長州藩

出典: へっぽこ実験ウィキ『八百科事典(アンサイクロペディア)』
移動: 案内検索
この記事は左に寄り過ぎています。
ここが真ん中です。
「テロリストは、あなた方だ! あなた方が!!テロリストではないですか!!! 」
長州藩 について、杉下右京
「長州藩のやつ、テロばっかりしおって!本当にけしからん!!」
長州藩 について、磯野波平
「天皇の為と称して、民族浄化をやってもアメリカの植民地にしても平気な奴ら、それが長州藩です。こんな長州藩を英雄視する日本人は、いい加減に目を覚ますべきですね。」
長州藩 について、ビル・トッテン
「おのれらは人間ではない。」
長州藩 について、無門
「長州藩らを日本から追放して何処かに置いて行ってくれ。ああいう奴ダメだ!」
長州藩 について、佐野実
「このテロリスト集団、ホームラン級の大バカだな!」
長州藩 について、大和龍門

長州藩(ちょうしゅうはん)は、徳川家の慈愛の下で山口県長門/周防|防長二国)に生存を許されていた藩。

徳川幕府末期には京都江戸テロ行為を働くなど暴れ回ったあげく、ちゃっかりと時流に乗って徳川幕府を倒して大日本帝国を立てた藩として有名。別名は「タリバンの本家」「元祖紅衛兵」「北朝鮮の土台人」「連合赤軍本家」。

Wikipedia
ユーモア欠落症患者のために、ウィキペディア専門家気取りたちが「長州藩」の項目を執筆しています。

経緯[編集]

外様大名としての扱い[編集]

戦国大名毛利元就は、広島を本拠地にして山陰山陽の西半分に跨がる支配を確立させ、豊臣秀吉の時代には五大老の一に選ばれるが、関ヶ原の戦いには、西軍の総大将として大阪城から動きもせず、確認されている自宅警備員としては厩戸王子以来ではないかとされる。後に「」こと徳川幕府初代将軍となる徳川家康は西軍総大将の罪を問い斬首しようとしたが、毛利の一族で関ヶ原の戦いでちゃっかり東軍に内通していた吉川広家が泣いて許しをこうたため、防長二国に追いやられただけで済んだ。しかし中心地も、徳川幕府に逆らえないよう、拠点として便利な防府下関ではなく周防のにおく事を辛うじて許された。

忍耐250年[編集]

毛利家の家紋

斬首を免れたにもかかわらず毛利(家紋から一品=イッピン[1]ともいう。)としては余りにも酷い仕打ちと逆恨みしたため、当然藩内からもこの処遇には反対するものが多かったのだが、自宅警備員第二号の人徳、力量の差は明らかであったために、藩内では取りあえずその怨みの声は「将来、徳川幕府を倒し毛利幕府を作る」という歪んだ暗黙の妄想了解としておき、表向きは幕府に従っている振りをしていた。 とは言え、幕府も決して愚ではないため、イッピンに対して半島からやってきては金や女をせびりにくる飲んだくれ共お守りを割り当てるなど、それなりの苛め行為を働いたとされているが、イッピンでは常にそれに表立っては抵抗をせず[2]、全てを「怨み[3]」として蓄え、討幕の機会が来るまで臥薪嘗胆して耐え忍ぶことに集中した。これは250年余り継続したといわれているが、それがあの「維新」と言う名のクーデター[4]の原動力になったとみなせなくもない。

天皇御都合原理主義[編集]

尊皇攘夷[編集]

長州藩ではその後、天皇教御都合原理主義の跳ねっ返りが旗手を取り、御都合的に尊皇攘夷を掲げてイギリスフランスに戦争を仕掛けてみるが、あえなく大敗。(同様にイギリスと戦争をした(薩英戦争)薩摩は、イギリス軍の上陸を許さず鎖を艦隊の切って逃亡させて勝った。)ところがイッピンは下関をあっけらかんと占拠され(この時点でわが皇国は金甌無欠でなくなった。国辱である。係わった高杉晋作などはまさに国賊である)その為あっさりとこれまでの路線を転換し、「攘夷がダメなら徳川を倒せばいいじゃない!」という倒幕に方針が変わった。[5]

