足利義政

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足利 義政(あしかが よしまさ)は室町幕府第8代将軍。常に倦怠感を帯びており、朝起床して最初の台詞が八割方「鬱だ」だったりと、極端な消極的思考で知られる。また、鬼妻日野富子、魔女と呼ばれた乳母今参局らの恐怖を身近で震撼したせいもあって、極度の女性不信でもあった。その世を偲ぶ屈折した心情は一種の幽玄さに富んでおり、彼の時代に興隆した枯山水などの東山文化は、まさに義政の虚脱精神が具現化したものである。

為政者としては名前に「政」がついているにもかかわらず、オスカー・ワイルドを以ってしても擁護のしようがない頗る付きの無能だったが、芸術家、文化人としては洗練され、卓越した感覚の持ち主であった。中国の徽宗帝にせよ、この手の君主が度々輩出されるのが歴史の面白いところだが、人民にとってみればたまったものではない。

この人が政を放置したおかげで、結果的に才幹がありながら下賤の身分ゆえ燻っていた逸物達が上へのし上がり、下剋上を成し遂げる事が可能となった。そういう意味では戦国時代の生みの親の一人であり、北条早雲斎藤道三などにとっては、自分が栄達する切欠を、栄達できる土壌を形成してくれた恩人と言えるだろう。

人物[編集]

まだ幼い頃父義教が嘉吉の乱で「犬死に」し、兄義勝も頓死するという相次ぐ身内の不幸によって将軍に就任する。気弱で被害妄想の強い義政は自分も義教や義勝のように頓死、変死するのではないかという危機感を抱き、(本人曰く)「死神の玉座」である将軍の座からさっさと降りようとしたが、彼を傀儡に政務を壟断せんと目論む「三魔」こと有馬持家烏丸資任今参局や妻の日野富子、家庭教師であり貞の字を持ちながら貞操にとてもだらしなかったスケベ親父伊勢貞親らに将軍の座に留まることを強要された。義政は渋々政務を執行するものの、父義教のような統率力がなかったため、財布の紐は妻の日野富子牛耳られ、大名統制においても、例えば有力大名の斯波氏の跡目争いについて、義政は最初は、「斯波義敏を斯波氏当主に任命する」と命じたが、次に「義敏は隠居で、義敏の息子の松王丸を斯波氏当主に任命する」と命じ、さらに舌の根も乾かぬうちに「松王丸は出家せよ。やっぱり斯波氏当主は、遠縁の渋川氏出身の斯波義廉を斯波氏当主に任命するから」と命じてこれで決着したかと思いきや、今度は「やっぱり斯波義敏を斯波氏当主に戻す。松王丸は還俗してもよい」と元に戻してしまった。元に戻って決着したかと思いきや、あっさりと「斯波氏当主は改めて斯波義廉に任命することにする」と命じ、後述の応仁の乱が起きると今度は「斯波氏当主を斯波義敏にまたまた戻す」と命じたように朝令暮改を散々に繰り返して余計こじれさせた。同じく有力大名の畠山氏の跡目争いでも、まずは義政は畠山義就を支持して「畠山義就を畠山氏当主に任命する」と命じたが、ほどなく態度を一転させて、「畠山義就は、対立候補の畠山政長に、畠山氏当主を譲るように」と命じ、さらに諸大名らに「畠山義就を討伐せよ」を命じて、河内国嶽山城で戦いとなった。義就は2年近く奮戦するも敗北し、城は落とされて行方をくらました。が、義政は再び義就を許すこととし、「畠山義就を畠山氏当主に改めて任命する。畠山政長は住んでいる屋敷を義就へ明け渡すように」といきなり命じ、反発した政長と義就で、京都で戦いが勃発した。このような朝令暮改の義政に、管領を筆頭とする守護大名らが呆れて政務の実権を牛耳ることとなり、義政は自業自得とはいえ、将軍の責務に空虚を感じるようになった。また飢饉が起き、徳政一揆、土一揆など幕府の支配体制を動揺させる一揆が頻繁に勃発して、国に波紋が広がることには目を背け、庭造りや新たな屋敷づくりなど文化の道に没頭するばかりで、天皇からいさめられているほどであった。

 さて義政は正室の日野富子との間に子が生まれなかったため、出家していた弟義視を還俗させ後継にした。義視は富子を恐れて最初は辞退したのだが、義政が「心配いらない。実の子がわしに生まれても、すぐに出家させるから。おまえが次期将軍であることを撤回しない」と約束したが、嫡子義尚が恐妻富子から生まれるや、富子の剣幕に恐れをなして義尚を出家させることができず、富子は息子を将軍にしようと有力大名の山名宗全と結びついてしまう。さらに義政側近の伊勢貞親らが義視排除を勝手に企んで失脚する有様で(文正の政変)、もはや義政は天下を治めるどころか、自分の家すら満足に治められない有様であった。結局、将軍家と有力大名である斯波氏・畠山氏の跡継ぎ争い、細川氏・山名氏の権力闘争などが全部絡んで、主な諸大名が細川勝元派と山名宗全派に割れて、応仁の乱という大規模な内戦が勃発した。義政は両者に停戦を命じたが、もはや誰も聞く耳を持たなかった。

義政は山名派に将軍御所を囲まれれば山名派の主張を認めた命令を出し、細川派に将軍御所を占領されれば、細川派の主張を認めた命令を出すという朝令暮改をいかんなく発揮した。 応仁の乱は長期化して京都一帯は荒れ果てていたが、義政は将軍でありながら虚無感に陥っており、ただただ将軍御所で酒宴を開いて憂さ晴らしする日々であった。さらに前述の弟義視排除を企んだ伊勢貞親を幕府に復帰させたため、義視が兄義政への不信感を抱いて出奔してしまい、結局、実子の義尚に将軍職を譲った。そして富子と義尚を将軍御所に置いて、別邸へ移住し、将軍御所が炎上して富子と義尚が別邸へ移ると、逃げるように山荘へ引っ越しする体たらくで、妻への恐怖症は悪化していった。 そして義政は応仁の乱が終わると、地に落ちた幕府の権威再興などどこ吹く風で、自分の山荘作りを始めた。それが銀閣である。銀箔を張っていると自慢して、自ら「銀閣」と名づけていたが、後の潜入調査により銀箔など張っていなかったことが判明するなど、虚言癖で有名であった。ちなみに追及された義政は「銀閣の銀は燻し銀の銀だ」などと取り繕っている。晩年は妻の日野富子が経営する町金融の上がりでニート生活を送ったという。考えて行動しないため、騒動を引き起こしやすい体質だが、心中では常々安穏を望んでいた。嫁の尻に敷かれている全国のお父さん達からはその似通った境涯への同情、共感を伴う人気が高く、中年サラリーマン500人を対象とした尊敬する歴史上の人物のアンケートでは見事1位に輝いた。

先代
足利義勝
室町幕府将軍
-
次代
足利義尚


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