長束正家

出典: へっぽこ実験ウィキ『八百科事典(アンサイクロペディア)』
移動先: 案内検索

長束 正家(なつか まさいえ)は安土桃山時代に活躍した官僚、奉行。奢侈を好む無駄使いの多い豊臣秀吉政権の財政が潤沢だったのは彼や石田三成による貢献の賜物であった。豊臣政権の屋台骨支えた柱の一本と形容しても過言ではない。気性の激しい三成と違ってごくごく普通の、ちょっと気弱な毒にも薬にもならないような人物だったので三成ほど恨みを買う事はなかった…と思いきや、槍働きで台頭した連中からは能吏グループと十把一絡げに扱われて嫌悪され、三成と一緒に暗殺されそうになったりしている。

関ヶ原の合戦では中立を保ったが、戦後、武功に逸った池田輝政によって戦犯の烙印を押され自害させられ、居城水口城は池田の郎党に蹂躙された。あまりに悲惨な最期を遂げたため成仏できず、亡霊となって死後輝政、ひいては池田家に祟りを為した。その後池田家を襲った怪異、惨劇を勘案すれば、いかに正家の怨念が凄まじいものであるかが分かるだろう。

同じ五奉行の増田長盛とは、治めた領地が至近、経済手腕に長けている、関ヶ原で曖昧な動向を取ったなど、境遇や人物像に色々共通点が多く、モロにキャラが被っている。長盛より15年遅く生まれ、15年早く死んだだのが正家、と認識すれば良いだろう。

人物[編集]

出身は近江国長浜である。長浜といえば秀吉が長年拠点を置いた場所として有名だが、正家は福島正則や、同じ近江生まれの石田三成のように、若い頃から所謂子飼いとして秀吉に近侍したわけではない。元々は、織田信長の股肱の臣の中でも就中地味なことに定評のある丹羽長秀に仕えていた。正家が後に手腕を見込まれ五奉行に名を連ねるほど栄達しながらとても地味な人物であったのは、丹羽長秀の地縛霊に憑依されていた可能性もある。長秀と正家はともに地味な人物であることから親和性が強く、長秀の下で俄然台頭して重用され、正家もまた長秀によく仕えた。

ところが、信長が死んで秀吉が台頭してくると、正家はヘッドハンティングに定評のある秀吉によって引き抜かれてしまった。正家が秀吉に引き抜かれてまもなく長秀は没したが正家を奪われたショックが原因だとか言われている。正家は算用、内政、運送に通暁し、優れた才幹を発揮したため、経済面で「使える駒」であると秀吉に見定められ、太閤検地とかややこしい雑務などを、三成や増田長盛と共に片っ端から押し付けられ、ヒーヒー言わされながらも従事し、優れた成果を見せた。

1590年の小田原攻めでは北条氏に対して経済制裁を行い、徳川家康をも唸らせた。朝鮮出兵でも人馬、物資の輸送などの後方支援に徹し前線の武将を補佐している。

ここまで豊臣政権の樹立、発展に尽力したというのに、豊臣秀長石田三成のように評価されることは全くない。『のぼうの城』などでも、強者にはへつらい弱者には高圧的に出る小役人的な人物として描かれている。何故かというと、同じ五奉行の増田長盛同様、畢竟官僚肌の人物だったので、官僚・公務員を忌み嫌い、破天荒な英雄を礼賛、崇拝する大衆の受けが悪かったためある。この辺は仕方がないと甘受するしかないだろう。

関ヶ原での動向[編集]

関ヶ原の合戦では、表面上石田三成方に荷担したものの、積極的に動かなかった、保身の為家康にも媚態を売ったが、一方で彼を居城に持て成すフリをして暗殺しようとした、本戦でも、安国寺恵瓊毛利秀元長宗我部盛親らと共に南宮山に布陣したものの、終始戦の趨勢を傍観していた、というのが定説だが、これは後世に捏造された虚構である。実際には正家は中立を維持し、居城水口城から一歩も動く事はなかった。また家康を居城に招きもてなしをしたことは事実だが、暗殺しようとする意図など微塵もなく、家康が暗殺されると勝手に被害妄想を抱いて深夜に城から抜け出しただけである。

最期[編集]

