関白

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関白(かんぱく)とは、宇多天皇呪いがかけられた官職である。

概要[編集]

関白といえば、日本史上、天皇の代行者として非常に有名な官職であるが、実は関白という官職がいつ成立したのかは、はっきりとは分かっていない。というのも、「検非違使」「中納言」のように関白という官職の設置と共にその実権が付与されたのではなく、もともと摂政及び太政大臣の任にあり政治を総攬していた藤原基経の地位が、後に関白と称されたのがその始まりだからである。ただ、官職としての関白の始まりは不明確だが、「関白」という言葉の登場は明確に記録されている。そしてそこにこそ、初代「関白」藤原基経と藤原一族に対する天皇の思いが示されているのである。

藤原基経の専横[編集]

上述のように初代関白は藤原基経であった。彼は養父藤原良房の権力を引き継いで摂政となったが、今や天皇をもしのぐ勢いで強大な権力を握っていた。何より衝撃的だったのは、在位の天皇である陽成天皇を様々な理由をつけて皇位から引きずり下ろし、従兄弟の時康親王(光孝天皇)を即位させたことである。臣下が強権で天皇を辞めさせるという事態に、教養のある貴族たちは中国の歴史上のある事件を思い浮かべた。すなわち、漢の昭帝の死後、権臣霍光に擁立された昌邑王劉賀が、わずか27日で霍光によって皇位から降ろされ、武帝の曾孫の宣帝を皇帝に据えたという廃立劇である。無論霍光になぞらえられたのが基経である。当時臣籍降下していた源定省(後の宇多天皇)も、この基経の暴挙を同じような思いで見ていたに違いない。

「関白」誕生[編集]

こうした基経の専横が極まるなかで光孝天皇が病死すると、その子供で臣籍降下していた定省が一転天皇に推戴されることとなった。これが宇多天皇である。宇多天皇は、上記のような藤原氏の跳梁を苦々しく思っていたが、そこで思い出したのが先ほどの霍光のことであった。霍光といえば、彼自身は権臣としての地位を保ったまま生涯を終えたが、その死後に、霍氏一族が大きな災いを受けたことでも知られている。親政を望む宣帝の命によって、霍禹をはじめとする霍光の子供たちは皆殺しにされ、霍氏一族の命運はあっけなく尽きたのだった。この故事を思い出した宇多天皇は「あーあ、藤原一族も霍光一族のようにこの世から滅亡してくれねーかな」と密かに思っていた。そしてその思いが表に出てしまったのが、有名な「関(あずか)り白(もう)す」の文言が入った詔勅なのである。

万機はすべて太政大臣(藤原基経)に関り白し、然る後に奏下すべし

これは即位直後の宇多天皇が、基経にあらためて政務を委任するために出した詔勅であるが、この文章は『漢書』の中の

諸事は皆、先に光(霍光)に関り白し、然る後に奏御する

という、即位して間もない宣帝が、霍光に政治を委任する場面の言葉に由来している。このように宣帝から信頼された霍光であったが、子供の代になると上述のような悲惨な運命を辿ることとなった。つまり関白という言葉には、宇多天皇の「藤原基経の子供が全員死にますように」という熱い思いが込められているのである。また、『漢書』には霍光は「無学無術」であったという記載もあり、天皇の恩寵がなければ藤原基経といえど何もできない木偶の坊だという、基経への嘲りも含まれている。

もちろん、詔勅というのは天皇が直接、文章を考えるわけではないが、詔勅を起草したと思われる橘広相も同じ思いであり、天皇との密謀の上にこのような詔勅が出来上がったのだと考えられている。

阿衡の紛議[編集]

しかし、この詔勅は藤原基経に拒否されてしまった。ここで宇多天皇は、少しは良心が残っていたらしく、さすがにこれは過激だったと反省し、広相に二度目の詔勅の作成を命じた。広相は天皇の意を汲んで、詔勅を次のようにに改めた。

宜しく阿衡の任をもって卿の任とせよ

「阿衡」というのは代の賢臣である伊尹が受けたとされる官名である。伊尹は霍光のような「無学無術」ではなく、王に諫言した賢人であったと記録されており、子供の伊陟も殷を復興させた賢人である。はっきりいって曰くつきの「関白」などよりよほど縁起の良い表現であり、基経を持ち上げすぎているくらいである。

ところが、事態は斜め上の方向に進んでいった。何故か基経はこの縁起の良い「阿衡」の文言にケチを付け、自邸に引きこもって政務を放棄するという抗議運動を始めたのである。どうやら基経に吹き込んだ輩がいたらしい。それは藤原佐世という学者貴族であった。何故彼はこの表現を問題視したのだろうか。

実はこの藤原佐世、漢籍に精通していた当代一流の学者であったのだが、藤原氏の中でも藤原式家という当時没落気味の中級貴族の出身だった。基経をはじめとする藤原北家の全盛期にあっては、同じ藤原氏でも彼らのような家の貴族には出世の道は限られており、せいぜい学者としての教養を積んで博士や事務官として奉仕するのがやっとだったのである。つまり彼も「基経の子供が全員死にますように」と思っていた一人だった。ちなみに彼は阿衡は名前だけで権限がないというのを理由にしているが、伊尹は諫言に従わない王を追放するほどの権力を持っていた人物で(この点、奇しくも霍光と類似している)権限が無いというのは事実誤認も甚だしい。漢籍に通じた佐世がこのような誤りを犯すはずはなく、やはり「関白」の不吉な官名を基経に与えることを望んでの、確信的な行動だったと考えるのが妥当である。宇多天皇から「無学無術」と侮辱されていた基経は全くこれに気付かず、まんまと天皇と貴族たちの策謀にはまり、呪いのこもった「関白」の名を背負うはめになってしまった。

呪いの被害者[編集]

ところで、「関白」に込められた呪詛の効果はどうであったか。宇多天皇はその後菅原道真を重用して藤原氏に対抗させるなど、在位を通じて藤原北家への抵抗を続けていた。在位中も「基経の子供が全員死にますように」と思っていたかは不明だが、宇多天皇が一度関白を「阿衡」に変えようとしたせいで、藤原氏への呪いの威力もずいぶんと減退してしまったようだ。しかし、部分的には確かに効力を発揮していたらしい。その災いを一身に受けたのが、基経の長男の藤原時平であった。彼は兄弟たちが長生きする中、39歳で早逝したのである。しかも時平といえば、宇多天皇在位中に最も警戒されていた人物であった。どうやら彼に宇多天皇の藤原氏への憎悪は全て注ぎ込まれたらしい。世間では彼の死因は道真の怨霊ということになっているが、実は宇多天皇の呪いで死んだのである。あの世の宇多天皇は自分のせいにならなくてラッキーと思ってるに違いない。そして、ことの真相が知られなかったせいで、その後「関白」の曰くについても取り沙汰されることはなく、また時平以外の基経の子供たちが災いを受けることもなく、関白の官職もその子孫たちによって代々受け継がれていくことになったのである。

関連項目[編集]