酒井忠清

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酒井 忠清(さかい ただきよ、1624年 - 1681年)とは、江戸時代前期の大老で、「お犬様」こと徳川綱吉ネガティヴキャンペーンによって悪役に仕立て上げられてしまった気の毒な人である。下馬将軍という通称で有名。

酒井氏について[編集]

酒井氏徳川家康がまだ松平と名乗っていたころから仕えた譜代の家臣の氏族で、いくつかの家に分かれている。忠清は、酒井雅樂頭家の出身である。徳川四天王の1人として有名な酒井忠次は別系統の左衛門尉家であるため、あまり関係はない。酒井雅樂頭家は、忠清の祖父酒井忠世が江戸幕府の初期に老中として活躍したが、1634年に起こった江戸城失火の際、適切な対処を怠ったとして徳川家光の勘気を被って失脚した。もっとも、江戸城失火の際の不調法なんてのは口実で、忠世が失火の直前に中風(脳血管障害の後遺症)を起こして倒れたにも関わらずに老中職を辞めなかったのが一番の原因である。じじい、空気よめ。そのため、将軍の勘気をこうむった雅樂頭家は一気に幕府内で威勢を失っていたのだが、忠清の代になって捲土重来を期すことになる。

もっとも、賄賂と媚態で台頭しただの、祖父忠世の威光の恩恵に浴しただの、悪く言われているが、栄達した何よりの原因は本人の才知にある。

人物[編集]

酒井忠清に関する人物評はいくつかある。傲岸不遜で居丈高ないけ好かない人物だったと伝える史料もあるが、実際はとても礼節を重んじる人物で、挨拶の際は、例え相手が身分の低い町人でも、わざわざ馬から降りて挨拶したという。人々は忠清の謙虚さに感服し、ここから「下馬将軍」という通名が生まれた。もっとも、忠清を嫌う連中からは、忠清のこうした振る舞いも単なる慇懃無礼に映った。

家光の時代はそれほど目立たない存在だったが、弟が幼年の徳川家綱付きの家臣に任ぜられたことを端緒に、家光の死後、徐々に幕府内での地位を強固なものにしていく。20代で老中に抜擢されると、30代にして幕府の中枢を担う存在として名を馳せ、40代にして大老として政務や朝廷との折衝を担当する。これは、家康、秀忠時代の家臣団が続々と老齢にやられていく中、若くして権力の中枢にたどり着いていれば自ずとこうなることは明白である。どうやって中枢にたどり着いたかは聞くな

また、家綱の時代は、家康、秀忠、家光までの「武断主義」から「文治主義」への転換が推進され、幕府の秩序、体制が比較的安定した時期にあたり、「寛文、延宝の治」と呼ばれたりした。寛文、延宝の安定した治世は、一部の会津信者によっては全部保科正之の功績ということにされているが、忠清が寄与する処も大きい。

しかし、徳川幕府の磐石な政治体制の構築に貢献したにも拘わらず、忠清の評価は極めて悪い。これは、大人しく、主体性のない将軍徳川家綱を傀儡として操り、政治を掌握して恣意的な治世をやった独裁者というのが通説になっている。ここまで評判が悪いのは、家綱の次に将軍となった徳川綱吉が忠清を忌み嫌い、忠清の活躍、才覚を寝たんだ他の老中達と結託して徹底したネガティヴキャンペーンを流布したからである。家綱を傀儡として政務を壟断し、私服を肥やす悪徳政治家、という従来の忠清のイメージは、このネガティヴキャンペーンによって醸成された。

忠清が関連した有名な事件[編集]

忠清は、大老在任中に二つの御家騒動を裁定している。一つは小説家山本周五郎の代表作「樅ノ木は残った」で有名な仙台伊達藩で勃発した伊達騒動、もう一つは、越後松平藩で起こった越後騒動である。二つとも、本来ならば発覚した段階で改易は必至であったが、忠清が上手い事丸く円滑に処理したお陰で、騒動が拡大することなく、沈静化させることに成功した。

しかし、越後騒動の方に関しては、彼が大老職を退いた後、将軍となった綱吉が忠清憎さの一心で「越後騒動における忠清に措置は不当極まりない」と騒ぎ立て、再度吟味するという蒸し返しを行い、グダグダに紛糾させた挙句、忠清の裁定で軍配が上がった方の家老一派を丸ごと切腹させたばかりか、それに対する一派もまとめて処断。最終的に越後藩もまとめて取り潰すという、忠清憎さの為にここまでやっていいのかと思わないでもない処断を行っている。さすが犬公方、正気ではない。

後述するが、忠清は綱吉が将軍に就任するのを危惧したというが、越後騒動蒸し返しを含み、綱吉の将軍就任後の数々の奇行を鑑みると、危惧するのは当然と言える。

運良く生き残った伊達家については、騒動を惹起した悪役である原田甲斐伊達宗勝と忠清が結託して暗躍したと言われており、仙台では宗勝、原田と並び伊達騒動の三悪人として忌み嫌われている。御家騒動が激化すれば幕府が干渉するというのはこの時代慣行されており、幕府の最高幹部である忠清がその取次ぎを行うのは当たり前なのだが、どういうわけか忠清は私利私欲の為に介入し、不正な裁定を行ったと解釈されることが多い。

この伊達騒動は最後に原田が反対派の伊達宗重らと斬り殺し、自分も斬り殺されることで終結するという不可解な結末を迎えており、陰謀論者に言わせれば忠清と宗勝が画策して原田を教唆して宗重を殺害し、口封じの為原田も殺した、ということになっている。真相は藪の中

