関ヶ原の戦い

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「家康、家康ゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥッ!!!」
関ヶ原の戦い について、石田三成

関ヶ原の戦いとは、「天下分け目の戦い」という大げさな別名で世間に知られている安土桃山時代の戦いである。しっかし天下分け目というならば、天王山の通称で知られる山崎の戦いである。これは本能寺の変織田信長を速攻で屠った稀代の放火魔明智光秀と中国出張から大急ぎで帰宅した猿との戦いであり、事実この戦闘に勝利すれば天皇らが存在する近畿地方平定は猿のその後を見れば異常にスムーズであったのである。

まあ兎も角、どちらが戦国時代最後の戦いと呼べるかという争点で、関ヶ原の戦いは大坂の陣と鎬を削っている。
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天下分け目[編集]

「天下分け目」の「天下」とは、一国全体や国家権力を表す言葉である。この合戦では、日本各地に死んだ豊臣秀吉に出向、単身赴任、出張(朝鮮征伐)していた不満ある大名が、徳川家康石田三成かのいずれかに与して利害を判断して、日本中の勢力が二分したことから(といってもどっちにも付かない大名もいたんだけどね)、文字通り天下を分けた戦いであるとして天下分け目の戦いと言われることが多い。

だが実際は大半の連中が家康と三成を両天秤にかけて日和見していた。白黒が三割であとの七割は灰色という按配である。この頃から日本は他人に阿諛追従する風見鶏だらけだったのだ。なぜかと言うとルイス・フロイスが著書に書いているように、乱世の日本人というものは他家の人間を一切信用しておらず、自分の利害を第一に考えているため、互いに謀反人としてチクられないか戦々恐々としていたのである。平和な世の中で信頼し合って生活している奴らと讒訴なんて中華以上に日常茶飯事だった当時の日本人を一緒にするのは間違っている。三成の親友として有名な直江兼続の主君であり、家康に喧嘩を売って合戦の火蓋を切った上杉景勝ですら、日和見をやっていた節がある。

つまり三成は途中で梯子を外されてしまったことになる。かわいそうです(´;ω;`)江戸時代の火消し、鳶だったら死にます。

全国を巻き込んだ大規模な合戦であり、天下分け目という大仰な別名を持つこの関ヶ原の合戦だが、家康と三成の本戦がたったの一日で決着がついてしまったのは有名な話。と思われているが全然違う。そもそも関ヶ原の戦いという漠然とした名称で呼ぶから混乱が起こるのであり、正式に呼称するならば”関ヶ原で決戦が行われた巨大戦役”であり関ヶ原の戦いに言及するならば小山評定での引き返し政策は勿論、上杉景勝征伐軍編成から語るべきであるのだ。

家康と三成が関ヶ原で戦う前から西軍は軍事行動を開始し、伏見城攻めにて鳥居元忠ら徳川家古参家臣を撃破。また名将立花宗茂らは近畿地方の大名京極高次らを攻撃し序盤は戦略的にみて西軍が大優勢であった。また家康自身、江戸を本拠地に置いていた故に会津の上杉と常陸の佐竹合計200万石が連合して関東南下を行えば敗北は必至であった。しかも使えないことに、家康の嫡男である徳川秀忠は徳川軍の精鋭3万人を率いて一路中山道を経由しつつ近畿へ向かう予定であったにも関わらず、信州上田というド田舎の小大名、策士真田昌幸の挑発に乗って攻略できない城攻めを行い遅延している。そりゃアニメ『サマーウォーズ』のネタにもされるという訳である。

仕方がないので家康はビクビクしながら福島正則といった豊臣政権での、徳川派大名というよりもをアンチ三成大名を主力として東海道を行くことになった。ところがどっこい西軍の海賊大名九鬼嘉隆が鉄甲船数隻を率いて東海道の村を砲撃して大混乱となった。九鬼は家康が以前行った海上利権の問題処理で大きな不満を持っており陸の考えを押し付けられた故にこの行動に出たという。これは陸自と海自の仲の悪さと似ている。この様な絶望的な状況下で家康はついにヒステリーを起こし刀を抜いて伝令に切りつける騒ぎを起こすわ、「倅(長男で戦国武将の才気があったという徳川信康)が生きておったら…」と極めて弱気な状態であった。この時点で家康の歴戦の統率力がなければ東軍は何時空中分解してもおかしくない状態である。

