足利義稙

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「俺は人生のすべてをこいつから学んだ。」
足利義稙 について、徳川慶喜
わし、義稙の怒りの顔じゃ。
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足利 義稙(あしかが よしたね、1466年 - 1523年)は、室町幕府10代将軍。京都を何度も追い出され、各地を放浪しながらも、将軍に返り咲く事を諦めなかった事から不屈将軍という異名がついており、その不屈の精神は15代将軍足利義昭も模範としたという。

生涯[編集]

ストレスが溜まると御所から突然脱走する悪癖を持っていたことに加え、政敵である細川政元足利義澄らが派遣した刺客に何度もを襲撃され、そのたびに追撃を逃れるべく夜逃げしていたことから「夜逃げ将軍」とも呼ばれている。長年の経験で培った夜逃げの腕は卓越しており、借金で首が回らなくなっている公家達向けに指南書を著述し、これが大ヒットしたことは、あまり知られていない。

後年になると権力者達の醜悪な闘争によって不毛の地と化した京都でまつりごとを行うことに疑問を感じ、「ここに幕府を建てよう」をスローガンに、有力大名の後ろ盾の元地方に新たな幕府を設立しようと試みたが、中央の泥沼の抗争に巻き込まれるのを嫌った有力大名からは次々と盥回しにされ、最後は阿波国で淋しくその生涯を終えた。

将軍就任まで[編集]

8代将軍足利義政の弟、足利義視の子として誕生。義視は後に9代将軍となる足利義尚やその母で、北条政子お江与(崇源院)と並んで日本史三大鬼嫁として畏怖されている日野富子と将軍職を巡って係争したという経歴を持つ。実は、『息子の義尚は義視と義稙に暗殺された』と勝手に思い込んでいた富子からは、八つ裂きにしても物足りないほどの殺意の対象であった義視だけでなく、その子である義稙まで含まれてた為、ずいぶん怖い思いをしている。

ところが義稙(この頃の名は義材)はこの富子の推挙を受けて将軍になったというのだから、何ともおかしな話である。なんでも、義尚が臨床で『次の将軍を義稙にしてくれ』と遺言したらしいのだが、末期の義尚は相当精神を病んでおり、まともな判断を降せたかどうか判らない。富子は気性の激しい女だが、頭の切れる賢婦でもあったため、個人的な感情よりも政治的判断を優先したとも考えられる。

だが1491年に親父の義視が死去し、後ろ盾が失われると伏在していた亀裂はすぐさま表面化した。富子や、政務を壟断していた“変態宰相”細川政元らが策動して義稙は御所を追い出されてしまった。

しかも、義稙を追い出すだけでは飽きたらず、完全に亡きものにしようと刺客を送り込んできた富子と政元。義稙は刺客に首を掻かれそうになりながら、命からがら越中国に遁走した。この時、彼の唯一の味方であった畠山政長が、義稙を逃がす時間を稼ぐ為に踏みとどまり、壮絶な最後を遂げた話は美談として語り継がれている。

このクーデターの首謀者である細川政元は、修験道に耽溺した末に怪しげな妖術を会得しており、指先から光線を発射して山一つ粉砕したり、念力で人の脳味噌を破裂させるなど異形の業を駆使しており、そのために義稙に味方した武将は容易く蹴散らされ、クーデターが容易に成就したと言われる。政元は調子に乗って「俺こそが涅槃の冥王だ」などとほざくようになったため、このクーデターを『冥王の政変』と呼ぶ。

越中における活動[編集]

越中まで逃れた義稙はそこの有力武将である神保長誠の保護を受けた。神保の庇護の下力を蓄えながら、始めは各地の反政元勢力に檄を飛ばして京都奪還を画策していたが、長誠の統治の下、越中が京都に匹敵するほど繁栄しており、土地も肥沃であることに感心するようになった。一方で京都は戦乱で荒廃し、細川はじめ権力者達は我欲の充足と保身に汲々としており、発展が見込めない。地方の隆盛を目の当たりにして、京都に見切りを付けた義稙は、一念発起して長誠に持ちかけた。「ここに幕府を立てよう」と。

周防への盥回し[編集]

だが長誠としては迷惑千番な話であった。確かに、京都を放逐された公方を擁立し、越中に新政権を樹立してそれを主導するのも悪い話ではないが、見通しもロクに立っていない上、義稙の諮問を受諾して越中に新幕府を樹立すれば、京都の細川政元らを明白に敵に回すことになり、長誠としてはそのような面倒な真似はしたくなかった。かくして長誠は、適当な口実をでっち上げて、義稙を周防の大内義興の元に盥回しにした。端的に言えば厄介払いであったが、息子の神保慶宗他何十人もの家来を随行させるなど、最後まで丁重に扱った。

かくして周防に赴いた義稙はまたも驚愕することになる。義興が貿易を推進していたこともあって、周防は越中以上に発展し、西の京都と呼ばれるほど殷賑していた。周防の目覚しい発展を見て、義稙は益々京都への郷愁を削がれた。そして義興に対し、かつて長誠に言ったように、「ここに幕府を立てよう」と提案した。義興は長誠と違い、直接的には拒否しなかった。解釈によっては承諾ともとれるような返答をし、義稙の地方に幕府を立てる構想にも賛同するような返事をしておきながら、その実勝手に将軍送還の名目で上洛する計画を立てていた。気がついた時には、義稙は神輿に乗せられ京への道を進んでいた。

京都奪還[編集]

しかし義稙は「せっかく義興に御膳立てしてもらったのだからこれを無下にするわけにはいかない」と、義興の上洛作戦には積極的に協力。そこへ、敵対する細川澄元から和睦を持ちかける遣いっパシリと対面したものの、そのパシリの細川高国が、『仲間に入れてくれたら、協力しまっせ』なんて、あっさり寝返り。ますます追い風が吹いて来た。

