赤星憲広

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この人によるベース盗難事件は、収束しました

赤星 憲広(あかほし のりひろ、1976年4月10日 - )は2009年限りで引退した、阪神タイガースに所属していた愛知県刈谷市出身の共産主義者・快足列車。独身。なぜか独身。

経歴[編集]

Wikipedia
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アマチュア時代[編集]

ちっちゃな頃から ちっちゃくて、必ずしも野球少年ではなかった。それでもウッカリ野球を続けちゃった為、彼の野球人生は幕を開けた。

高校時代は甲子園への出場を果たし、大学でも持ち前の快速を武器に活躍を示した。ただ、当時は内野手としての起用が多かったものの、度重なる「致命的エラーが発生しました」との表示に懲りた指導者から外野へ飛ばされたそうだ。

なお、大卒時のドラフトでは相手にしてもらえなかったんで、JR東日本へ入れてもらう。ここで駅員さんをしながら、野球を続けた。車掌の資格も取ったが、一度も乗務することなくプロ野球選手となった。

転機[編集]

2000年、プロ・アマ混成のオリンピック代表にされちゃった。大変である。

プロ側から合流したノリさんなどの打球と比べるのは酷とはいえ、打撃練習から打球を飛ばせない[1]のに、代表である。これで外人が投げる重たい直球が相手なら、結果が見えてしまうというものだった。やはり、首脳陣も適材適所を考えており、代走屋を主な働き所としていたようだった。

しかし、五輪ピックという思い出作りですら、赤星にとっては序曲でしかなかった。

ツンデレのジジイが、ず~っと観てきたからである。この秋、ジジイが監督を務める、あの黄色い野球チームにドラフト4位で連れて行かれるのであった[2]

プロ入り後[編集]

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躍進期[編集]

熱狂的な声援を送られる黄色いチームは、かつては2軍でさえたけし軍団に負けるだけのウケ狙いが出来る芸達者な集団であったが、さすがに飽きられてきた。そこで球団は、強いチームに生まれ変わりたくて、嫌々だったけどジジイを招聘。野球選手と芸人の「兵農分離」を推し進めようとしていた最中での、赤星の入団である。

そこでジジイは、目ぼしい選手7人を集めて「F1セブン」と命名。貧打・得点力不足および、守備力改善を快足選手の起用に賭けた。赤星は活躍を期待されてか、その1号車に指名された。(ただし、集めた7人の中に田中秀太を入れ忘れたジジイは翌日に補充、F1エイトと命名し直した。これには悪意が無く、痴呆症が進行していた為と思われる。)

往時の勇姿。メッチャ速かった

すると、ルーキーイヤーの2001年で39盗塁を記録。しかも、新人王までもらえるオマケ付き。「ひかり」から「のぞみ」に昇格したプロ野球人生が、ロケットスタートで幕開けしたのであった。ただし、恩人というべきジジイは、おうちの事情もあって、この年限りで退任した。

わしが育てたが新監督に就任した2002年は、骨折離脱をしながら再度、盗塁王を獲得した。鉄拳悪魔の事はキライぢゃないので、しっかり出来たのである。なお、この年のオフには鉄拳監督の恫喝が、選手だけに留まらず球団へも波及。監督にケツを蹴り上げられた球団によるマンセーの将軍さま顔負けの、拉致活動が展開された。その成果は翌年にハッキリと現れる。

2003年アニキの加入で飛躍的に得点力を高めたチームは18年ぶりの優勝を決め、赤星自身も自己新の61盗塁。さらにはサヨナラ決勝打を自ら放ってリーグ優勝を手繰り寄せるなど、華を添えた。なお日本シリーズは、ハッスル・ダイビング捕球を試みるも報われずにサヨナラ負けした初戦に象徴される様に、惜敗(薄氷勝ち と大敗のコラボレーションの意)で日本一を逸した。