一方、建前として掲げた尊王攘夷を掲げて旗を降ろせなくなったも者は、京都テロ行為を企むが会津藩新撰組にことごとく阻止される。その例として祇園祭の宵山に京都市中を放火炎上してそのどさくさに畏くも孝明天皇を拉致するという企てもしていた)。[6]これは新撰組と会津によってぎりぎりで阻止された(ほとんどは新撰組の手柄である。池田屋事件あげくに、ならば孝明天皇を強引に拉致って自分の影響下に置こうと禁門の変を起こすもこれも会津藩薩摩藩フルボッコにされて失敗。これによって徳川家と天皇家を敵に回すことになってしまい、一気に窮地に追い込まれた。だが、そこは節操のない…じゃなかった回りやすい藩政のこと。取りあえず恭順の意思を見せて手ごろな家老を三人ほどつかまえて生贄…いやいや斬首としたが、ほとぼりが冷めるや否やDQN達が藩内でクーデターを起こし、再び倒幕路線に戻る。

そして節操ゼロというかマイナスとも言える身代わりの早さが実り、京都で敵に回ったはずの薩摩と同盟を結び、やはり一度戦ったはずのイギリスと同盟を結んで二回目の対長州戦争で圧勝する。その後、勢いづいたまま大政奉還天皇教宣言を(ほぼ薩摩藩が)頑張った後、長州藩は「自分達がやったんだぜ!」という感じでちゃっかり薩長として収まった。なお、一連の政争の大勢が倒幕方に傾いた後は、しっかりと会津に対して(テロ行為を取り締まられた)逆恨みを果たしたのは言うまでもない

大日本帝国の盟主[編集]

で、西暦1868年1月3日には、長州藩は、「三、四卿(岩倉具視三條実美)はなんの定見あって幼沖の天子を擁し、権柄を窃取するか」と土佐の倒幕派の山内容堂でさえそのような言を言わしめた王政復古のクーデターを成功させて官軍になり、自分のが一番おろそかにしている天皇教宣言を発表して、大日本帝国なる帝国主義国家をぶっ立てた。すると、イッピンは、よりによって勅願寺の永久寺等も含め全国の佛教寺院を潰し、東北では戊辰戦争(西暦1868年)で、頻りに無辜を殺傷し惨害の及ぶ所、眞に測るべからざるに至ったっが、戦争神社を建てて(西暦1869年)、自由民権運動を伊藤博文大日本帝国憲法(西暦1889年)で潰し、共和制運動を田中義一が戊辰大獄(西暦1928年)で潰した。天皇教宣言から太平洋戦争敗北までの77年間、イスラム原理主義タリバンも真っ青の恐怖支配を布いた。もちろんこの「タリバンの本家」は飲酒、強姦、贈賄し放題であった。潔癖なタリバンと比較するのはタリバンに失礼である。[7] 天皇教宣言から44年後の西暦1912年、辛亥革命によって王朝が倒されて、中華民国が立てられた。このドミノ現象で、天皇嘉仁(以下、国家機関である天皇については諱を表示し、称号を用ゐない。)が政権を握った途端、桂太郎が失脚しめでたくなった。嘉仁は日露戦争当時の総理大臣である桂太郎を国葬にすることを許さなかった。以来、イッピン政治家は、野党になったり与党になったりを繰り返した。イッピンの逆恨みは恐ろしいもので、嘉仁が「進行した脳病により帝国議会の開院式で詔勅を読んだ後、その勅書をくるくると丸め、遠めがねにして議員席を見渡した」というデマ[8]を広め、幼沖の皇太子である裕仁を摂政に擁立した。一方の薩摩人は、睦仁の治下では海軍軍人を多く出したものの、西南戦争の余燼と辛亥革命直後の汚職事件が重なって、勢力を削ぐ結果になった。又、イッピンの末裔は(蛙の子はオタマジャクシ、イッピンの末裔はやはりイッピンである。)、植民地に入れた台湾朝鮮で総督になり、天皇教の頒布に明け暮れた。 天皇教宣言から64年後の西暦1932年には、大日本帝国政府は、愛新覚羅溥儀を国王に祭り上げて、傀儡国家「満州国」をぶっ立てた。この満州国には、岸信介や鮎川義介など、多数のイッピンの末裔(蛙の子はオタマジャクシ、イッピンの末裔はやはりイッピンである。天皇教都合原理主義「天皇教ご都合原理主義はここでも繰り広げられた。)が政府要人として送られた。 イッピンの末裔すなわちイッピン)は、「西欧列強からの解放」を謳う詐欺商法で、東南アジアに天皇教を頒布することを宣言。これにより、東亜一帯は戦火と天皇教に巻き込まれた。

