長野業正

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「田んぼ地上げしようとしただけなのにしこたま殴りやがって、あの頑固親父め覚えてろ!!」
長野業正 について、武田信玄
「フレーフレー、じ・じ・い・・・」
長野業正 について、村上義清
「長野のおじ様、素敵~~♪」
長野業正 について、上杉謙信
「早まったかなぁ・・・」
長野業正 について、上杉憲政
「親父、俺ちゃんと欲張りと戦って討死したぜ!」
長野業正 について、長野業盛

長野業正(ながの なりまさ)は日本戦国時代の武将で、信濃上野国箕輪だんご屋の頑固親爺である。村上義清とならぶアンチ武田氏の英雄で、武田信玄教信者に此の名を聞かせるとことごとく発狂する劇薬である。

もともと関東管領である上杉憲政の番頭であったが、憲政が長尾影虎(ながお かげこ)に一目ぼれしてしまい越後に入り浸ってしまった為、なし崩しに長尾影虎の家臣になった。その後、田んぼの地上げを目論む武田信玄と幾度と無くどつき合いを演じるが、がんとして立ち退かなかった。村上義清が最後には覚えてやがれさせられたのに比べ、こっちの頑固さは筋金入りだった様だ。謙信も業正の勇姿にほれ込んだが、残念なことに業正はには頭が上がらない上州人、謙信とアーン♥♥しそこねたままに寿命を迎えた。

某シミュレーションゲームにおいて、川中島に上杉謙信、長野業正、村上義清を並べるのは上杉キャワワ民の義務であるが、武田フリークにとっては恐怖以外の何者でもない。

生涯[編集]

延徳3年(1491年)、一説には明応8年(1499年)、長野憲業または長野信業の子として生まれる。どっちだよと突っ込みを入れるのは野暮。どうでも良い細かい事なので誰も気にしない。長野氏は関東管領の番頭で、業正も箕輪城で先祖伝来のだんご作りに精を出していた。しかし主人であり関東管領である上杉憲政は阿呆なうえに女たらしで、越後に美人のおにゃのこがいると聞くやとっとと山越え谷越え行ってしまった。業正は「べらぼうめぇ、上野の御山を捨てて越後くんだりまで行けるけぇ。ご先祖様に申し訳がたたねえやぁ」とどういう訳か江戸弁で言い放つ。どうやら自分の住む上野(こうづけ)と上野(うえの)を勘違いしていた為と思われる。いずれにせよ、業正は上野に残った訳である。

天文20年(1551年)に憲政が越後に入り浸っているのを北条氏康が聞きつけ、田んぼを買い占めに来たが、「一昨日来やがれ!!」と一喝、これを退ける。此の後、「一昨日来やがれ」は上野の頑固親爺の最終奥義として恐れられることになる。

弘治 3年(1557年)、甲斐の武田信玄が西上野侵攻を開始した。業正は瓶尻において迎え撃ったが、此の時は風邪をひいた為やむをえず箕輪城に戻って玉子酒を飲んで寝てしまった。それを「敵わないと見て逃げ出した」と勘違いした武田軍総大将の武田義信は箕輪城を包囲、乱痴気騒ぎを繰り広げたが、余りの騒がしさに業正はブチギレ。「てやんでぃ、信玄とこのガキがぁ、おとなしくしてればいい気になりやがって!」と大暴れし、武田軍を死体の山にした。「どうやら業正、酒乱にて御座候」と武田方の武将が失禁しながら報告したとの記録が残っている。

翌年弘治 4年(1558年)信玄は自ら兵を率いて業正にリベンジを図る。再び箕輪城を囲んだまではよかったが、突然出てきた酔っ払い業正の暴走馬(戦地仕様16気筒トリプルターボというバケモノ)に轢かれて哀れ病院送りとなる。まさに鎧袖一触である。

その後も懲りずに信玄は業正に喧嘩を売るが、結局6度にわたって一方的に凹られている。

永禄4年(1561年)、業正死亡。五右衛門風呂に入ったはいいが、それがぬるかった事から、風呂に入ったままに沸かし直させ、「まだまだこのくれぇじゃ、ぬるくってちゃんちゃらおかしいやぁ」と強がっていて茹で上がってしまったのだと言われている。また一説では特製の草団子が喉に詰まった為とも言われる。享年71、あるいは享年63。この辺も曖昧だが細かいことなので誰も気にしない。後を三男の業盛が継いだ。

実はこれ、第四回の武田撃退の後のことである。武田信玄は長野業正には一度も勝てなかったのだ。つまり格が違うのである。さあ、崇めたまえ。

遺言[編集]

死去する直前、嫡男(三男)の業盛と飯を喰っていた際にこんな言葉を残している。

「もし、おれがおっちんだらよぉ、一里塚と変わらねぇような墓を作って桜の一本も植えりゃいいや。念仏なんぞいらねぇよ。武田の奴らの首根っこ一つでも多くへし折って墓に供えてくれればそれでいいんだ。敵に降伏するなんざぁもっての他でぇ。運が尽きちまった時にはな、仕方がねぇから性根据えて討死すんだな。それがおれへの孝養ってもんだ、これ以上は望まねぇよ」

結局こんな訓戒を垂れたばかりに死亡フラグが立ってしまったのだが、後の祭。しょうがない。

なお、嫡男(三男)の業盛はこの言葉に従って信玄とゴロ合戦を展開。二度も追い返したのはやはり血筋である。しかし流石に三度目は最終奥義「一昨日来やがれ!!」の迫力がやや劣ることに気づかれ、神通力も尽きた。

武田の記録[編集]

「業正の鋼鉄爺が上野にいる限り、上野を地上げすることはできぬ」と武田信玄が嘆いたと言われる。

業正の死を知ると信玄は「これで上野の田んぼはおらのもんだぁ」と普段の重厚さも何処へやら狂喜乱舞し、すぐさま軍を上野に向けたとされる。しかし此の時は既に六度目の敗北の後、つまり既に子の業盛に二度鼻であしらわれた後だった事に気づいていない。しかも、良いところは既に北条氏に買い占められていたと言う落ちまで付く始末であった。信玄かっこわるっ。

主な家臣[編集]

上泉信綱
ごっつい包丁を振り回し、彼の通った後には刺身の山だけが残ったと言われる伝説の料理人。特にレバ刺しが得意だったが、当時は冷蔵庫がなかったため衛生管理が難しく、食中毒が多発。死の料理人としてその猛威は全国に知れ渡った。何でそう伝わったか、聖上泉伊勢守と呼ばれる。せっかくミドルネームで「武蔵守」を名乗ってたんだから「上泉武蔵」って名乗ったら宮本武蔵を越えたアイドルになったかも。
真田幸隆
但し一時的。武田信玄によって親父共々信濃を追い出されたので業正に仕えたのだが、業正がどんどんよぼよぼになって年を取っていくので不安になり、ちゃっかりと仇敵の信玄に仕えようと逃亡するが、その道中、業正から「甲斐の武田信玄ってのも若い割には結構強い奴だけどよぉ、箕輪に俺っちがいる限りは、碓氷川を越えて領国を侵されると思っちゃ困るけぇ」といかにも田舎臭い手紙が送られて来たため、幸隆はあまりの田舎侍っぷりに呆れたという。
その他
どうせマイナー武将なので誰も気にしない。

関連項目[編集]

義清同様、業正は信玄のライバルではなく天敵の扱いであり、武田信者に火病を発祥させるとして今日まで封印されてきましたが、2012.4.19、ついに禁断の扉が開かれてしまいました。今後武田フリークとの激戦が予想されます。って、おい、スルーしてはいけません。
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