宮将軍擁立事件[編集]

そして、大老職にあった忠清が俄然、日本史の教科書において重要人物となるのは、以下のような案件に深く関わったためである。

実は、4代将軍家綱には、子がいなかった。そのため、将軍職を引き継いだ直後から、その子供がいつできるかが重要な幕府内の問題とされてきたが、いつまでたっても子供ができなかった。そのため、子供がいないまま将軍が頓死した場合を鑑みて、とりあえず後継者を先に考えておこうという話になる。そうなると、最も近親であるのが家光の他の子供達である。家綱のすぐ下の弟である松平綱重は、既に病没していたため、三男の綱吉が将軍になるのが順当ではあった。しかし忠清は、綱吉の就任に強く反対した。前述の通り、幼少より勘気の強すぎた・・・キチガイの片鱗をこの頃から見せていた綱吉を将軍に就任させることに、忠清が強い危惧の念を抱いていたためである。

忠清の綱吉に対する危惧はハンパでは、ない。 「(綱吉は)天下を治めさせ給うべき御器量なし。この君(綱吉)天下の主にならせ給わば、諸人困窮仕まつり、悪逆の御事積もり、天下騒動の事もあるべし」(綱吉は将軍の器なんかじゃ無いね。万一将軍に据えてみろ、万人が迷惑し、悪逆非道の政治を重ね、天下がひっくり返るにちげーねえ。俺は責任とれねーぞ、分かってんのか!) そのため、綱吉の将軍就任に強く反対した忠清は、皇族から将軍を迎え入れ、「宮将軍」として擁立させようとしていたという説がある。鎌倉時代源実朝が暗殺されて源氏の血筋が途絶えた為、北条氏九条家の子を摂家将軍として迎え入れて擁立し、また摂家将軍の後には後嵯峨天皇から皇子を宮将軍として迎え入れたという前例もあり、別に宮家から将軍を迎え入れること自体はおかしいことではない。が、鎌倉幕府の時と違い、徳川家には綱吉がいたが、おそらく忠清はキチガイの綱吉を将軍に就任させるよりは、宮将軍を擁立した方がまだ安全だと判断したのだろう。

そもそもこの宮将軍擁立説は実話かどうなのかよく分かっていない。徳川家の公式史料である徳川実紀にも記載されている話なのだが、綱吉が将軍就任後、忠清が宮将軍を擁立しようとしていたという話をでっち上げて流布させ、徳川実紀が成立した時代にはそれが「史実」として定着していた可能性も充分考えられる。綱吉はキチガイだが学問に励み意外とインテリなところがあったので、人々を信じ込ませる良く作りこまれた虚偽の話を作ることなど造作もなかっただろう。

しかし結局は、家綱はわずか40歳にして頓死。根回しもクソもないままに綱吉が将軍に就任することになると、言ってはならないことをほざいてしまった忠清も順調に失脚、大老を罷免されて居城に逼塞し、それから間もなく没することになるのだが、罷免後からわずか半年後の死であったため、世間は綱吉が忠清を放逐するのみでは飽き足らず、刺客を送って暗殺したと噂することになる。むしろ、思わないほうがおかしい

この風聞に綱吉は狼狽し、死因を精査するため酒井家を詮索した。ついでに言えば、もし自殺であれば法度に抵触することになるため、憎き忠清の家を改易に追い込めるかもしれなかったので、綱吉は躍起になった。しかし、忠清は既に埋葬されてしまっており、綱吉の追及は頓挫した。

宮将軍擁立に付随するトンデモ解釈[編集]

なお、この宮将軍擁立事件に関し、平田篤胤を始め、一部の国学者ナショナリストがとんでもない解釈をしている。

当時、日本は鎖国状態にあったが、幕府の上層部の連中は、交易していたオランダから海外の情勢を提供され、これを把握していた。なかんずく、忠清は幕僚の中でも諸外国の情勢に興味を抱き、列強諸国の植民地政策を一早く察知していた。忠清は、諸外国に対抗するには、幕府はあまりにも脆弱すぎると考えていた。将軍は所詮、武家の棟梁に過ぎない。列強と渡りあうためには、もっと求心力のあるトップが必要、それはを置いて他にないと考えていた。そこで、皇族から将軍を擁立し、時間を掛けて幕府を朝廷に吸収させてしまおうと画策した、というのだ。

もっとも、この時代のヨーロッパは後の大英帝国ですらまだインドに商館を建設した段階に過ぎず、太陽の沈まぬ帝国と呼ばれたスペインもまさにその終焉を迎えようとしており、それ以上に後の世界一の強国「」が勃興した時期にあたる。そのため、国学者たちの解釈に準拠すれば、この時代にあって、忠清は来るべき西洋列強との間の戦いに備えて尊皇攘夷思想に傾倒していた、ということになるのだが、どう考えても、だろ、おい。という話である。

しかしながら、この話は、幕末の一時期、さも実話であるかのように巷に流布していた。お陰で倒幕の風潮が高まった後も、酒井家のみは草莽の志士達から好意的な感情を向けられていた。奥羽越列藩同盟に所属し、官軍をコテンパンに叩きのめした庄内藩が、主犯であるにも拘わらず厳罰を処されなかったのは、そういった経緯により、官軍の中にも酒井家に対する好意が培われていた為だと言われている。もっとも庄内藩の酒井家は、忠清の酒井雅樂頭家ではなく、酒井左衛門尉家だったけれど。

関連項目[編集]

Wikipedia
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