これに比べれば三成の敗因は当日彼が下痢に悩まされてまともな判断ができなかったことなどは生ぬるい事である。加来耕三先生をはじめバラエティ番組で珍説を吹聴している自称歴史博士の多くがお墨付きを押していることから嘘です

経緯[編集]

そもそも何でこの合戦が起こったのかというと、当時の最高権力者であった豊臣秀吉が死んだからである。秀吉は正しい性教育を卑賤の身であった為に受けることができずに、舐め専など歪んだ愛欲発散で後継ぎに恵まれない天命の持ち主であった。養子に豊臣秀次を迎え後継が盤石になりそうだったところで不倫によって淀殿秀頼を生み、秀次は死においやられた。この事件で連座させられた秀次の側室たちの中には東北の大大名最上義光の娘がいたり、秀次と交流があった大名らに軒並み謀反の嫌疑がかかるなど、諸大名の多くが戦慄する事態となったのである。この時立場上「働きたくないでござる」といいながら辣腕を振るったのは宰相役であった奉行石田三成であった。こうして三成は朝鮮征伐での恩賞考察の件も含めて多くの大名から豊臣政権の諸悪の根源として秀吉の代わりに恨まれる存在となったのである。そして秀吉が死んだあと残されたのは7歳児の秀頼だけだった。

秀吉は秀頼が心配だったので、自分の忠実な手下と本人だけが思いこんでいる5人の有力大名に秀頼の後見人を頼み、彼ら5人の為に五大老という新たな制度を設けた。どう見ても弥縫策です本当にありがとうございました。

その五大老の一人にして、秀吉によって三河から関東に左遷された徳川家康が政権奪取を画策し、やりたい放題やったので秀吉の忠実な子分である石田三成が危惧を覚えて挙兵したというのが合戦に至るまでの顛末としてよく知られている。(司馬遼太郎の作品だけ読むとそーなる)家康の子分の三河武士達は俺達は秀吉の風下に甘んじたつもりはないと意地を張っていたが、家康は小牧・長久手の戦いで降参し秀吉に服従しているので関東二百万石以上の領地を保有する大名とはいえ事実上秀吉の手下であることに変わりは無い。つまりよくある内ゲバの一つに過ぎない。

なお、秀吉が死んでから関ヶ原が起こるまで五大老の一人である前田利家が死んでいる。つまり五大老は4人に減ってしまっている。実は秀吉存命の頃も五大老の一人である小早川隆景が逝ってしまい、埋め合わせとして上杉景勝が補充されているという経緯がある。つまりこの時の五大老は家康を含めて三人+補欠の景勝一人という構成になっている。形骸化ってレベルじゃねえぞ!

利家が存命していれば関ヶ原の勝敗はどちらに転ぶか分からなかった、あるいはそもそも家康の台頭すらなかった、と言われているが、利家は親父と慕っていた柴田勝家を土壇場で裏切って秀吉についた男である。こんな人物に果たして家康を掣肘する器量があったのか疑わしい。でもお膝元の金沢人達が利家は家康が最も恐れた人物であると盛んに宣伝しているからそういうことにしておこう。

そして関ヶ原へ[編集]

先述の通りこの合戦の火蓋を切ったのは上杉である。家康は、上杉が軍備増強をしているとあれこれ言いがかりをつけて挑発し、上杉征伐の口実を得ようと必死になっていた。ところが、これに対して愛の人直江兼続が、有名な「直江状」とかいう書状を書いて家康に対してまさかの挑発返しをした。家康は兼続の挑発に乗せられてしまい会津征伐を敢行、その途中上杉と呼応していた三成が挙兵し、家康は会津目前まで軍を進めておきながらUターンで引き返し三成と関ヶ原で激突した。だが直江状なる書状は関ヶ原の合戦の後彼の友人である前田慶次が吹聴した作り話らしい。また家康は最初から三成の挙兵を狙って上杉征伐を起こしたとよく言われている。つまり上杉征伐からのUターンは家康が仕掛けた迂遠な釣りだったということになる。上杉と三成も呼応して会津へ進軍する家康を南北で挟み打ちにする作戦を画策していたようで、三成の仕掛けた釣りに対して家康が釣りで返したという構図が出来上がる。関ヶ原の合戦は釣りの釣果であったのだ。

