長文耐性

出典: へっぽこ実験ウィキ『八百科事典(アンサイクロペディア)』
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長文耐性(ちょうぶんたいせい)とは、長い文章を読む際に生ずる拒否感、疲労感、嫌悪感にどれだけ耐えられるかを表す属性である。この属性は、ウィキペディアを利用する際に必須であることで有名である。そのため、ウィキペディアを反面教師とするアンサイクロペディアでは、いかに、この耐性が発動しないような記事造りを心がけることが重要になる。

概要[編集]

文章というものは、人間の集中力に依存する形で、その意味を脳内に蓄積させていく存在である。そのため、文章が長くなればなるほど、意味を蓄積する際に消費するカロリーは莫大なものとなっていき、時間の経過とともに読み手の集中力が途切れがちになり、それでもなお文章が続く場合、多くの人間の脳内に様々な嫌悪感を発する物質を発生させる。これは、人間の防衛本能に基づく生体反応である。それでもし、文章の内容に面白さがあるようならば、脳内の多幸物質によって嫌悪感は相殺されて再度集中力をかもし出すことも可能になるのだが、往々にしてそのような山場を迎える前に多くの人間が長文を前にして魂を口から吐き出しながらぶっ倒れるか、本の分厚さを見た瞬間にめまいを覚えるかするのが一つのパターンと化している。そして、アンサイクロぺディアでは、ページを見た瞬間に戻るボタンをクリックするのがもはや日常茶飯事と化している。そのため、よきアンサイクロペディアンを目指すのならば、読み手の集中力を意識しながら、いかにして長文を読ませるかを考え、なおかつ、読ませるためのテクニックを駆使して読後感まで考えながら文章を推敲すべきである。また、文章の段落ごとに山場や谷間、オチにボケなどをはさむ形で読みながら脳内を休ませるように仕向けることで、長い長い文章を一気に読ませ、「読む楽しさ」を感じさせることで、読後に長文を読んだ苦しさを一気に満足という幸福に変化させることができる。もっとも、そんなことをしなくても短文の積み重ねや一つのセンテンスの破壊力でも十分に面白い文章を作ることは可能であるけれど、それらの文章には残念ながら書き手のセンスを込めることが難しいという一面がある。これは、短文の間口の広さから来る問題で、短ければ短い分、誰にでも書ける=競争相手が増える、という当たり前の話である。逆に、長ければ長いほど書き手の文章力が問われるため、文章を破綻させずに延々と長文を書けるというのは、ある意味、書き手を印象付けるために重要な能力である。ただし、いくら論理的に長文を書いたとしても、それを読む側は大学の卒業論文でもないかぎり不特定多数であるため、結局のところ、多くの人間の目に触れる文章というものは長くなればなるほど様々なアイデアを駆使して読み手の集中力を維持させることを念頭に置かなければ、結局、読んでみても意味が分からなかった、意味がわかっても共感できなかった、意味がわかって共感できても、心底疲れた二度と読みたくない、といった具合に、作者の独りよがりの文章、というイメージを植えつける結果となってしまう。それが学術論文や、ブログ、もしくはウィキペディアであるならば特に問題はないのだけれど、アンサイクロペディアのようにジョークを専門に扱うサイト、さらには2ちゃんねるのように数万人の目が常時触れているサイトにおいて、長く読みにくく疲れる上に共感できない文章を延々と書き連ねるような行為は、大多数の読者にケンカを売っている行為に等しい。