関ヶ原の合戦で東軍に与した武将の一人、池田輝政は、本戦では南宮山の毛利への押さえとして布陣しており、毛利が結局動かなかった事から大して武功を挙げることができなかった。福島正則ら、前線で華々しい戦果を上げた武将達の後塵を拝することを焦った輝政が狙いを定めたのが正家であった。本戦で家康が勝利を収めた後、敗走した三成ら西軍諸将に対しては徹底した追及がなされたが、輝政は正家に西軍の主翼を担った悪の枢軸であると烙印を押し付け、居城水口城に押し寄せて包囲、総攻撃を仕掛けた。さらに、正家と交渉し、正家始め一族、城兵を助命するという条件の下、降伏させた直後、約定を反故して詰め腹を切らせた。憐れ空手形を渡され欺かれた正家は41歳の生涯を終えた。

だが悲劇はこれだけに止まらなかった。正家の居城水口城は池田の手勢に蹂躙され、長束家の財産は池田輝政、長吉兄弟によって強奪された。また正家の正妻である栄子は輝政と長吉、並びその家臣らによって「回された」挙句近くの川辺に捨てられ、栄子はそのまま衰弱死した。この栄子という人物、とある史料では本多忠勝の姪っ子であると言及されていたり、とにかく忠勝と親近な関係にあったらしく、輝政は後々そのことを知ったが後の祭り、忠勝がこの顛末を知ればただではすまないと危惧した輝政は徹底した隠蔽工作を行い事実を歪曲、粉飾した。

亡霊の祟り[編集]

正家を非業の死に追いやった池田輝政は、正家を陥れて成敗した甲斐があったのか論功行賞で播磨姫路に大幅に加増されたが、その後姫路城、ひいては池田家に怪異や不幸な椿事が押し寄せることとなる。

輝政の入封後、度々姫路城に鬼火が浮遊したり、井戸から蓬髪の落武者や女人の亡霊と思われる人影が這い出てきたという目撃談が報告された。輝政が姫路城を大幅に改築した際も、工事中に積み上げていた城壁が崩落して工夫数名が死亡する事故が数回に渉って起こり、人々は祟りであると恐れ戦いた。

そして祟りは輝政とその一族にも降りかかった。まずは輝政が1613年に急逝し、翌年には弟長吉も没した。更には輝政の正室である徳川家康の娘督姫、輝政の嫡男池田利隆、次男池田忠継までもが相次いで没したのである。特に、督姫、利隆、忠継の死に様は尋常ではなかったらしく、とある文献が伝えるところによると、突如発狂した督姫が利隆と忠継を相次いで斬殺し、自らも自害して果てた、と伝わっている。この時督姫は、長束正家一族の無念を晴らす旨の言葉を発していたといわれ、正家の亡霊に憑依された可能性が示唆されている。督姫が自分の子である忠継に家督を継承させたいがため利隆を疎んで毒を盛ったとか、それを察知した忠継が兄の身代わりとなって毒をあおって死んだ、などと言う美談が巷には流布しているが、実情はもっと身の毛のよだつような顛末であったと見える。なお、池田宗家が伝える史料では三者の没年にタイムラグが生じるが、祟りの噂を拡散させないための歪曲だと思われる。

さらに、督姫が輝政との間に設けたほかの子達も不幸に見舞われた。池田忠雄は寵愛する小姓を殺されて激昂し、下手人の成敗に躍起になる中で突然死を遂げ、池田輝澄は家中の統率に失敗して改易、池田輝興に至っては、突如乱心して正室はじめ女中や家臣複数名を斬り殺して改易されている。

もし、輝政とその一族の死因が正家の怨念に帰結するとしたら、その怨嗟は凄まじいものである。たかだかヒヨッコ金吾一人程度しか祟り殺せなかった大谷吉継の亡霊など、これに比べればなんとも矮小で瑣末なものだ。

なお池田家はその後姫路から岡山(分家は大田舎の鳥取)へ左遷させられたが、これは池田家の当主が、このまま姫路に留まると自分も亡霊に祟り頃されると憂慮し、自発的に国替えを幕府に請願したためである。

関連項目[編集]

Wikipedia
ユーモア欠落症患者のために、ウィキペディア専門家気取りたちが「長束正家」の項目を執筆しています。