足利尊氏

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足利 尊氏(あしかが たかうじ、1305年 - 1358年6月7日)は、室町幕府初代将軍にして、この時代でも有数の精神病患者にして方向オンチ。通称「メンヘラ将軍」「豆腐メンタル将軍」「素顔不明将軍」。メンヘラでも征夷大将軍になれるという実績を作り、後世の精神病に悩まされるガラスの心を持つ人間達に大きな希望を与えた偉人である。

人物概略[編集]

源氏の血を引く名家のお坊ちゃまでありながら、足利家代々の当主がヘタレであったことが災いして下野の辺境で燻っていた。又、なぜか方向オンチになってしまった。しかし尊氏は時世を見るのに優れた眼力(別の言葉で言えば、変わり身が早い)とお人よしでとても懐の広い人物像を持っていたことが幸いし、多くの人々から慕われ最終的には幕府まで開いてしまった。一方で躁鬱病など様々な心の病をその身に抱えた重度の精神異常者でもあり、少しでも足下が危うくなると「出家する」「自害する」などと喚いて部下達を大いに迷惑がらせた。

帝は美しいもの、と常々語っており朝敵となって以降も後醍醐天皇には崇敬の念を抱いていたらしく、天皇が崩御した折には手向けとして天竜寺船の建造を命じている。一方で朝廷や既存の権力者達にやたら反抗的な気概を見せる高師直佐々木道誉、所謂バサラと呼ばれる連中をやたら重用するなどその生涯、人物像、姿勢には二律背反の要素が多く見られる。天才とキチガイは紙一重とかよく言われるが、まさに尊氏はキチガイの天才であったと言える。クソ真面目な弟足利直義はこの兄貴のあまりに起伏の激しい端倪すべからざる精神構造が理解できず最後は袂を分かっている。

最近になって馬に乗った肖像が実は彼の肖像画ではないことが判明し、元の肖像画は「足利尊氏像」から「騎馬武者像」に変更された。よって一部では彼のことを「落ち武者将軍」「騎馬武者将軍」と呼ぶ。尊氏は自身の肖像画を描かせようと絵師を呼んで書かせたこともあったが、途中、自分の肉体を射精写生されることへの恥じらいが高潮に達し、錯乱して絵師を盗撮者と勘違いして斬り殺してしまったため、結局彼の肖像画が描かれる事はなかった。

また、極度の興奮状態に陥ると逆立ちしながら股間に太刀を挟んだ状態で暴れまわる奇癖があり、新田義貞との最終決戦ではこの股間に挟んで振り回した太刀が義貞の眉間を深々と抉り致命傷を負わせた。義貞にとっては致命傷以前に生涯最大の恥辱であり、止めを刺される前に義貞は小太刀で喉を掻き斬り自決。尊氏は晩年、生涯の宿敵との決着が斯様に下品なものになってしまった事は大変無念であると語っている。

足利尊氏。敗退して帰ってきたようだ。

キチガイの家系に生まれる[編集]

今川了俊難太平記の中で暴露しているが、足利家の歴代当主は精神的にちょっと逝っちゃってる面があったらしく、足利義兼が突然いけぬまになって逼塞したり(実は謀反の疑いを掛けられて粛清されそうになっていたので気違いのふりして疑念を晴らそうとしただけだとも)、足利家時が突然発狂して逐電したりした。尊氏もその例外に漏れず、若年の頃は父足利貞氏の計らいで精神病院にぶち込まれていた時期もあった。

尊氏は幼名を又太郎と言った。既に貞氏には足利高義という嫡男がいた為、貞氏としては女子が生まれる事を渇望していたのだが、生まれてきたのは野郎であった。又太郎という名前には「また太郎か」という貞氏の落胆が発露されている。

尊氏は最初は「高氏」と名乗っていた。高氏の「高」は鎌倉幕府の執権北条高時から頂いた文字であり、上司や偉い人から名前の一字を貰う「偏諱」という慣習に従った命名であった。名前の一字を貰うことは、同時に、名前を与えた偉い人の恩寵に浴していることを示唆するものでもあった。ところが高氏は、その後恩恵をくれた高時を裏切って鎌倉幕府を攻撃するという薄情なことをやらかしている。

嫡男ではなかったため、適当に、杜撰に育てられてきた尊氏であったが、兄の高義は夭折してしまった。すると、親父の貞氏はとたんに尊氏を嫡男として重宝し、ちやほやして大事に扱い始める。親父の豹変を目の当たりにして高氏は人間不信に陥った。

少年・青年時代[編集]

