酒井忠次

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酒井 忠次(さかい ただつぐ)は、奇抜で滑稽なダンスを嗜んだ「戦国舞将」。蜻蛉切の平八減らず口の小平太ウホッ井伊男直政と並ぶ徳川四天王の一人。通称「海老掬いの小五郎」もしくは「海老臭い小平次」。

家康股肱の臣の中では年長であり、今川家での人質時代から家康に近侍した。武将としての器量もさることながら、舞踊の技巧に卓越しており、海老掬い踊りと呼ばれる酔狂なダンスは彼の子孫に継承され、庄内藩の見世物となった。

略歴[編集]

徳川家康の家臣の多数を占める「三河武士」は、鳥居元忠本多重次平岩親吉など、剛胆にして謹厳実直、忠義に篤いが、一方で土臭く、柔軟性に欠けると評されることが多い。多くは武辺者で、教養や智謀には欠けるものが多いとも言われる。忠次はそういった三河武士の中では珍しく社交性に長け饒舌であり、また教養も並以上は備えていた為、年の近い石川数正と共に徳川家の外交官、参謀として活躍した。家康の祖父である松平清康の娘、碓井姫を妻としていたため、松平、徳川家中における発言力、影響力も強く、織田信長豊臣秀吉、ならびにその配下達との間に私的な人脈もあり、合戦に、外交に八面六臂の活躍をした。

海老掬い踊り[編集]

忠次による海老掬い踊り。

忠次は踊りがとても器用な武将として有名である。その踊りは海老掬い踊りと呼ばれる。

踊り方[編集]

身を屈め手を前方に掲げ、片膝を交互に浮かしながら秒速の速さで腰と両手を上げ下げするという、珍妙極まりない踊りである。忠次の顔が細長く赤みを帯びていて海老にそっくりだったことと、このダンスがまるで海老が後ろ向きに逃げるように見えることから「海老掬い踊り」と呼ばれた。

戦場に踊り狂う海老[編集]

忠次は自分の配下の将兵達にもこの踊りを叩きこんでいた。なんとも酔狂な踊りだが、定期的にこのダンスを踊ることで足腰の筋が鍛えられ、敏捷性、跳躍力が上昇するため、戦場において忠次の指揮する将兵達は通常の3倍どころか5倍の駿足で所狭しと駆け巡り、海老掬い踊りで鍛えられた足腰を使って脚にばねでも仕込んでいるのかと思わせるほど跳躍し相手を攪拌、翻弄し、逃げる時は文字通り脱兎の如く逃げ出して相手の追い討ちを躱し、戦場で縦横無尽の活躍をした。

威嚇としての効能[編集]

海老掬い踊りは将兵達を屈強にしたのみならず、敵に対する威嚇としても存分に機能した。1573年、家康は 三方ヶ原の戦い武田信玄に惨敗し、大便を漏らしながらほうほうのていで浜松城に帰還したが、この時忠次はあえて城門を開き、武田軍に城の内を晒した。そして自らは部下数十名を引き連れると城門の前に立ち、遠くから様子を伺う武田軍の前で海老掬い踊りを踊り始めた。武田軍は不自然な格好で珍妙な踊りを踊る忠次達を不気味がり、ついに追撃をかけずに去っていったという。

継承される海老掬い踊り[編集]

この海老掬い踊りは、忠次から息子の酒井家次に受け継がれ、やがて忠次の家系が藩主を務めた庄内藩の伝家の宝刀として、蜂須賀家阿波踊りと伯仲する舞踊となった。庄内藩士たるもの、剣術や学問よりも海老掬い踊りを習熟することが第一であるという、藩主に代々伝わる口伝があり、庄内に暮らすものは皆男女問わず赤子の頃より海老掬い踊りに研鑽した。

戊辰戦争で暴れ回る海老[編集]