であるからして、アンサイクロペディアにおいて、少なくとも大多数の人間が笑える記事を書くためには、読み手に長文耐性がないと仮定した上で記事を作成しなくてはいけない。そうしなければ、どんなに面白い記事であっても、耐性を持つ一握りの読み手のみが記事の対象となってしまい、ほとんどの人間が仲間はずれにされてしまう。つまり、その文章の書き手が仲間はずれにされてしまう。自らの文章によって。さらに言うなら、長文耐性を持つ一握りの人間ほど、読解力、知識力、ジョークのセンス、皮肉の度合いが強くなっていく傾向があるため、生半可な文章ではくすりとも笑わせることができないという恐ろしい現実がある。また、長文耐性の持ち主ほど、一つの作品の読み込み具合がシャレにならないといった案件も見受けられ、ウィキペディアにおける物語紹介記事における原作破壊行為は、その作品に熱狂的なファンがいればいるほど、その被害の度合いが大きくなっている。実際のところ、それらの強烈な愛情は、多くの読み手からすればひいきの引き倒しや、ストーカー、むしろ原作の敵といったレベルにまで達していることが多いけれど、書いている側がそのことに気づくことはまずない。そもそも、そこまで読み込んだ上で、情報を拡散する必要なんてものはまったくないにもかかわらず、長文耐性の持ち主が自分の読解力を誇示するのは、ほとんど、その作品への信仰心を現世に表すことこそ、自分の使命とまで思い込んだ事例が多い。そのため、読み込めば読み込むほど、自分の中にある表現したいという欲求を押しとどめることが出来ず、その表現の質を鑑みずにチャレンジする人は多い。とても多い。そのため、押しとどめようとする人々に噛み付いたりわめいたり、果ては周囲を巻き込んで暴走したりと始末におえない事例はウィキペディアでもアンサイクロペディアでも散見される。そのため、長文耐性の持ち主がごくごく狭いジャンルで活動する場合、文章力、および自制力がなかったら、そのまま狂人のたわごとと化すと思って間違いない。それぐらいに一つの作品を読み込むことはある意味稀有な才能であるのだけれど、問題は、そういった才能の持ち主達が、スターリングラードで敵味方に分かれて戦い、文化大革命で同胞をン千万人単位で殺し、なおかつ東京の地下鉄にサリンをぶちまけているという、どうしようもない事実が存在することである。そのため、長文を読み込む能力より、もっと重要なのは、長文を理解する能力であり、それ以上に重要なのは、その長文を理解した上で、自分でものを考える能力である。そうしたことを含めて長文耐性ということであるのだけれど、残念ながら世の中は、長文を読解した、もしくは理解しただけで全てが許された時代が存在している。有名な事例として、マルクスの「共産党宣言」は、その意味を理解した人間からは鼻であしらわれるような内容であったにも関わらず、発表から100年以上もの間、世界中がその内容を信仰するものたちによって振り回されている。それ以上の存在として、ユダヤ教、キリスト教における「聖書」は読解と理解までは可能であるけれど、それ以上の行為を公権力全てを駆使して阻害させる時代が1,000年以上も続いた歴史がある。その結果、中世ヨーロッパは暗黒時代と呼ばれる大停滞期を迎えることとなり、そして現在においても、聖書の読解と理解という狭い世界に信者を留置き、己の意思で考えうる行為を阻むような意識が存在する。それは、他宗教、他文化との比較こそが信仰を揺さぶる最も大きな知恵であることを、キリスト教というものが理解していることを意味する。これは他の文化圏よりも、キリスト教圏において、その色が濃いことは、アフガニスタン侵攻やイラク戦争、古くはベトナム戦争や第二次世界大戦にまでさかのぼることが出来る。