戦争勃発から4年後、天皇教宣言から77年後の西暦1945年に は、大日本帝国は東京大空襲で完全に劣勢になった。これでも懲りない裕仁と長州人政治家に業を煮やしたアメリカ合衆国中華民国ソビエト連邦の政治家は、「天皇教を放棄しないと、貴様の先祖代々の土地を焼き拂うぞ!」って警告。これを、裕仁と長州人政治家はシカト。すると、イッピンのご先祖様がいた広島と、イッピンを援護したトーマス・グラバーの本拠地だった長崎核爆弾が落とされた。そして、地元に残された平民の買い物先である小倉や、天皇のご先祖様がいた京都にも核爆弾が落とされる予定だったが、こちらは幸運にも爆撃を免れた。広島と長崎に核爆弾が落とされると、東北アジアと東南アジアの民衆と政治家は、「天皇国家はお終いだ!」と歓声を上げ、革命の烽火を上げた。そして、広島と長崎への核爆撃により、イッピンが立てた天皇教カルト国家はとうとう死に、満州国など傀儡国家も一斉に死んだ。オウム真理教と同じ末路である。

「斯様な事でイッピンどもの息の根は止められぬ。虎狼の族は天下に散ったのだ。」
長州藩 について、日置大膳亮
大日本帝国が死ぬと、民主政体を明記した日本国が生まれた。しかし、長州人政治家は、利権を維持したい、死刑を免れたい、これら2つの思いで天皇王朝を存続させたいをとりあえず掲げ、アメリカ合衆国の政治家に媚びて裕仁に謝罪させ、核の傘条約によって日本国をアメリカ合衆国の属国に落とした。挙句の果てには、東京大空襲を実行したカーチス・ルメイに勳章まで与えた。まさに上記の日置大膳亮の危惧した展開になったのだ。
アメリカに謝罪した裕仁

尊皇攘夷を自称する志士はサイテイ![編集]

天皇の名のもと肉親を殺された神聖ヒロシマ共和国、イッピンが責任逃れの国体護持を掲げたせいでアメリカ軍基地を強制された神奈川県琉球共和国、そして大韓民国の民衆は、天皇薩摩藩・長州藩を「悪の枢軸」と呼んでいる。これはイッピンが広めたデマであり、天皇と薩摩に濡れ衣を着せて、自分の悪事を隠蔽しようとするものである。

イッピンは、自分が信じていない天皇教を強制し、自分たちを守るために日本と天皇をアメリカ軍に売り飛ばしたため、民主主義者や共和主義者(殆どのジェンダーフリー主義者もこの論者を兼任する)や平和外交主義者にとっては目の敵である。まあ、「尊皇」の旗印を挙げた割には禁門の変において天皇を拉致ろうと企んだり、天皇のいる京の都で平気で大砲ぶっ放すわ、鹿鳴館で強姦未遂…という所を見ると、彼らが本気で「尊皇攘夷」を考えていたとは到底思えないが。

イッピン歴代総理大臣[編集]

