趙雲

出典: へっぽこ実験ウィキ『八百科事典(アンサイクロペディア)』

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「お前はわしと同じぐらいの歳の癖にいつまでも青年のイメージだな。」
~ 趙雲 について、劉玄徳
「臣、亮が申し上げます。北伐の時はすっかりお年を召されてましたね。」
~ 劉備の発言 について、諸葛亮

趙雲(ちょううん、?[1] - 229年)は、蜀漢を代表する武将。字は子竜(しりゅう・しりょう)[2]。常山郡真定県出身[3]。爵位は順平侯。桂陽郡太守の趙範[4]は同族という。

本人は「え~~~と…そうそうあれだ、一番強いんだった。え~~~と、ん~~~と、多分…一番?あれよ、あれ。…そうそう蜀の中でね。」と豪語しており、ほかの五虎将軍からは抗議の声が上がっている。物忘れが大変激しいが、華佗という医者が診断したところ「IQ156だから、頭が悪いというわけではない。」と語る。余談だが、華佗の身長は156cmだったといわれている。

コーエーの三国志シリーズでの顔グラの影響か、日本では永遠の青年武将のイメージが付きまとっている。

また、ドカベンのようなエラが広い四角のゴッツイ顔つきの影響もある。

[編集] 生い立ち

出身地は、馬小屋ともどこぞの村とも辺境とも言われている。言葉が「あああああああああ!」しか喋れなかったからどこの道場も受け入れて貰えなかった為、独学で武術を体得し、夏侯惇を山賊と勘違いして槍を強奪して自分のものにしたという逸話がある。

最初はエロティック大魔王に仕官。顔良文醜を舎弟にしていたが、1週間に一度は二人に対して「新米の私にお気遣いいただき痛み入ります。」話したという。君主に対しては顔を合わせるごとに「お初におめにかかる。ご高名はかねがね伺っております。趙子竜と申しますお見知りおきを」とあいさつしていたと言う。

後に公孫瓚に仕えるようになるが、難しい任務を遂行中に5回ほど君主に「えっと、今週は兵士に槍術の訓練をするんでよかったんですよね?」とたずねたため、公孫瓚が「キサマ、ワシを誰だと思っている!?」と叱り飛ばしたところ「先輩っすよね?」と言い返してクビになった。

やがて、劉玄徳と知り合う。そのときにいずれは劉備のもとに仕えると約束したがすっかり忘れており、劉備が30回説得の手紙をよこしてようやく劉備の元にやってきた。この時に「お初にお目にかかります。仕官先を求めている矢先に求人の広告が貼ってあったのでそれを見てやってまいりました。」とあいさつしたと言う。

この時に劉備に対して無礼だと激怒した武将が20人ほど斬りかかったが全員その場に倒れ伏してしまった。どうやら強いと言うことだけはアピールできたため劉備も他の武将も、とりあえずはたえしのぐことにした。

[編集] 戦功

一番の大舞台は長板の戦いとされている。そのほか蜀征伐にも大きく戦功を立てた。また、彼は部下を与えても部下の名前ごと忘れてしまうため戦場ではつねに単騎駆けだった。しかしそれでも趙雲は大きな怪我もせずに国の重臣となっていった。

[編集] まめちしき

  1. 生年は157年の説がある。最下にある後述を参照しなさい。
  2. 子龍と記す場合もある。
  3. 司馬遷の『史記』の補筆の「三家注」と呼ばれる六朝・劉宋(宋漢)の裴駰(はいいん)の『史記集解』・の司馬貞の『史記索隠』・同じく張守節の『史記正義』の3つの注釈によると、春秋戦国時代の趙の初代王の趙襄子(無恤)の末裔とされる。襄子は五人の息子がいたが、自分を可愛がってくれた亡き長兄の趙魯(伯魯)の孫・献侯の趙浣(代成君・趙周の子)を後継者とした。しかし襄子が亡くなると、長男の趙桓子(名は不詳)が亡父の遺命に背き、甥の献侯を幽閉し、四人の弟とともに権勢を好き放題に牛耳った。しかし、趙の有力国人(家臣)たちが「襄子の遺言に背く行為だ。いくらその長男でも許されない」義憤し緊急に献侯を救助し、謀反を起こし、桓子は四人の弟とともにこれを弾圧した。しかし、間もなく桓子は病没し、その子が継いだ。これを好機と見た有力国人たちは、総攻撃し、桓子の四人の弟たちは殺害され、桓子の息子たちは庶民に落とされたという。その没落した桓子の子の系統から趙雲と趙範、同じく真定県出身の南越の初代王の趙佗(武王)とその後裔で、後漢の桂陽郡太守の趙範(『後漢書』)らが出たという。ただし、趙雲の父と亡兄の名は不明である。
  4. 『蜀書』「先主伝」「趙雲伝」(『演義』も含めて)によると、趙雲の遠縁とある。『三国志集解補』の筆者の林国賛は「趙範は確かに趙雲の遠縁だ。彼が北方の常山郡真定県人で曹操配下として、桂陽太守に赴任する時には当然、一族を故郷に残しておるはずだ。その彼が同族とする趙雲が敵方の武将と名を轟かすと曹操は警戒し、 その一族を軟禁するはずだ。しかし、『後漢書』では後漢の桂陽郡太守の趙越なる人物が記されている。これが全くの別人物の彼の趙範と混同されているのだろう。実際には、この趙越こそ交州嶺南(広東)出身の南方の人だろう。さらに、趙範自身は曹操の顔色を伺うことが多く、劉備に敗れると降伏するも間もなく曹操のもとに帰還してしまった。おそらく曹操に妻子が軟禁されているからだろう。また、私自身は趙越こそ南越初代王の趙佗の末裔ではないかと推測する」と述べている。さらに『漢晋春秋』「趙雲外伝」とそれを参考とした『演義』には「趙雲は趙範の亡兄の未亡人樊氏の再婚話を持ちかけられるが、これが曹操と内通した趙範の謀略と見抜き、断固として断った。そのため趙範は腹心の陳応、鮑龍(鮑隆とも)とともに曹操の下に逃亡した」とある。また、趙範が兄嫁を趙雲に持ちかけた事項に関しては、『後漢書』「南蛮伝」によると「交州の嶺南(広東)地域に交阯国(現在のベトナム北部)の南西に定住したチャム系とみられる噉人(かんじん)の国があった。この国の風習では初めての子供が生まれると、直ちに屠殺し潰して食べてしまう。それは後に生まれる弟のためだと言われている。また、味の美味な人肉はその君主に献上し、君主は喜んでその父親に褒美を賜ったという。また、妻を娶った時に美人であればその兄に譲ることも多かった。現在の烏滸(チャム族)の人がこれに該当する」との記述と関連があるとされているが真偽の程は不祥である。ただ、趙範ではなく趙越自身が烏滸の血筋(混血)を持つかそうではないかは不祥だが、前述の趙佗の子孫ならば、その文化圏の影響を受けた南方出身の可能性は高いは思われる。また、趙越と同姓同名には、遠祖とされる趙佗の曾孫にも趙越と呼ばれる人物がいたことを述べておく。


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