足利基氏

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足利基氏 について、足利基氏

足利 基氏(あしかが もとうじ、1340年4月2日 - 1367年5月25日)は足利尊氏の三男。初代鎌倉公方

人物[編集]

愚兄義詮よりも聡明であり分別のある人格者であったが、それが災いして、やがて自らの地位を脅かすのではないかと被害妄想を抱いた愚兄足利義詮から白眼視され、幼い頃から何かにつけて暴行、罵倒されていた。兄に暴行されても泰然としているその逞しさに感心した尊氏から亀の様な頑丈さを持つ子と言う意味で亀若と言う幼名を貰う。長男による幼い次男への暴行を止めないばかりかその暴行から命名を閃くところに尊氏の異常性が顕在している。義詮にとっては基氏は嫉ましい存在であり、基氏は心の奥底で自分を見下していると言う錯覚に陥っていた。基氏が良かれと思って行った献身的な行動さえもこの愚兄にとっては怒気の種となったのである。普通これほどまで疎外にされ、父からも無視、放置に近い態度を取られれば、もう一人の兄足利直冬のように父や兄に対して叛意を抱いても全く不思議ではないが、篤実な基氏は終生兄を敬い誠心誠意尽くしたと言われる。後に成人した義詮は嫉妬心から基氏を粗略に扱ったことを心の底から悔い、基氏の目前で低頭して己の非を侘び落涙し、基氏のような弟にめぐり合えたことは我が生涯の幸であると賛美したと言う(もっとも、この時義詮は単に自らの泣きの演技に自己陶酔していただけとも言われるが)。

資質[編集]

基氏は万事如才なくこなすオールラウンダーであり、そのため父尊氏や兄義詮より外交、反乱分子の粛清、二軍メンバーの面倒、掃除、洗濯、ビデオの録画、父や新田義貞が散々荒らしまわって廃墟と成り果てた鎌倉や関東一帯の再興などを厄介払いの如く押し付けられた。普通なら実家に帰るなり家出するなりしている所だが、篤実な基氏は何一つ不満を述べることなくその全てを成し遂げた。本当に偉い。

基氏の悩み[編集]

そんな基氏が唯一悩みの種に思っていたこと、それは自らの存在感の希薄さである。しかし、存在感が希薄なのを気にしていたからといって、歴史の表舞台で脚光を浴び、父や兄に成り代わろうと考えていたわけではなく、新将軍足利尊氏の子息の一人として、それなりの存在感を見せつけておかねば父に対する不敬となると案じていたからである。この事を父尊氏に打ち明けた時、尊氏は号泣しながら「泣かせる話だのう」と他人事のように語ったと言う。だが、基氏の存在感の希薄さのおかげで当時の関東は悪党などが集まる事もなく平穏を保てたとも言われている。事実、彼の息子足利氏満や、曾孫の足利持氏は、その人間性にアクが強すぎたがゆえに関東に波乱を呼んだり、滅びの通道を歩んでいる。

死去[編集]

1367年、僅か27歳で死去。賢人薄命の生涯であった。死の床で、「我が余命を全て兄者に捧げる」と遺言を残したとされる。その義詮は基氏の訃報を聞くと、「せめてこの愚兄の恩返しを受けてから逝って欲しかった」とのたまったと言う。だが仮に基氏が長生きしても、義詮が恩返しをしたかどうかは疑わしい。義詮は同年基氏の後を追うように死去する。一部の史家達は、義詮が基氏の死後間もなく死去したのは、基氏の手引きなければ三途の川も渡れないからだと邪推している。

先代
-
鎌倉公方
-
次代
足利氏満


みなさん、松平です。 この項目「足利基氏」は、日本史に関連した企画書ですが放送日が迫っています。アンサイクロペディアではその時でないのに歴史が松平アナを動かす! (Portal:スタブ)