直接三成を叩かず、向こうから挙兵するのを待ったのは、「タイギメイブン」とやらの為らしい。三成に挙兵させることで「タイギメイブン」がこっちの手中に収まり、これを錦の御旗として掲げることで沢山の大名が味方についてくれる、そう家康はどや顔で宣言して作戦を立案した。かような迂遠な手段を用いてまでタイギメイブンとやらを獲得しようとするのだから、よほど効能抜群であったと思われる。

会津直前でUターンした家康の背後はがら空きになった。三成と示し合わせた通り、上杉はここで背後から強襲するはずであった。しかし景勝と兼続は「急に最上がきたので」「急に伊達がきたので」という口実を設けて、傍観した。三成は梯子を外されてしまった。

関ヶ原本戦[編集]

関ヶ原は濃い霧で覆われていたが、井伊直政の突撃で開戦した。本来なら福島正則が先陣を切ろうとしていた所、直政が家康の四男の松平忠吉を煽動して抜け駆けをさせたのだが、濃霧のおかげで、戦後「霧が深くて敵と遭遇したことに気づきませんでした」と言い訳する口実が出来た。

直政と忠吉は物凄い勢いで突っ込んだものの宇喜多軍の鉄砲の良い的にされあっさり撤退に追い込まれた…と言われているが、実は直政が自軍の消耗を抑えるためにわざと後退して背後にいる福島正則や黒田長政細川忠興らに相手をさせたのである。特にヤンデレの忠興は妻ガラシャが三成のせいで死んだこともあって激怒して奮戦したが、戦が下手なはずの三成はどういうわけか持ち堪え、西軍が優勢だった。そもそも決して三成は戦が下手糞ではなく、天才すぎるので協調性に欠け味方と連携が取れないだけだったのだ。しかし、趨勢が有利であったため三成は俺は戦上手だとナルシストに陥り、歴戦の猛者である鬼島津の進言を無視したり、消極的な姿勢を見せる小早川秀秋に高圧的に東軍に攻めかかるよう促したりして、欠点である協調性のなさを露呈させ、西軍は協調性を崩した。さらに、当日三成は下痢を煩っていて、ここにきてそれが悪化、苦痛で判断力が鈍り采配に乱れが生じた。そして、突然小早川秀秋愉快な仲間たち突如裏切り大谷隊へ突撃していった。吉継は難病を煩っていて半身不随の上失明しており、秀秋は病人が相手だし楽勝だろうとたかをくくっていた。しかし、吉継は秀吉に「百万の軍勢を預けてみたい」と言われたほどの名将であり、ついでに秀秋の用兵が数の力に依存した杜撰で稚拙なものであったため、簡単に押し返された。ところがどっこい、大谷が食い止めてくれると思っていた小川脇坂までもが裏切って、流石の吉継も進退極まり切腹した。これが決め手となって西軍は壊滅し、三成は逃亡中に捕らえられて処刑された。下痢の性で長く歩けず遠くまで逃げられなかったのが捕縛された原因であることは言うまでもない。

その後[編集]

三成はなんとか逃げ回っていたがしばらくして捕まって処刑。小西安国寺も処刑。宇喜多は島流しという処分となった。しかし小西はともかく何にもしていない恵瓊まで処刑はヒドイ話である。家康は恵瓊は助命するつもりであったが、恵瓊と犬猿の仲にあった吉川広家が「恵瓊を殺してくれたら毛利家の領土の4分の3を徳川に献上してもいい」と言ったため処刑になったと萩藩の史料には書かれている。毛利家の知恵袋であった恵瓊を始末できた上に毛利の領土も大幅に減らせ、家康にとっては一石二鳥であった。だが根拠となっている史料が広家を貶める目的で歪曲して書かれた可能性もあるのでその辺は留意すべきかもしれないが、後世の人間にとってはどうでもいいことである

これにより豊臣家はただの一大名に転落。家康は江戸幕府を開いた。これにより事実上天下は家康のものになってしまったのである。

関連項目[編集]