な、疲れるだろ

でも、信じられるかい?ロシア文学ではこれが短文なんだぜ?

長文耐性とは[編集]

長文耐性というものは、様々な要素が組み合わさって発揮される一種の自己防衛機能である。長文を読み飛ばす技術や、作者への期待、シリーズへの期待、エロへの期待によって一気に読み込む技術、BGMや糖分補給用の物資、休憩時間などを準備する経験などが渾然一体となって、つらつらと書かれしン百ページにもわたる駄文を乗り越える能力となったものである。

そのため、単純にクソ長い本を読めたからといって長文耐性がつくというわけでもない。そんなもん、マゾっ気があれば誰だって読める。そして、マゾの気質と長文耐性は大きく違う。なぜなら、片方はいかに精神的ダメージを少なくするかを考えているのに対して、もう片方は、精神ダメージを素通しどころか倍掛けしてMPを0にしてSANチェックを発生させて、さらにその先を求めようとするレベルの苦痛が快感に変わる感覚に属する話である。これらの感覚は、主にロシア文学現代詩に触れる際に考慮しなければならない通過儀礼である。

このように、期待しない長文を読むにはある程度の技術、および事前の準備は欠かせない。逆に、期待しない長文だからこそ、睡眠導入剤代わりに利用したり、知的好奇心を満足させるエネルギーすら使いたくない場合での暇つぶしなどに利用したりする者も多い。ただし、ひとたび期待の炎が燃え上がってしまうと、3時間以上ぶっ通しで文章を消化するのは当たり前、さらには必須とも言える3度の飯による養分の摂取すら忘れて一つの作品にのめりこむのもよくある話。このような暴走ができる体力の付与および、それを許せる環境の整備もまた、長文耐性の一つである。

長文耐性のリスク[編集]

長文を読める能力には、しかし、リスクも伴う。まず、1人の作家に固執すると、文章のリズムや韻、律が似通ってしまう上、思想から何から共鳴してしまうこともしばしば。かといって、多すぎでも問題であるけれど、文学というものの特性上、作者が死なない限り卒業しづらい、というある意味麻薬に近い依存性を持つため、心酔にはなるべく用心すべきである。泥酔は一晩で醒めるが、心酔は一生かかっても治らないことすらある。

悪くはないが良くもない

また、長文の読解能力を得たとしても、まだその先には物語の構成作者のお遊びお約束といった文章の読解以外に書き手とその時代への知識が必要な要素が多いため、それらを含めて総合的に「作者」および「作品」に当たるべきなのだが、文章のみにこだわった結果、作者の真意、遊びに気づかずに、下手な文学論議で赤っ恥をさらすこともよくある話である。また、赤っ恥だけならまだしも、作品の読解以前に、人として読み手としての最低限の礼儀をわきまえなくなった結果、作者から強烈な皮肉を受け取る例すらある。

一例を挙げれば、1960年代半ばから70年代にかけて、雑誌「ガロ」に連載されていたマンガ「カムイ伝」は、大学生たちから熱狂的な支持を集めた結果、なぜか、当時の流行だった学生運動やら全共闘、果ては安保闘争に至るまで、政治と絡めて語られることになる。マンガなのに。最初は、作り手側もその流れを歓迎し、マンガの内容をより権力闘争色の強いもの、差別する側、される側、搾取する側、される側との戦いへと変貌させた結果、カムイ伝はまさに一時代を築くまでの大ヒットを遂げる。しかし、その大ヒットが招いたものは、作者の創作の姿勢にあれこれと口出しをする愛読者の群れだった。一応、カムイ伝の作者である白土三平は、当初思い描いていた忍者カムイの物語から、カムイの義理の兄である農民の正助の物語にマンガの内容を変更するまでは許容したけれど、一部学生はそれらの変更に図に乗って、より現実の世界と絡めた表現を期待するようになる。期待するだけならばまだしも、自らの期待に外れた内容にすると即批判。カムイ伝は死んだのなんだの、作者へのバッシングを言いたい放題。結局のところ、自分の思い通りにいかないことを自分は読者の代表だとでかい声でわめきながら作り手側に要求するようになっていく。

うん、どこの時代にもいるんだな、うん

しかし、それらの暴走に対して作者である白土三平がとった行動は苛烈だった。まず、多くの読者が望んだとおり、搾取される側だった農民、正助の一揆を大成功に終わらせた後、人気があった登場人物をことごとく殺しつくし、最後の場面で、搾取する幕府によって舌を抜かれなにもしゃべれなくなった正助たった一人を農民の側に戻した結果、農民たちは生き残ったことで正助を裏切り者扱いして、リンチ。読者に結末を見せることなく、たった一文、「正助の消息はしれない」とやってのけた。そして「第一部 完」。

嫌がらせにもほどがある。しかも、その第一部が終了した翌年、現実の世界で連合赤軍が仲間12人を同じくリンチで殺害する「山岳ベース事件」が起こる。その結果、マンガでも現実でも、全共闘世代は無理やり夢を覚まされることになる。

