!)の孫に当たるという(『三国志物語』と『晋書』陳寿伝では、年代的に符合しない陳式の息子という見事な電波っぷりを発揮している)。

生涯[編集]

蜀漢時代[編集]

巴西郡安漢の人で、は承祚。彼の父の陳某(諱は祖父の別名とされる「陳戒」とも)は陳式の子で馬謖の参軍(将校)だったが、街亭の戦いの連座されて、髠刑(断髪の刑)という屈辱を受けた(『晋書』「陳寿伝」に載ってるYO!)。

ニート軍師によって、ハゲにされた父の屈辱以降に生まれた陳寿は、父の友人だった譙周の門下生となり、ある意味、過酷な少年時代を過ごしたという。

成長し、蜀漢に仕える傍ら、父の不名誉を晴らさんがため、劉禅様ファンクラブに傾倒していたという。しかし当時のクラブの代表者であった黄皓のパフォーマンスを理解できず、空気を読まずに諫言したためあっちへ左遷された。

当時、孔子の提唱したエクストリーム礼節というエクストリームスポーツが非常に盛んで、陳寿も知り合いの羅憲に誘われてこれに参加していた。しかし空気もルールも読めなかった陳寿はあちこちで失点を重ね、終いには高得点のチャンス(父親の死後しばらくは不健康に過ごせ)であったときに、周囲の期待を普通に裏切って失敗。非難を浴びてついには辞職&失職してしまう。

この頃から、彼は自身の空気の読めなさに気付き、悔いたという。しかし反省しなかったため再就職できないままであった。

また、空気の読めない陳寿は李福の子の李驤と同じく譙周の門下生で仲が良かったのだが、後に陳寿が出世欲に溺れてしまい、親友の李驤を蹴落とした出世欲亡者ぶりを発揮したため、唯一の友達を失う羽目になったのであった(『華陽国志』「後賢志」より)。

晋に仕える[編集]

ゆとり教育の弊害から蜀漢が滅びた後、元同僚の羅憲に「晋の官吏やらないか」と勧められて入社する。そこで陳寿は、亡国の臣でありながら空気を読まずにメキメキと頭角を現し、様々な史料編纂で活躍した。時の皇帝司馬炎にも気に入られ、ウィキペディアンからも「中立性が保たれた記事を多数書いた」とバーンスターが贈られた[要出典]

幾ばくか空気を読むことを憶えた陳寿であったが、ある程度の名声を得た上で空気を読み外す大仕事に取り掛かる。280年頃から、陳寿は・蜀の三国に跋扈した人物をよくわからない序列で羅列した大河ライトノベル『三国志』を書き上げた。これは陳寿の空気の読めなさの集大成とも呼べるチラシの裏で、時の権力者のおじいさんが「首がぐるぐる回った」などと書いたりするなどアレな内容を多く含んでいたが、時の権力者もアレなのであまり咎められなかった。

不遇の晩年と遺著[編集]

しかし、その類い稀な空気の読めなさはやはり嫌われる要因となり、以後も度々向こうに左遷されそうになったりしていた。決定打となったのは母が亡くなった際に都心から30分のところに墳墓を構えたことであった。これがまたしてもエクストリーム礼節における重要ポイント(冠婚葬祭は地元でやろう)を逃したとして再び非難の矢面に立たされ、いい年をしてリストラの憂き目にあってしまった。

後世の評価[編集]

基本的に評価されない人物である。これは彼の空気の読めなさが起因しているとされているが、『三国志演義』しか読んだことのない、三国時代のことなど全く知らない人達から「私怨諸葛亮のことを悪く書いた」などと好き勝手言われている。その後も「呂蒙陸遜なんかの話を書くなんて、関帝を馬鹿にしてる」「そもそも呉の記事イラネ」などの因縁をつけられて、時代を重ねる度に言葉による暴力を受け続けている。

なぜ、陳寿がエクストリに参加し続けていたのかはよくわかっていないが、この時代の名のある人物は皆参加していたとも伝わっている。この点で、彼は最低限の空気は読めていたのではないかと評価されている。

その一方、魏と呉の史書の『魏書』と『呉書』の記述を適当に簡潔化した疑いが持たれている。このことをの学者の陳澧(ちんれい)が「陳寿は出身地の蜀漢マンセーだからな。ただでさえ資料が少ねぇ『蜀書』を勝手に神格化し、『呉書』では孫権を平気で「権」と呼び捨てするのに対し、『蜀書』では旧主だった劉禅にはわざわざ「後主」という漢厨ぶりを発揮してるからなぁ~」と鋭く指摘している。きっと裴松之も陳寿の漢厨ぶりには、たぶん困惑していたに違いないと思う。

さらに、中華民国検証厨の廬弼の『三国志集解補』が引く、清の光緒期の学者の林国賛の『三国志裴註述』でも「きっと、陳寿は可哀そうな人なんだYO…蜀漢の資料が少ないからね。陳澧クンの気持ちはよくわかるけど。ここはお察し下さい…ということだネ」とコメントしている。

林国賛のホモ達の『三国志辦疑序』の銭大昕も「ま…いっか、仕方ないなあ…、あとは俺たちが陳寿をカバーするしかないネ」とコメントしている。

だが、ライバルの趙翼は「そんなことは許されない!われらが陳寿先生が残したものは、そのままにすべきだ!お前らが勝手にカバーする問題じゃない!!」と過激にコメントをしている。前述の廬弼も趙翼を擁護して「陳澧と林国賛と銭大昕はきっと、DQNなんだよ。陳寿先生が残したものを勝手に自分たちの都合で加筆しようとしている。絶対に許されないことだ!俺たちがやることは、陳寿先生が残したものを一切、変えずに検証してアリバイすることだけだ」と叫んで、学者たちによるバトルが過激化したのである。これでは陳寿も浮かばれまい…(そーゆー廬弼だって、けっこう改竄しているぞ。のことを言える立場か?)

だが、かつての旧友だった李驤(李福の子)は「ざまあみやがれ~!!俺を蹴落とした罰だぜ」と罵って、陳寿の不幸を喜んだのであった。

また、三国志の著者として非常に重要な人物であるにも拘らず、よく存在を忘れられる人物でもある。『三国志』を題材にした作品で大いに収益を上げたコーエーの代表作『三国無双』においても陳寿を差し置いて織田信長が出ていたり、横山光輝の『三国志』でもわざわざ蜀漢が滅んで後の劉禅・郤正のショートコントまで収録しておきながら、彼を崇拝した陳寿のことを書き損じている。アンサイクロペディアにおいても三国志ブーム(があったらしい)の際に人物記事が多く作成されたが、呂布 (蜀)何咸芙蓉姫云々(林国賛が紹介した人物たち)なんて超マイナーな人物が記載される一方で、陳寿については「誰かが書くだろうからいいや」と皆にスルーされていました。そういうつもりではありませんでしたが、この場を借りてお詫び申し上げます。

ケツ拭く紙にもなりゃしねえぜ![編集]

現代中国人の声のようなもの、正史→演義へ伴い必要性のなくなった正史『三国志』は… 田舎旅館の便所紙ほどの価値もなくなってしまった。 陳寿も肩を揺らして「ウッウッ」と涙打つ姿が泰山の地下で目撃されたという。


関連項目[編集]

Wikipedia
ユーモア欠落症患者のために、ウィキペディア専門家気取りたちが「陳寿」の項目を執筆しています。