金上盛備

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金上盛備(かながみ もりはる、大永7年(1527年)-天正17年6月5日(1589年7月17日))とは、蘆名(あしな)家において蘆名盛氏盛興盛隆亀王丸義広の五代にわたって仕えた古参の家臣である。

生涯[編集]

お家の為に東奔西走。

蘆名家全盛期[編集]

卓越した政治手腕によって周囲から「蘆名の執権」と称えられていたが、それは実際のところ「他にまともな家臣がいないから」である事をよく自覚しており、自分に対して猫なで声で「執権殿」などと呼んで来る手合いはことごとく「へつらい者」として相手にしなかったため、多くの家臣たちの恨みを買ったが、それでも反抗することが出来ないほどに蘆名家家中は弱体化していた。それを憂えた盛備が政治に外交に軍事に、と八面六臂の忙しさで奔走すればするほど周囲の家臣たちは執務に手を出しにくくなり、不貞腐れた家臣たちは「老骨の勝手にやらせておけばよい」として誰も手を貸さなくなった結果、盛備はますます忙しくなり、ますます有能と評判が高まっていった。そんな過労死寸前の盛備を辛うじて支えたのは佐瀬種常(させ たねつね)・佐瀬常雄(させ つねかつ)父子と松本氏輔(まつもと うじすけ、別名図書助)の3人であり、そこに筆頭の盛備を加えて「蘆名四天の宿老」と呼びならわし、周囲は「誰が最初に倒れるか」という予想までしていたと言われるほど、彼ら4人の政務は多忙を極め、実質的に蘆名家156万石[要出典]の命運はこの「蘆名四天」によって支えられていたと言っても過言ではない状態であった。それでも、まだ主君が有能である内はそれでも事足りた。

華麗なる没落[編集]

天正8年6月17日(1580年7月28日)に隠居して養子・盛隆(もりたか)の後見をしていた盛氏(もりうじ)が死没する(子の盛興(もりおき)は既に早逝している)と、ボンクラの盛隆を潰すために虎視眈眈と蘆名家を窺う周辺勢力に対して睨みを利かせるために天正9年(1581年)に上洛して織田信長に謁見、信長の上奏によって盛隆に三浦介(みうらのすけ)の称号を下賜されたものの、しょせん三浦介などは鎌倉時代の遺物であり、何の権力もない形骸化した肩書きに過ぎないことを知らない盛備ではなかったが、それでも真実を伝えると盛隆が不安になるだろうから、精一杯の笑顔で取り繕い、どうにか蘆名家の箔をつけることに成功したのであった。が、その苦労も空しく天正12年10月6日(1584年11月8日)にあっさり盛隆は病死、その嫡男であった亀王丸(かめおうまる)に家督を継がせるも当時たったの生後1ヶ月。おまけにその亀王丸さえ天正14年11月21日(1586年12月31日)に3歳というあまりの若さながら疱瘡で亡くなってしまい、蘆名家の家督継承問題が立ちあがったのである。

死亡フラグ[編集]

さて、嫡男が一人もいなくなってしまった蘆名家の家督を継承させるためにはどこかから婿養子(盛隆の娘)を貰ってくる必要があったが、その候補には2人の名前が挙げられていた。一人は、伊達政宗の弟・小次郎。もう一人は、佐竹義重の次男・義広。蘆名家中において、たちまち議論は沸騰した

  1. 小次郎を養子に迎えれば、実質的に蘆名家は北から伊達氏の影響下に置かれることになるだろう。 ⇒ あまり歓迎したくない。
  2. 義広を養子に迎えれば、実質的に蘆名家は南から佐竹氏の影響下に置かれることになるだろう。 ⇒ できればこちらも遠慮したい。

が、究極の選択を前にあーでもないこーでもないとしている烏合の衆を、盛備は「伊達は手強いが、佐竹なら何とか制することができる。単独で伊達に刃向かえば到底敵うまいが、伊達の後ろ盾を得ずに佐竹を倒すことは何とかできる」という鶴の一声で鎮めた。要するに与しやすさで盟友を選んだ訳だが、これが後々蘆名家滅亡の決め手となってしまったのである。友達はよく選んだ方がいい、という教訓である。

御家滅亡[編集]

そして伝説に……

かくして佐竹家から迎えた義広を新たな主君と仰いだ蘆名家の愉快な仲間たちであったが、義広は佐竹家から連れてきた大縄XXXXX・刎石XXXXX・平井XXXXX(不都合な真実を隠すため、名前が墨塗りされている)と言った新参者(蘆名家から見て)が好き放題に振る舞ったために蘆名家中は新臣派旧臣派とに分裂、それを伊達家が裏から煽り立てたふしもあって、盛備をはじめとした蘆名四天の面々はその調停のために文字通り東奔西走させられることとなったが、蘆名譜代の家臣たち(いわゆる旧臣派)からは日頃から周囲に疎まれがちであり、また、旧佐竹家臣団(いわゆる新臣派)からは「老害うぜぇ。さっさと死ねばいいのに」と聞く耳もたれなかったため、結局のところその苦労はことごとく報われないものとなってしまい、蘆名家はどんどん弱体化していくのであった。

「……計画通り。」
金上盛備 について、伊達政宗

ここまでくればもう遠慮はいらない、とばかりに蘆名と佐竹、両方まとめて滅ぼせるだけの力を蓄えた政宗は一気に蘆名攻略に乗り出し、ついに天正17年6月5日(1589年7月17日)、摺上原(すりあげはら)の戦いにおいて蘆名家は滅ぼされてしまい、やけくそで伊達の先鋒・片倉景綱隊へバンザイ突撃した盛備は戦死、これがいい時間稼ぎとなって主君・義広は常陸国へと逃げのびることができたのである。

蘆名家の黄金時代からその滅亡まで、まさにそのすべてを見届けた人生であった。

関連項目[編集]