どんでんを新監督に迎えた2004年は、前年を上回る64盗塁を記録した。

2005年肋骨3本の骨折を負いながら60盗塁を達成。チームも優勝を決めた。(ただし日本シリーズのチームは、禁則事項です。球団にとっても黒歴史のため、その点は お察し下さい

ところが2006年は故障もあって、盗塁数も35個に減少。盗塁王を奪われる。選手会長に就任したとは言え、この辺りから「のぞみ」のグリーン車から、ただの「ひかり」自由席的な野球人生にスケールダウンする。

ケガとの闘い[編集]

2007年は5月4日の甲子園におけるダイビングキャッチの代償で首を痛めた為、試合出場にも差し支えてしまう。盗塁も入団後最低の24個で終わった。この年のチームは、ロケットスタートどころか逆噴射のヨレヨレ戦績(ちょうど前述の5月4日は、9連敗中の6敗目というドンゾコ状態であった)で、お祭り集団でさえ諦めていた。ところが、超合金Zで造られたリモコン不要の鉄人による口車に乗せられて発奮に促され、チームは信じられない快進撃で突き進んだ。万全ではない赤星の奮闘も功を奏し、秋には一時的ながら首位を奪ったのである。しかし、無理が祟って首位陥落。プレーオフを戦いきるだけの電池も切れていた。

2008年、首の強化でケガの後遺症軽減に取り組んだ成果が見られ、41盗塁まで回復。ムッシュが樹立した球団記録350盗塁にも並んだ。ただし、拉致事業の第2弾で新井大選手を加えたチームはブッチギリ優勝を決めるどころか、トンビに油揚げを奪われるくらい、みっともない醜態を晒した。

終盤から電池切れしたチームは、プレーオフでも充電器を使わなかったんで、コメントを残さない秘密主義監督率いる味噌カツ野球チームに足元を掬われてしまった。敗戦後、恥ずかしくなって天の岩戸に籠もった どんでんを引きずり出して、胴上げをしてあげよう!と発案したのが選手会長の赤星であった[3]

2009年・踏んだり蹴ったり その1[編集]

2009年、開幕2戦目で簡単に351盗塁に成功、球団記録を更新している。5月の時点でFA権を取得しても「生涯タテジマ」と自分自身とお祭り集団を奮い立たせる宣言で、低迷していたチームの奮起に結び付けようとしていた。しかしシーズンを通せば首の持病『頚椎椎間板ヘルニア』が完治していない上に、そのヘルニアの副産物とも見られている「腰痛」を抱えた状態で臨んだ、踏んだり蹴ったりの1年だった。

6月末から7月にかけて珍しく3試合連続の併殺打を記録したのが、ケチの付き始め。6月30日には、結婚式とパチ屋の新装開店だけは無駄にド派手な集落での味噌ダレ海老ふりゃあずとの3連戦初戦で盗塁に成功したものの、飛び上がって避けたつもりのアライバの小っちゃい方の足が短かったんで、またがった形で首に乗られてしまったのが影響したそうな。その翌7月1日・翌々7月2日も出場したけど「首をひねるのも難しい」と言うくらい快方に向かわなかったんで、7月3日の神宮に居座る、ツバメの不人気球団戦から、とうとうスタメン落ち。その上2日後の、同月5日付けで1軍登録抹消された。ここから、出たり出なかったりのシーズンに変わってしまった。

毎年のように気遣われた首の状態悪化である。当然、オールスター期間を利用した療養も考えられたが、チーム事情によって、オールスター前の7月20日には1軍へ呼び戻された。しかも即スタメン起用である。

なお、この年は、どんでんからOBの性器の凡将(嘲笑)に監督交替した体制で臨んだシーズンだが、チームは前年終盤並みのヨレヨレ。どんでんも特定の選手に期待をかけといて、ズッコケる試合ぶりだったが、その新監督の采配もこれまた禁則事項です。打線もバクハツしないのに、お祭り集団の憤懣ばかりが、毎日のようにバクハツしていた。
そこへきて、万全ではない赤星を早々と戦列に戻すなんて、どうかしてるんじゃないの?という苦肉の策が空回り。ツバメと対戦した、赤星の復帰3連戦を2敗(1試合は雨天順延)で飾れなかったどころか、2敗目なんて11安打も放っといて完封負けで台無し。お祭り集団のバクハツを一段と大きくさせたまま、前半戦を終えたのである。

