間部詮房

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間部 詮房(まなべ あきふさ、1666年 - 1720年)は、江戸時代政治家

猿楽師、今で言う能楽師の家系に生まれた人物である。能楽、と言えば高貴な響きがするが、当時の能楽は路上で大道芸やってたピエロも同然で、大した身分ではなかった。

しかし、身分制度が厳格であった江戸時代において、そのピエロから現在で言う内閣総理大臣クラスの立場まで登り詰めるという異例の出世を遂げた男である。その人柄は「謹厳実直、仕事一筋」だったらしいが、一方で将軍徳川家宣アッーな関係であったり、家宣側室月光院との不義密通疑惑が浮上したりと、淫乱さを漂わせる風聞も流布している。

甲府時代[編集]

前述の通り、詮房は江戸時代には士農工商という、強固な身分制度があった。そして、詮房の出自である猿楽師(能楽師)などの芸人は、「河原乞食」と呼ばれて蔑まれており、身分制度の中出は下の下、えたひにんと同列に扱われていた。

そんな下賎の身分の出身の詮房が、どうして幕政を掌握するまでに出世できたのかというと、甲府藩主徳川綱豊、後の6代将軍徳川家宣との密接な結びつきがあったからだった。

まず、詮房の親父西田清貞が、綱豊のお気に入りの猿楽師であり、綱豊に重用されていた。尚、一部文献は、西田清貞は、関ヶ原の合戦で没落した武士の子孫であると記述しているが、これは潤色である。詮房は紛れもなく、猿楽師の子である。その根拠は、詮房と共に家宣の将軍時代を支えた老中達の発言である。彼らはしきりに詮房を「河原乞食の子」と呼んでいた。付き合いの長い同僚たちからそう言われていたんだから、間違いない。

そして、詮房自身、綱豊のお気に入りの美少年だったらしく、小姓に取り立てられた。要するにアッーな関係になったのである。詮房は順調に出世し、いつの間にか武士の身分に格上げされていた。身分制度が厳格であった中世という時代を考慮すれば仰天するような栄達だが、綱豊との癒着(性的な意味でも)も勘案すると納得の行く出世である。人脈が身分制度の枠を越えた、と言えば美談に聞こえるが、出世するには何よりもコネが大事という、現代社会にも通じる社会の理不尽な一面が現出されている。

家宣・将軍に[編集]

時の5代将軍徳川綱吉は、跡継ぎを残さず死去した。その後、紆余曲折あって、綱豊が将軍の座に収まり、徳川家宣となった。実は綱吉は家宣の母親と仲が悪く、家宣を将軍にする事を嫌っており、何が何でも家宣を将軍にすまいと権謀術数を尽くさんとしており、家宣は数々の妨害工作にあった。にもかかわらず家宣が将軍になれたのは、家宣側も色々根回しした為だと思われる。なお、この「根回し」に間部詮房が寄与、貢献したという話はあまりない。いつもと変わらず、変わらず家宣の側で按摩をしたり、彼の性欲を満たしたりして回りの世話をしていたのだろう。

側用人[編集]

前の将軍、綱吉は、将軍になる際、柳沢吉保とかいう、武士の中でも俸禄が低く、家格も高くない下っ端の男を、自分の側近で、なおかつ聡明で色々と使えるからという理由で、強引に側近に押し上げて、幕政に参画させていた。幕府の政治は老中と呼ばれる譜代大名達によって運営されるのだが、吉保は家格が高くないので老中になれない。そこで綱吉は側用人という新たな役職を強引に設け、吉保をそのポストに置いた。

吉保は綱吉の言う通り聡明な人物だったが、彼一人に権力が集中して一人で政務を壟断したり、綱吉の足下を脅かす奴には権謀術数を尽くして容赦なく排斥したため回りの評判は非常に悪く、蚊帳の外の置かれた老中達は憤慨しており、側用人制度は「悪弊」とみなされていた。

その綱吉が死に、後ろ盾を失った吉保は、殊勝にも幕府の表舞台から退いた。何はともあれ、老中達は再び自分達の手中に権力が戻ってくると欣喜雀躍していた…のだが、それはぬか喜びであった。

新たに将軍に就任した家宣、なんとこの側用人制度を踏襲し、その役職に詮房を据えた。家宣は、詮房は聡明であり必ずや幕府の発展に貢献する、と、綱吉が側用人制度を設け吉保を重役に据えた時と同じような事を口走った。老中一同、落胆し、憤慨したのは言うまでもない。早速、根掘り葉掘り詮索して、詮房の汚点を追及、まず、彼が河原乞食の出自であることに目をつけ、乞食が総理大臣さながらに振る舞うのは身の程知らずである、上様は乞食を総理大臣にするような馬鹿な真似はよしていただきたいと、家宣に諫言したが、あまり効果を発揮しなかった。

1712年、将軍家宣は死去したが、世継ぎ徳川家継の側近として、詮房は相変わらず、権勢を振るっていた。

江島生島事件[編集]

上手い事詮房を追い落とせず、地団駄を踏む老中達であったが、そこに詮房没落の布石にもなる格好のスキャンダルが舞いこんできた。家宣の側室、おきよの侍女、江島が、役者の生島新五郎と不義密通をし、大奥の規範に抵触したかどで捕らえられたのである。

何故これが詮房失脚と関係があるのかというと、詮房は月光院と親しい関係にあったからである。将軍家宣には、二人の妻がいた。一人は名門近衛家から入内した近衛煕子(天英院)、もう一人がおきよ(月光院)であった。将軍家継は、おきよとの間に生まれた子である。