人間不信に陥り、年齢的にも反抗期であった高氏は、家庭内暴力を振るうようになり、弟の足利直義に八つ当たりばかりしていた。後に尊氏と直義は決別するが、その淵源が少年時代の高氏の家庭内暴力に根ざしていたことは想像に難くない。暴力はエスカレートし、危惧した貞氏によって高氏は精神病院に入れられる。監禁された病棟で高氏は狂犬病持ちの猛犬に噛まれ、一時生死の境を彷徨う。奇跡的に生還したものの以降犬に対してのトラウマを植えつけられ、闘犬を趣味とする北条高時と折り合いが悪くなる、と言うより一方的な嫌悪感を抱くようになる。

そんな折、後醍醐天皇の姿をたまたま目にし、そのあまりの端正な容姿に心奪われ、天皇側への鞍替えを決意した、と本人は後に述懐している。最初は鎌倉幕府方として六波羅探題と共に東進してくる朝廷軍と干戈を交えたが、怖気づいたのか興が削がれたのか知らないが急に鞍替えして幕府軍を攻撃し、六波羅探題を壊滅させた。この高氏の裏切りで幕府軍は大打撃を被り、それから間もなく挙兵した新田義貞とか言う、一応源氏の流れを汲む名家らしいけど知名度的には足利家と霄壤の差がある(高氏の弁)ぽっと出の田舎侍の軍勢にあっさり滅ぼされた。尊氏は義貞に一番の手柄を横取りされたことを相当根に持っていたようで、後年、幕府を滅ぼした一番の功労者は俺だ、新田義貞は横から美味しい所を強奪しただけの卑しいハゲタカだと吹聴した。

天皇への反逆[編集]

幕府が滅亡すると尊氏は幕府攻略、朝廷政権の捲土重来の功労者として後醍醐天皇による親政の枢機に迎えられ後醍醐天皇の諱、「尊治」から一文字を拝領して「尊氏」と改名する。尊氏は「ありがたや、ありがたや」と後醍醐天皇の事を当初は慕っていたが、後醍醐が発足させた建武の新政では、尊氏は功労者の中ではただ一人、蚊帳の外に置かれていた。田舎侍の楠木正成名和長年、宿敵新田義貞ばかり羽振りを利かせ、自分は冷や飯を食わされていることに不満を募らせていた尊氏は、天皇が楠木や新田と結託して自分に陰湿ないじめ、嫌がらせをしていると思い込むようになった。又、中先代の乱では、東の敵を駆逐するのに、征夷大将軍の位を要求したが、冷静な後醍醐天皇は征東将軍の位をさずけた。それが不満で天皇へ反逆したとも言われてる。

ついには絶望と憤怒で心中満たされた尊氏は「死んじゃえバインダー!」と天皇を吉野の山奥までアンパンチでふっ飛ばした。天皇は「バインバイキーン!」と言って吉野まで飛ばされた後、新しくそこで南朝を興した。

実は反逆はしておらず寧ろ感謝していたが、尊氏自身がお人よし過ぎてこうなってしまったという話がある。

室町幕府を立てる[編集]

尊氏も後醍醐天皇に負けない美形天皇を奉ずるべくホストクラブを片っ端からあさっていい男を吟味し、最も目にかなった美青年を天皇に立て、北朝を興した。無論、血縁関係を結ぶために尻の穴にその巨根を挿入することを忘れなかった。しかし後醍醐天皇への思いは捨てきれなかったようで、後年自らに先立って逝った後醍醐天皇を偲んで天竜寺を造営、境内には慰霊を弔うために尊氏が自らの陰毛と垢を奉納し冥福を祈り、また来世でこそ穴兄弟として結ばれるよう願った。尊氏は自身が擁立した北朝の天皇から征夷大将軍に任命され、室町幕府を開いた。しかし、南朝vs北朝・室町幕府の戦いは、北朝・室町幕府が優勢ではあったものの、ずるずると長期化していった。

さて晩年の尊氏はかなり神経過敏になっており、仲の良かった弟足利直義とドラ焼の摘み食いが原因で大喧嘩、絶縁してしまうほどだった。直義とは執事の高師直を交えた三角関係だったとも言われる。無責任極まりない尊氏は、最初は直義の言葉に従って師直の執事職を解任したが、前述のどら焼き事件に怒った尊氏は、師直に挙兵をけしかけ、師直が自派の大名らとともに大軍で将軍御所を囲むと、今度は尊氏は直義に出家を命じて、師直を執事に復帰させた。しかし師直が増長して、権勢を奮うようになっていく。

やがて出家したはずの直義が、南朝に降って反師直派の大名らに担がれて、挙兵して京都を占領。ちょうど尊氏・師直は九州遠征の途上で、慌てて京都へ戻ろうとしたが、直義に敗れてしまった。尊氏は師直の助命を直義に求めて和睦交渉にあたったが、これは表向きで、水面下では極秘で、直義が師直を斬ることを認めて和睦交渉にあたるという二枚舌外交を展開した。直義は兄尊氏の二枚舌にわざと乗っかり、表向きは尊氏の主張に従い、師直への処罰は出家のみで助命するとして和睦に同意したが、直義派の大名・上杉能憲の軍が、師直一族をいきなりの不意打ちで討ち果たした。真相は和睦が結ばれて、尊氏が無事京都へ帰れることになった際に、師直に「おまえの坊主姿は見苦しいから、わしの行列にいるな。ずっと離れたところにいろ」と命じて、上杉をアシストしたのである。その後で、尊氏はみんなの前で上杉に「激怒」し、直義が詫びて、上杉を流罪にするという、脚本・足利尊氏による足利兄弟一座の舞台劇は、これで終わったかにみえた。