その後、心酔していた作品から無理やり卒業させられた全共闘世代のカムイ伝ファンが、実は正助は生きていたことを知るのは、第一部終了からおよそ20年たってからになる。

本当に、嫌がらせにもほどがある

このように、心酔と書いて、心のそこから酔っぱらった連中が跋扈することによって、作者がブチ切れたり、嫌がらせに走ったり、果ては作品そのものに情熱が注げなくなるような事態は、いつの世にも散見される。しかし、カムイ伝のように、うっとおしい連中に強烈なしっぺ返しを食らわせられる作り手は、そのを乗り越えて世代を超えた名声を手にする傾向が強い。つまり、クソ鬱陶しい味方は殺せ、ということである。

白土三平以外にファンをぶっ殺した例として、フォークの第一人者とあがめられた瞬間にエレキギターを持ってロックに行ったボブ・ディランや、フォークの神様と称えられた直後にアルバム「俺らいちぬけた」を発表して表舞台から姿を消した岡林信康、ファンが増えるたび、名声を確立するたびにバンドを解散、新しく1から出直すブルーハーツの甲本ヒロト、真島昌利らが挙げられる。

長文耐性を手に入れるには[編集]

長文耐性を手に入れるにはいくつかの方法がある。

読み飛ばす[編集]

朝方の新聞を寝ぼけ眼でよむ際によくやる、文中の鍵となるフレーズを拾ったら、後は自分の知識と勘と経験で残りの文章を補う。これができるとできないとでは、1ページを読むスピードに天と地の差が生まれる。ただし、その後の段落でワケが分からなくなって前に戻ることも覚悟しないといけない。また、期待しなかった作品に引きずり込まれた結果、読み飛ばした最初の部分を再度読み返すようなこともある。むしろ、あってほしい。けれど、だいたいは読み飛ばして読み飛ばして読み飛ばして、最後まで行ったらあとがきも読み飛ばすのが多くの長文耐性の持ち主の姿である。

環境づくり[編集]

クソ寒い中で長文を読む。これを修行といふ。クソ暑い中でン百ページを読破する。これを悪夢といふ。同じように、空腹や睡眠不足、果てはキライな先生の英語の朗読にいたるまで、人間、自分がいやな環境の中で長文読まされれば、誰だって脳内が嫌悪をつかさどる物質で一杯になり、トラウマ化するのも仕方ないのである。そのような環境を極力排除して長文に当たるのが読書の基本ともいえる。そのため、寝る前に布団の中で長文を読むのが一番いい。その次は、静かな図書館、好きな先生の授業と続く。もっとも、それら全てがマンガに食われやすい環境であるため、せめて授業中ぐらいは文章読んどけ、という話にもつながる。

期待[編集]

さ、ここまでの文章を読んできた皆さんは、期待という項目から、前述した内容である「エロ」についての文章が出てくるだろうと予測したはずだ。エロい文章を読む期待、エロい挿絵を読む期待、エロい作者を読む期待などなど、そんな話で長文を読む原動力を獲るなんていう話を期待したはずだ。

残念

ここでは、ファニー・ヒル四畳半襖の下張太陽の季節チャタレイ夫人の恋人、さらには痴人の愛程度のエロワードしか掲載しない。花と蛇O嬢の物語ガミアニなんて話に食いつけるレベルの長文耐性を持つ方々には大変物足りない話である。え?グリーンドアエーゲ海に捧ぐくノ一忍法帖

アナタハイッタイナニヲイッテルンダイ?

ちなみに[編集]

あなたはどうだか知りませんが、この文章を読むことなく上記のワードを見た瞬間にウィキペディア、もしくはGoogleに突入した人は、大変に知識欲と、そうではない欲をお持ちになられた方であり、長文を読む際に最も重要な、「作品に立ち向かう心」を持った方であります。

いや、いくらなんでもそんなやついやし・・・いるんだろうなあ

関連項目[編集]