おかげで敵方は、都からトンズラ。しかも、澄元の生家であった阿波へ退散を上洛軍に阻まれ、近江への逃れるしかなかった。

ジリ貧に成っていく敵方が再入京を試みるも、断固阻止。自ら陣頭に立って采配を揮った船岡山の合戦にて、自分から将軍の玉座を奪ってノホホンと胡坐かいてた不倶戴天の敵足利義澄と、それを擁立する細川澄元をコテンパンに叩きのめす。圧倒的な勝利の勝因について、後に義稙は、各地を放浪する中で培った見聞と経験がものを言った、『籠の中で飼われているインコに、渡り鳥が劣るはずもない』と、自分と義澄をそれぞれ野生の渡り鳥とペットの鳥に喩えて語っている。

京都統治と、高国との確執[編集]

久々に帰ってきた京都では、かつて義稙を放逐した細川政元は、既に横死を遂げており、日野富子始め、旧来の権力者達も大半が鬼籍に入っていた。傀儡義澄と彼を操り政務を壟断していた連中も駆逐され、義稙の頭を抑えていた旧来の勢力も一掃されたのである。

普通の君主であれば、今まで自分を掣肘してきた連中にここぞとばかりに徹底して報復、弾圧を加えるところであるが、経験を積んで人間として人格を練磨された義稙はそのような暴挙を犯さなかった。澄元派からの寝返り者である、細川一族の細川高国をそのまま抜擢して政権の中枢に据え、彼と大内義興をそれぞれ左腕、右腕とし、一種の連立政権を組んだのである。義稙の視野の広さの賜物である。

ところが、これが逆に裏目に出た。何かとデカイ顔をしたがる高国とは方針を巡って反目し合い、内輪揉めに発展する。そこを義興に取り成してもらって収束しては、また反目を繰り返す毎日であった。やがて、描いていた青写真通りにことが進まないことにいらだった義稙は、やはり因循姑息な京都では円滑で公平なまつりごとは無理だと考え、地方の有力豪族を頼って夜逃げを何度も試み、洛中を騒がせた。そうこうしている内に、義興も義稙同様京都に絶望し、また留守中のお膝下を尼子経久が侵食して来たため、周防に帰ってしまった。

義興がいなくなった後、京都の政務は細川高国に壟断され、彼一人に権力が集中して、昔、義稙を追い出した細川政元とその取り巻きがが権力を掌握していた頃と同じような状況になった。そのような情勢を憂慮、絶望した義稙は益々夜逃げの頻度を増やし、京都は混乱を極めた。

しかも間の悪いことに“帝の即位式典”を間近にしての夜逃げである。即位から20年くらい経過して、ようやく開かれる式典にウキウキ待ち焦がれていた帝は“警護役無し”で式典中止の恐れもある事態にカンカン。そこへ『あんなアホ放っときましょう。私で良けりゃやらせてもらいまっせ』って、また高国が出しゃばる。おかげで式典は無事成功してしまって、帝は高国を気に入ってしまわれた。そんな高国が、ある事無い事を並べ立てて、『あいつの母ちゃんは出ベソ』なんて高札まで立てるもんだから、完全に義稙1人だけが悪者という風潮が出来上がってしまった…。

かくして義稙は市井の人々から、“夜逃げ将軍”と揶揄されるようになった。将軍の夜逃げに影響され、洛中では夜逃げが横行した。人々は「将軍様でさえ夜逃げするんだから、俺らが夜逃げしたっていいじゃないか」という口実の元、次から次へと夜逃げしたため、金融業者は貸した金が回収できなくなってしまい、京都の経済は払底となり、長らく不況が続いたという。

晩年[編集]

彼の晩年の殆どは、夜逃げの正当性を主張。自分の留守中に御所で贅沢三昧を続ける細川高国との戦いに費やされた。ついには夜逃げの果てに阿波まで逃亡し、そこに新たな幕府を打ちたてようとしたが、有力な後ろ盾を得られず不運の内に没した。本当は奥羽まで行ってそこに新幕府を樹立したかったらしいが、路銀が足りなかったので頓挫したらしい。

なお、死去の直前、あと30年くらいしたらこの阿波に俺の意思を継ぐ、因習にとらわれない斬新な考えを持った卓越した器量の武将が現れて全国を席巻するだろうと遺言を残した。生まれた場所は隣の国だったが、義稙の遺言は的中した。

人物[編集]

現在で言うところの総理大臣に比する人物でありながら住居を追い出されてあちこち放浪したので「ホームレス将軍」の別名もついている。

もっとも、住居さえ確保できず放浪生活を送ったおかげで見聞は深まったようで、塵塚物語には「俺自分自身がホームレスになって初めて貧民の苦しさが分かったわ」と、それまでの視野の狭さを恥じる義稙の姿が描かれている。

民衆の前で優等生ぶっているだけでは本物の為政者にはなれない。真の為政者になるには、自らがホームレスに転落する必要があるのだ。

もっとも、そういう立場になってしまうと、政治家に必要な「3バン」の内、少なくとも「地盤(拠点)」と「鞄(銭)」は完全に失われてしまうので、政治家には返り咲けないという矛盾を抱えてしまうことになるのだが。

キチガイ揃いの足利将軍の中ではかなりまともな人物であり、慈悲深く優しかったそうだが、それはつまり封建制の君主・政治家としては致命的ということでもある。北条泰時のように金と基盤に恵まれていれば名君として後世に伝えられた……かもしれない。

先代
足利義尚
室町幕府将軍
-
次代
足利義澄