ところが今度は、尊氏と直義がガチで主導権をめぐって対立を開始する。直義は自分が兄尊氏に勝ったつもりで幕府の政治を主導しようと考えたが、尊氏は直義に負けたつもりはなかったのである。例えば、直義派の大名である細川顕氏が尊氏に挨拶に来るや、尊氏は刀を抜いておどかして、細川が恐怖でちびってしまうという事件まで起きている。尊氏は、ついに直義討伐を密かに決意し、まず自派の大名である近江の佐々木道誉と播磨の赤松則祐に、南朝に通じて謀反の挙兵をさせた。尊氏はすぐさま佐々木征伐と称して、みずから京都の東にある近江へ出陣、尊氏の跡取り息子である義詮は赤松征伐と称して、京都の西にある播磨へ出陣し、直義は京都に残る形となった。これは京都の東西から京都にいる自分を挟み撃ちにする尊氏の謀略だと気付いた直義は、ただちに京都を脱出。関東に下向し、鎌倉にいた尊氏の息子の足利基氏を追い出して、鎌倉を占領した。京都へ戻った尊氏は、直義が仮に南朝に降り、征夷大将軍にでもなって、武士のかつての都である鎌倉に第二の幕府でも開いてしまったら、全国の武士たちがどっちにつくか、勝敗がどうなるかわからなくなることを恐れた。そこで尊氏は南朝に交渉を申し入れた。その結果、①尊氏が南朝に降伏 ②京都にいる、かつて尊氏自身が擁立した北朝を廃止して南朝のみを唯一の朝廷とする③南朝は尊氏の将軍職を認め、直義追討令を発令する。といった主な条件で南朝と尊氏は「正平一統」と称する和睦を結んだ。

もちろん北朝はそんなことを尊氏に承諾したことはなく青天の霹靂であり、尊氏が弟直義を討つために独断でやったことである。しかし北朝がいる京都は尊氏軍の制圧下にあり、拒否することはできなかった。こうして南北朝どっちかの朝廷から、直義が征夷大将軍に任命されて、鎌倉に第二の幕府を開くような事態がなくなったことに安心した尊氏は、みずから関東へ下向。直義軍をさんざんに撃破して直義を生け捕りにして、毒を盛って死亡させた。古今東西、三角関係が円滑に緩和したことのないことを示す一例と言える。その直後、南朝は旧直義派と連携して、尊氏との和睦を破棄して戦いを挑んできた。一旦は京都と鎌倉を放棄した尊氏だが、すぐさま奪還して、北朝を再擁立したのであった。

その後は、尊氏の実子で直義の養子になっていた足利直冬が、旧直義派をまとめあげて、南朝軍とともに京都へ攻め上ってきて、尊氏はまたも京都を放棄。しかしすぐさま、体勢を立て直して、直冬を駆逐して京都を奪還するという親子喧嘩も展開された。直義、師直とのもつれたトライアングルや隠し子足利直冬との目まぐるしすぎる確執の為尊氏は疲労しきっており、観応の擾乱から病死するまでの数年は、妻の登子も慰みにならず、夜な夜な自室に篭ってはむせび泣くような喘ぎ声を上げて自慰に耽ることが多かったらしい。結局、直冬がまとめあげていた旧直義派の崩壊は、尊氏の存命中には実現せず、二代将軍足利義詮の代で一応の実現をみて、南北朝の合一は、尊氏の孫である三代将軍足利義満の代で実現したのであった。

何はともあれ、北朝の天皇によって征夷大将軍になった尊氏は晴れて京都に幕府を開いたのであった。ガハハ。

しかしこの時点では室町幕府とは呼ばれない。なぜならタコ坊主の義満が生まれてないからだ!ガハハ!

後年の伝説[編集]

確かにヤンデレではあるのだが...マゾと言われる可能性についても一言述べなくてはなるまい。

友人から馬鹿というレッテルを貼られているうら若き乙女、まあ、『馬鹿』というのだから、物のたとえとしては美人=馬鹿というのだからそれなりの美少女であろう娘に弁当箱に入れられても愚痴一つも述べなかったという話は意外と知られていない。

先代
-
室町幕府将軍
-
次代
足利義詮


あずにゃん もう、タイピング間違えても、ホラばっかり吹いてても、叱らないから… 削除…しないでよ…… (Portal:スタブ)