足利家時
出典: へっぽこ実験ウィキ『八百科事典(アンサイクロペディア)』
足利 家時(あしかが いえとき)(1260年 - 1284年8月7日?)とは鎌倉時代の御家人。足利尊氏の祖父に当たる。先祖の源義家が口からでまかせで言った舌先三寸の予言に振り回されて苦悩し、挙句の果てに発狂してしまった日本史上有数の(´・ω・) カワイソスな人である。
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[編集] 足利家当主時代
足利氏は鎌倉幕府の御家人であり、頼朝死後の北条氏による梶原氏、和田氏などへの排斥、粛清行為を免れ、執権北条氏に仕えていたが、歴代当主や家臣も心の内では皆、平氏の血統である執権北条氏に対して反感を抱いており、河内源氏の流れを汲む足利氏こそ、源頼朝公の跡を継いで幕府の舵取りをするに相応しい由緒正しい家柄であると言う矜持を抱いており、北条氏に対して面従腹背の態度を取りつつも、表立った行動を起こすことなく命脈を保ってきた。家時は足利頼氏の嫡男として生まれるも、家時の幼い頃に父頼氏は蒸発して消息不明となる。足利家には先祖源義家が書き残した大変ありがたい置文があったのだが、その内容たるや「俺様は今から七代後に再び生まれ変わって天下を取るんだ、凄いだろ、どうだまいったか覚えてろ朝廷のジジイ共」と、喧嘩で負けた子供の負け惜しみ程度のものであった。義家が後三年の役を平定した最大の功労者であるにも拘らず、たいした所領を貰えずに朝廷から冷遇された対する鬱憤晴らしのために書きなぐったと思われる。
しかし足利家当主や足利家臣達の中にはこの落書きを義家が足利のために残した福音書であると盲信するものも多く、5代目の足利泰氏などは「もう我慢できない」と九条頼経、頼嗣親子らと結託し水面下で幕府転覆企てたが、露見して計画は瓦解、泰氏は追求から逃れるために出家して隠居してしまう。結果、頼氏、家時が拗れた幕府との関係修繕の尻拭いをさせられる事となる。
そして家時こそが、義家の置文に記された7代目であった。祖父足利泰氏、父足利頼氏など、足利家の歴代当主は、北条家の執権の下の一字の偏諱を受け、その後に足利家の通字である「氏」を足して名前を構成していた。しかし家時の場合、北条家の通字である「時」の一字を偏諱に受け、しかもそれを「家」の字の下に敷いている。家とはやはり源義家から取ったものと推測される。つまり、義家の遺訓を今こそ果たし、北条を屈服させて足利が天下を治めるという足利家の意思表示であった。足利家はハナっから公然と北条家に喧嘩を売りつけていたのである。家時にとっては良い迷惑であった。
家時が成長するにつれて家臣らの期待も集中し、家臣の高師氏らは泰氏が果たせなかった悲願を家時が成し遂げることを嘱望する。家臣達は家時に厳格な教育を施すと共に、家時を大事に扱わなければならないと、家時に対して害を及ぼしそうな可能性のあるものを一斉排除した。例えば、家時がある日屋敷の縁側でネコと戯れていた時、高師氏は即座にそのネコを太刀で斬り捨てた。そのネコが北条の間者ないし刺客で、あわよくば家時を害しようとしていると思い込んだためである。家時は常に付き纏うこれらの束縛に煩悶し、10代の頃からストレスによる嘔吐、頭痛に悩まされ、やがて厭世観に取り付かれるようになる。
北条氏との関係修復に腐心してきた家時にとっては、祖父泰氏が謀反に失敗した前例もあって、北条得宗家に牙を向くことは無謀以外の何物にも映らなかった。その上、自らに北条を下し天下に号令するほどの器量、人望があるとも思えず、師氏達の言ってる事は現実を直視しない気違いの戯言にしか聞こえず、足利の天下を強く嘱望する師氏達とは一線を画し、安達泰盛らと交流を結んでいた。このため家臣たちとの間に齟齬を生ずることとなり、八幡太郎の言葉に背くのかと家時の逡巡を非難した。しかし家臣達が家時の天下取りを強く望んだのにも理由が有る。この頃、蒙古を撃退した名君北条時宗が亡くなり、安達泰盛と平頼綱の対立が深刻なものになって幕府に暗雲が立ち込めたため、このままではこの国は一体どうなってしまうのか!?という危機感を家臣達皆々が抱いていたのである。
しかし、家時は先祖義家の期待に応えられないことへの自責の念と羞恥心から精神を病むようになり、時々逆立ちして館内を徘徊したり、池の鯉を熊の如く鷲掴みにしてそのまま生で食する等の奇行が目立つようになった。
そしてついに足利家の檻から開放されたいと言う渇望が爆発したのか、家時はある日突然奇声を発し、「今から三代後、足利は必ず天下の覇者となる、武士に二言は無い」という、所謂「天下取り引き伸ばし宣言」をした後、壊れた蓄音機のような笑い声を上げながら全裸で北の方角へと疾走し、消息不明となる。ちなみに家時発狂の瞬間、たまたまその場に居合わせた光栄なる僧侶が発狂した家時の顔があまりに衝撃的なものであったため絵に描いて現代に残している。師氏達家臣は慌てて総出で家時を追跡したが、ついに見失ってしまった。家臣達は急遽家時の嫡男足利貞氏を当主に立て、表向きには「我が殿は鬱病のため飛び降り自殺しました」と幕府に申告し、事無きを得た。
[編集] 失踪後
師氏らの追跡を振り切った家時は、この世のものとは思えない形相で奇声を発したまま北へ北へと走っていった。その後の家時の動向を伝える史料が現存していないため不確かだが、義経生存伝説のように家時もモンゴルに渡っていたという異説があり、あくまで噂話だが、三度目の日本遠征を目論んでいたフビライ・ハンを暗殺したという伝承がある。この伝説は皇国史観下の日本でさぞや流行るだろうと思われたが流行る事はなかった。伝説が事実ならば嘘八百なことは誰の眼を見ても明らかだが、国粋主義にとって不倶戴天の敵である足利氏が日本を救ったことになってしまうことが理由だと思われる。
[編集] 梅松論
家時の天下取り引き延ばし宣言によって天下取りの義務を押し付けられた孫の尊氏は健気にもこの祖父の言い逃れに近い戯言を順守し、見事天下を取った。
近年の研究では、鎌倉幕府滅亡後、孫の足利尊氏の元へ身を寄せ余生を過ごしたと言われている。足利家宗主としての責務を放棄して逃げ出しながら、どの面下げて今更戻ってきたのかと、古くからの家臣は皆家時を白眼視したが、尊氏は快く家時を迎え入れたという。家時も慙愧に耐えなかったのか、何らかの形で尊氏に酬いたいと思うようになり、室町時代を代表する軍記物語として有名な太平記の南朝寄りの記述に対抗して「梅松論」を執筆し、足利家の正当性を訴えた。徒然草の作者吉田兼好とはNEET仲間であり、度々酒を飲みながらくだらない世間話を交わしたという。
没年は不詳だが、失踪後は樹海などで自給自足の生活を送っていたためか身体は相当丈夫であったらしく、かなりの長寿であったと推察される。梅松論が執筆された1350年から逆算して、少なくとも90歳以上であった。一説によると尊氏没後まで存命していたとも。