  1. 伊藤博文=エロ親父。紅葉饅頭の開祖。壮士安重根義士により「考明天皇弑逆」の斬奸状を突き付けられ誅殺された。言わずとしれた日本一嫌われているヤリチンの先祖でもある。
  2. 山縣有朋=軍刀で御就寝中の睦仁を叩き起した神武以来の不敬者。帷幄上奏権乱用の元祖。天皇の政治利用の総本家。
  3. 桂太郎=内大臣(兼侍従長)からの初の総理拝命。天皇御都合原理主義の大成者。その御都合振りは尾崎行雄に「玉座を以て胸壁と為し、詔勅を以て弾丸に代へて政敵を倒さんとするもの」と言われた。
  4. 寺内正毅=なぜか大阪通天閣に祭られている。日本が謝罪と賠償を求められることになった張本人。
  5. 田中義一=満州某重大事件の黒幕。(この事件が統帥権干犯であることはなぜか誰も気にしない。)裕仁に「田中総理の言ふことはちつとも判らぬ。再びきくことは自分は厭だ。」と勅勘を被り、辞任する。天皇御都合原理主義者にはあるまじき忠義なイッピンである。
  6. 岸信介=同じくイッピンの「おそらくヒトラーに買収された」(by裕仁)売国奴・松岡洋右の甥。A級戦犯。安保改定と称し日本をアメリカに売り渡す[9]。自衛隊の銃口を忠良なる百姓(おほみたから)に向けようとしたが、赤城防衛大臣に拒否され辞任。その後衆議院議員も辞任するが、これは何らかの事件の揉み消しで辞任と引き換えに立件見送りという取引があったのではないか、という声もある。実際は藪の中であるが、そのような風評を呼ぶのは、歴代のイッピンたちの功績の積み重ねである。別名、「昭和の妖怪」。
  7. 佐藤榮作=岸の弟。売国奴・松岡の甥であるうえ、従姉妹で松岡の姪である寛子を妻とする売国奴の血筋満々。非核三原則・沖縄の核抜き本土並み返還をした功績でノーベル平和賞受賞。しかし死後「有事の沖縄への核持ち込みおよび通過」を事前協議の上で認める密約をアメリカと結んでいたことが暴露される。やはり総理としては兄と同様売国奴。本文中にあるようにカーチス・ルメイに裕仁の名で叙勲した。
  8. 安倍晋三=岸の孫。なんだか訳の分かんない理由で自殺した松岡利勝農水大臣とは血縁関係はない。総理在職中に現役の大臣を自殺に追い込んだのは、鈴木貫太郎内閣において阿南惟幾陸軍大臣が「一死大罪を謝す」と自決して以来二度目である。イッピン自民党の利権のためだけに総理大臣になったといわれるほど公約も定見もなかったが[10]、その重責に耐えられず下痢。下痢によって辞任した初の総理大臣となった。ちなみに成蹊大学出身初の総理大臣でもある。
  9. 菅直人=選挙区は東京だが生まれは長州の宇部である。安部が在職時に/日本共産党の吉井英勝から「巨大地震の発生に伴う安全機能の喪失など原発の危険から国民の安全を守ることに関する質問主意書」を出されていたのにも拘らず、吉井の疑義を安部とともに無視した。その挙句が東日本大震災に伴う福島第一原発のレベル7である。それでもプロ市民上がりかという声が大きいが、菅がイッピンであることを知れば、その不様さも理解できよう。民主党に政権交代したのはいいが、それでもイッピン、選挙区を変えてもやはりイッピン。首相の座にしがみつく様は下痢総理こと安部と並ぶののがある


注:アンサイクロペディアは、この文を含めて嘘と出鱈目にまみれています。
以上の文章も嘘や出鱈目である可能性が高いです。以下の注だって嘘や出鱈目である可能性が高いんです。毛利元就の恒例は怪しいんですが
……と、言いたい所ですが、アンサイクロペディアにあるまじき事態なのだが……イッピンの逸話は全て事実である。バカな!

総評[編集]

勝てば官軍である。世の中なんて所詮そんなもんだ。

脚注[編集]

  1. ^ なお、イッピンと言ってもいくら品を逸しているからといっても「逸品」に由来するものではない。バードカフェ焼肉酒屋えびすの付け出しででるような一品である。ましてや京都のラーメン屋の「天下一品」のような意味ではない
  2. ^ 当たり前だ。大普請では情けをかけてやっていることを感謝できないのがイッピン。斬首回避もそうだが通常の日本人にある感謝の念がないのがイッピンの際立った特徴である。あの国に近いからか。でもあの国にもっと近い福岡県さらに、もっともっと近い対馬などにはその影響はあまり見られない。やはりこれはイッピンのオリジナルであると考えてよいだろう。ウリナラ起源のあの国もこのイッピンの性格についてはウリナラ起源を主張していない。あの国もこんなものの起源にされたらたまったものではないだろう。
  3. ^ ちなみにここで言う「怨み」はポジティブ・陽性・外向的な復仇意識などを指すらしい。なお、「恨み」と書くとネガティブ・陰性・内向的な復仇意識などを指すらしいが、根本的には同じものと考えていい。わざわざこのような注釈をつけるのは、会津が「雪怨」という語を使うのを恐れているからである。会津は雪は深いけんじょもいくらでも怨みも恨みもすすぐにはたんねぇ。
  4. ^ 鹿児島県では「維新」と言えば島津義弘を指すこともあるが、山口県では例外なく「明治維新」を指すというか、「明治維新」の通名である。
  5. ^ ちなみにその方針に変更については「あら、ごめんなさい」の一言もなしに済ませてしまっている。あまつさえ、後に鹿鳴館で夷人さんとダンスを踊るようになった。攘夷はどこいった?
  6. ^ 今で言うならば通勤ラッシュ時、地下鉄にサリンを撒くのに等しい。
  7. ^ この注を書いたのは私です。私をテロの標的から外しておいてください。
  8. ^ 実際には勅書の巻き方を確認しただけである
  9. ^ 攘夷という言葉を教えてやりたい。
  10. ^ 「美しい国 日本」をキャッチフレーズにするにはしたが、よりによって佐藤の元部下であるJR東日本によって、「まだあったんです 美しい日本が」という会津観光キャンペーンを打たれた。

関連項目[編集]