幕末の戊辰戦争では、庄内藩は奥羽越列藩同盟の一翼を担い、他の藩が官軍に圧倒され降伏して行く中、最後まで官軍に抵抗した。海老掬い踊りで鍛え上げられた庄内藩士の動体視力は凄まじく、鬼玄蕃こと酒井玄蕃を筆頭に、跳躍力と駿足を生かして薩長の官軍をコテンパンに叩きのめし、西郷隆盛らを戦慄させた。その奮闘は新選組の斎藤一を以ってして「忠次の薫陶恐るべし」と言わしめたほどである。

木吉カズヤによるカズヤダンス。何?さっきの画像と全く同じじゃないかって?たとえそうだとしても、誰も気にしない

そして近代以降[編集]

明治維新以降、海老掬い踊りは庄内藩の解体と共に廃れていったが、酒井家、並びに庄内の魂を持つ者達の間で連綿と受け継がれ、21世紀に哲学者兼ダンサーである木吉カズヤがこれをアレンジしたダンスをニコニコ動画などを経由して全世界に公開したことで再び脚光を浴びた。しかし、庄内藩の奮闘から150年近く経過しており海老掬い踊りを知る者が希少になっており、忠次や庄内藩の輝かしい戦績を知らないゆとり世代からは木吉カズヤの海老掬い踊りは「カズヤダンス」と呼ばれている。

冷遇の真相[編集]

忠次の生涯で唯一にして最大の汚点とも言えるのが、家康の嫡男、徳川信康が切腹に追い込まれるに至った信康事件である。この信康事件に、忠次は悪い形で関与し、間接的に信康を殺したなどと吹聴している歴史学者もおり、なんと今ではその珍説が「定説」化してしまっている。

彼らが喧伝する通説では、信康とその母、即ち家康の正妻である築山殿武田勝頼と内通していることを根拠に、織田信長が二人の殺害を家康に命じ、結果築山殿は殺され、信康は切腹させられた。この時信長からの上意を受けた忠次は何も陳弁しなかったため、家康は築山殿と信康が死に至った責任は忠次にあるとして彼を恨み、この後冷遇したという。確かに、忠次は晩年、その華々しい功績に反してさほど顧みられる事は無かった。関東へ移封された際、忠次は既に息子の酒井家次に家督を譲って隠居していたが、家次には僅かに3万石しか与えられなかった。

しかし、この冷遇の原因を信康事件にあるとするのは牽強付会だろう。そもそも、この頃になると家康の家臣団も世代交代が進んでおり、井伊直政ら若い世代が台頭し、政務を担っていた。逆に、忠次のような老臣は殆ど一線を退いていた。合理主義者の家康としても、あとは枯れ行くのみの老木より、これから育つであろう若木の方に限られた水を注ぐのは当然である。息子の家次にしても、父ほどの功績を挙げているわけではなく、また忠次はただでさえ徳川家中における影響力が強く、信長や秀吉との間に私的なパイプを持っているのに、家次に多く領土を与えては益々酒井家の力を増大させるばかりで危険であると見越したゆえの措置だったと考えるのが妥当だろう。

なお、脚色だらけで有名な三河物語は、長年の功績にも拘わらず大して知行を得られなかったことに忠次は失望し、海老のように丸まって居城にひきこもってしまったと記述している。脚色だらけで有名な三河物語がソースなので、きっとこの話も脚色だろうが、面白い脚色なので半ば事実として公共に伝播している。

信康事件[編集]

信康事件に関しても、近年では信長は関係なく、家康が自発的に起こした粛清であると言われている。築山殿は今川家の出身であり、今川義元を討ち、今川落魄の原因を為した信長に対して良い感情は抱いて射なかった。築山殿との夫婦仲も険悪であり、家康としても、今川との繋がりが強い築山殿をこのまま放置して置くのは好ましくないと考えたかもしれない。実際に築山殿と信康は武田に内通していた、という説まであり、この信康事件については今尚判然としない所がある。忠次はこの事件のスケープゴートに仕立て上げられた、あるいは自ら望んでスケープゴートになった可能性がある。

