長宗我部信親

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長宗我部 信親(ちょうそかべ のぶちか、1565年 - 1587年)は戦国時代のサムライ。かの長宗我部元親と妻、菜々との間に生まれた長男坊であり、元親をして最も信頼した男と言わしめたイケメンである。親父に対して「父上」ではなく、「元親様」と呼んだ反骨魂あふれる凄絶ミュージシャンとして名高い。なお、長宗我部信親は実に身長184cmもある。

人物・概略[編集]

名前の由来[編集]

  • 父、元親は常々家臣に『お館様じゃねえ、兄貴と呼べ!』と命令していたが、父の血をしっかり受けついた信親は「兄貴」とは呼ばず、終生「元親様」と呼び続けた。(この時点ではまだ「信親」という名前じゃないが分かりやすくするためこう呼ぶ)
  • 元親は彼の反骨魂に痛く感動し、彼を寵愛する。
  • それを見た織田信長が、一体なんと思ったのであろうか、なんと彼の烏帽子親となり、自分の名前から「信」の字を与えてを「信親」と名乗らせた。これは長宗我部家の中島可之助が信長への使者に赴いた時(「鳥無き島の蝙蝠」云々のアレ)のエピソードである。

四国征伐[編集]

  • 四国征伐では父・元親に従軍し、本陣でお留守番をしていた。父は陣頭に立って奮戦し、島左近にからかわれたものの「本陣は信親に任せた」と言い返し、息子への信頼感を表明した。
  • しかし、結果は長宗我部家は惨敗、かろうじて土佐一国を安堵されるのみとなった。
  • そこへ追い討ちをかけたのは海賊禁止令であり、長宗我部の売りはなくなった。

最期、戸次川の戦い[編集]

長宗我部家は宿敵十河家と共に仙石秀久の軍に組み入れられ、結果として苦戦した。信親はそこで戦死した。仙石の馬鹿がビビって逃げたため置き去りにされたので、「討ち死にしてやる!」と敵の大群に突っ込んで討たれたとする説と、父・元親が島津軍の釣り野伏により包囲され狙撃されそうだったのを、身を挺して守った結果死んだ、という説があるが、定かではない。どっちみち日本史の大局には影響の無い、無意味な死であった。

「信親ーーー!」
長宗我部信親 について、長宗我部元親

影響[編集]

とはいえ、信親の死が元親に与えた影響はすさまじく、元親は発狂して暴君化してしまい、吉良親実比江山親興を良く分からない理由で切腹させたりと、にわかに凶行に走るようになった。そして長宗我部家の家内が乱れたまま関ヶ原の合戦が起こって、四男の長宗我部盛親も父のように発狂して、兄の津野親忠を殺して長宗我部家は改易されてしまった。こうした経緯から、信親の死が長宗我部家滅亡の原因になったと戦国オタは口を揃えて言っている。だが信親が生きていたからといって長宗我部家が安泰になったとは限らない。信親と盛親は同腹の兄弟なので、もしかすると信親も発狂して奇行に走ったかもしれないのだ。

後世の評価[編集]

親父にかけられた期待とその悲劇的な最期から、大して戦績も上げていないにもかかわらず、信親の人気はとても根強い。徳川信康織田信忠三好義興と共に、若死にして残念だった武将として残念がられている。なお信親を討ち取った憎き敵である島津家久の方も、戸次川の合戦からすぐに突然死している。こっちもこっちで有能な人物であり、若死にして残念といわれることがあるが、信親が20代で死んだのに対して家久は40歳で死んだので、あまり若死にと呼ばれるいことがない。

異説[編集]

検閲により削除の世界における大阪湾の戦いで、元親が貂蝉張コウと一緒に魔物退治をしている折に、水軍を呼ぶためのパシリとして頑張る信親の姿が確認されている。

関連項目[編集]