家宣が死去した時、家継はまだ幼少であった。その為、詮房が父親代わりとなって、家継の教育や世話を行っていた。俄然、家継の母親であるおきよとの関係は密接になる。老中達は、そこを突いたのである。さらに、老中達は、家宣の正室である近衛煕子とも結託した。

近衛煕子は、家宣との間に男子を授かれなかった。更に、おきよが家継を生んだことで、立場が悪くなり、おきよを嫉んでいた。その為、おきよと親しい詮房を嫉む老中達と利害が一致していた。女の嫉妬心というのはげに恐ろしいもので、煕子は老中達に積極的に協力し、江島生島事件の裁定にも精力的に貢献し、根回しや情報提供を行った。

江島生島事件では、首謀者とされた江島や生島は無論のこと、大奥の女中の多くが処罰の対象となった。その女中の多くは、おきよに従属している女中であった。詮房や、将軍の妻であるおきよには、直接累こそ及ばなかったが、順風満帆だった詮房の出世街道は、これを境に下り坂を迎える。

江島生島事件で詮房とおきよに痛手を負わせてやった近衛煕子と門閥譜代の老中らは、調子に乗ってさらなる追い落とし作戦を敢行した。彼らは、詮房はおきよと「姦通」していて、実は今の将軍家継は詮房との間に出来た隠し子だと、あることないこと吹聴した。これは風聞となって瞬く間に江戸中に拡散した。

失脚[編集]

この噂を耳にした家継はショックを受けて病床に伏し、間もなく死去した。風聞を妄信し、あまりのショックに自殺した可能性もあるが、真相は闇の中である。もしかすると、業を煮やした近衛煕子や老中達が「お隠し」した可能性もあるかもしれないが、いくら政敵を追い落とすためとは言え将軍を「お隠し」するなどという恐ろしい真似が、儒教が浸透していた江戸時代の武士に出来るはずがない。嫉妬に狂った女にはできたかもしれないけど。

家継は、世継ぎを残さなかった。その為、詮房は完全に後ろ盾を失った。家継の後は、紀州から暴れん坊将軍として有名な徳川吉宗が8代将軍として迎えられ、用済みとなった詮房は罷免させられると共に、越後の山奥に左遷された。左遷されたのが越後というところに吉宗の悪意が感じられる。詮房の官途は越後守であり、江戸時代の日本では「吉良上野介」「大岡越前」など官途で呼ぶことが慣習となっていた。そのため、詮房も「間部越後守」という通称で呼ばれていた。つまり、名前通り越後の山奥に引っ込んでろ、という吉宗のメッセージである。

このような悪意を含んだ人事をする吉宗は忍者に違いない。隠密組織を立ち上げたのも吉宗だというし絶対に忍者だろう。汚いなさすが忍者きたない。

政治家としての業績について[編集]

家宣は、学者新井白石を政治顧問として登用し、彼と詮房と三人で幕政改革に努めた。家宣時代、白石、詮房が主導して行った政治は「正徳の治」と呼ばれる。

「正徳の治」は、そこそこ善政だったと言われる一方で、形式に拘泥しすぎるあまり実効がなかったとか批判もされていて、善政だったのかどうか良く分かっていないが、家宣が将軍だった時代の政治、経済、治安、文化は何だかんだ言って安定していたのでそれなりに良い政治だったと思われる。

「正徳の治」はいくつかの政策を実施している。天皇家のあぶれた子供、つまりいらない子を継がせる家を設ける目的で閑院宮家を設置したり、貨幣の改鋳や、金銀流出を制限する為の貿易制限を行ったりした。しかし、これらの政策は全部新井白石が建議し、音頭を取って実施させたもので、詮房が積極的に関与した形跡は見られない。となると、詮房は一体何をやっていたんだということになってしまう。政治に積極的に関与した柳沢吉保と違い、側用人の名前通り、家宣や家継、月光院らの身の回りの世話をやっていたのだろう。

その白石は家宣の人柄について「極めて謹厳実直で、一日中登城して帰宅しない日もあった」と言及している。だがこの言葉を額面通りに受け取ってはならない。白石は他人に対して何かと辛辣な評価ばかりする男で、特に自分と主張、信条を違える人物や、興味を抱かない人物、思い通りにならない人物については、人の失点、汚点のみを追及して責め立てる傾向がある。

その白石が、詮房に対してここまでの「褒め殺し」をしているのは、おかしい。白石が詮房をここまで高く評価するのは、おそらく詮房が自分の発案に何でもかんでも同調し、都合の良いように動いてくれるロボットであったからだろう。

猿楽師としての業績[編集]

詮房は元々猿楽師(能楽師)であったという。ならば、能楽に堪能であったはずであり、能楽の興行をしたことが文献などに残されているはずである。しかし、詮房の生きた江戸時代中期に関する文献やサイトを漁っても、詮房が猿楽を興行したという伝えは見当たらない。

詮房が主君と仰いだ家宣は能楽鑑賞に度々赴いているが、そこで詮房が自ら能を舞ったかも、よく判っていない。マイナーな文献まで細々と精査すれば、或いは能楽師としての事績が見つかるかもしれないが、精査しなければ見つからない程度なら、能楽師としては大したことない二流の人間だったのだろう。

或いは、家宣の世話に夢中になっている内に能の技術を忘れてしまったのかもしれない。