有名な逸話について[編集]

晩年の忠次が、息子家次に3万石しか与えられなかったことで家康に不満をこぼしたところ「お前も我が子が可愛いか」[1]と、信康事件を引き合いに出して揶揄された、という話は有名である。この話自体は荒唐無稽な作り話だろうが[2]、この説ではこの逸話の出所について記述する。逸話の出所には二説ある。

1.忠次自らの作り話[編集]

確かに忠次は人並みに以上に出世欲、権威欲も強い人物であった。が、いつまでも自分が権力の座に固執していては、徳川家中における円滑な世代交代が滞ってしまう。その為、あえて忠次は家次に大領を与えぬよう家康に諫言し、また自らを貶める上の逸話を作って流布させたという説である。この説が正しいと仮定すれば美談だが、あまりに忠次を美化していると難色を示すものが多く、支持は得ていない。ただし山県庄内の人間はこの説が史実であると信じている。

似た様な逸話は榊原康政にも伝わっている。関ヶ原合戦後、功績に反して康政は群馬館林から加増されることはなく、幕府の中枢からも遠ざけられたが、これは康政は「老臣が覇権にいつまでもしがみ付くのは傾国の兆し」と辞退したからだという。この康政の逸話は比較的有名であり、康政の人物像に華を添えている。

2.「知恵伊豆」松平信綱の作り話[編集]

忠次の孫の忠勝の代になって、酒井家は関ヶ原の論功行賞で得た信濃松代から庄内へと転封された。石高の面では大幅な加増だが、外様大名ひしめく奥州の僻地に移されるという事実上の左遷であった。 この「左遷」を考えたのは「知恵伊豆」として名高い老中松平信綱であり、左遷の口実を作る為に上記の作り話を捏造したという説である。この説によると、信綱は一晩でこの逸話を作り上げ、将軍徳川家光に言上したところ、単純な家光は妄信し、転封を即決したという。忠次云々よりも、信綱の才知と、春日局の操り人形だと陰口を叩かれていた家光の間抜けっぷりが如実に現れた逸話である。

ドラマーとしての逸話[編集]

ドラマーとしては日本随一で、三方が原合戦時のドラムソロは壮絶で、一説に家康が脱糞した理由はそのソロのせいであり、後々の冷遇はその恥ずかしさからだという説も出ている。その見事なスティック裁きはX JAPANYOSHIKI、現KCBで元ORANGE RANGEのKATCHANらが尊敬しているということを著書で漏らしている。

演じた俳優[編集]

若かりし頃、まだ今川の人質時代だった家康が忠次とSUMOUをしながらパンツを脱がしあったり股間を鷲掴みにされたりする滑稽な作品。ちなみに家康役は鎌田吾作。時代劇ファンからは「意味不明」と不評を買い、史実厨からは「家康役の俳優の足が長すぎる、家康はもっと短足だ」と文句を付けられ、あまり評価の芳しい作品ではないが、時代劇をあまり見ないニコ厨などのライト層からは概ね好評であり、また一部の知識人からはとても哲学的であると礼賛されている。

注釈[編集]

  1. ^ 次男の結城秀康や、この時はまだ生まれていないが六男の松平忠輝を露骨に粗略に扱い、挙句の果ては大坂の陣落胤に命を狙われるような人の親失格の家康に「お前『』我が子が可愛いか」などと言われるのは、忠次にとってもさぞや心外だったろう。
  2. ^ 作り話であるにも拘らず、事実しか掲載しないと標榜しているウィキペディアの忠次の記事にはこの逸話がさも事実であるかのように記載されている。

関連リンク[編集]

Wikipedia
ユーモア欠落症患者のために、ウィキペディア専門家気取りたちが「酒井忠次」の項目を執筆しています。
カズヤダンスこと、生の海老掬い踊りを見れる貴重な映像作品。