2009年・踏んだり蹴ったり その2[編集]

ところがオールスター明けから、チームは嘘のような4連勝を記録。その4戦で4盗塁と、微力ながら赤星も貢献した。ただ8月になった途端の1日は、当シーズンの壁となっていた「魔の土曜日」を打破できず、チームは呆気なく連勝を止めちゃった。

高校野球の為に遠征前の最後となる甲子園での試合であり、巨人との3連戦の最終日でもあった翌日8月2日は、下柳剛が初回からお約束の2失点。前回7月20日の登板でも、ポロポロと1点ずつの失点が積み重なった5回3失点での降板。チームも追い上げきれずに2-3で惜敗しただけあって、4連勝が止まった後の一戦という以上に、この日の出来次第では「下柳の起用問題」にも発展しかねなかった。

そこで1ウラ第1打席から、左前への反撃打で出塁。試合が壊れていない事をプレーで示した赤星。すると、次打者のも3遊間をコロコロ転がる安打で続く。しかも、この打球はレフトのラミちゃんにすら届かず、芝の上で止まってしまいそうな程だった。打球を見届けた赤星は難無く3塁を陥れ、反撃の機運を1・2番打者だけで盛り上げた。

しかも、この打球処理にラミちゃんのファンブル、というオマケまで付いた。すると3塁へのスライディングの勢いを殺す事無く、本塁への突進を敢行。高返球を捕ろうと上体を伸ばすウナギ犬短い両足の間に左脚を滑り込ませた。ただ、赤星の脚は届いておらず、捕球後にブロックに入って体勢を屈めたウナギ犬によって阻まれたか、に見えた。しかしスライディングの勢いは、結果的にウナギ犬の両足のバランスを奪う形となり、体勢の保持に精一杯でタッチされなかった事が幸いした。そこから懸命に左腕を伸ばして1点をむしり獲る好走塁を見せつけたのである。

だが、その代償は大きかった。

セーフ宣告後に、左脚を押さえて悶絶する赤星。坂本を経由した高返球からブロック体勢に入ろうとしたウナギ犬の膝に、赤星の左膝が外側から乗っかられたのである。心配したトレーナーやダメ監督たちが駆け寄ってきたけど、結局は担架で運ばれて退場した。翌日には「靭帯・腱・骨」のいずれも無事だったと診断されるも3日間の患部安静を義務付けられ、当シーズン2度目の1軍登録抹消となった。

なお、試合は赤星の退場直後、5番の粗いさんと6番のアラバマの大砲による連続適時打で、この初回だけでチームは逆転。しかも、得点にならなかったとは言え、続く桜井広大の遊撃失策打で、脚の悪いアラバマ砲が3塁への激走を見せて初回追加点の好機を拡げるなど、赤星の走塁はチームメイトの奮起を促した。

ちなみに下柳は?というと奮い立ったかもしれないが、欲をかいて続投した6表に掴まった。右方向へのフェンス直撃の連続2塁打を無死から浴びたところで降板[4]。おまけに内野前進守備の頭を辛うじて越えたショボイ適時打で、下柳の残した走者が生還した為、勝ち投手の権利を喪失。でもチームは7-4で勝利した為、ケガの赤星は報われた。

2009年・踏んだり蹴ったり その3[編集]

セントラル・リーグのペナントレースの順位も確定しかけ、どうでもいいように見えかけた、この頃。10ゲーム以上も上位にいたツバメが、ウッカリをやらかした。8月には1勝を挟んだだけの5連敗・4連敗。8月末に、もう1回の4連敗(実際には9月でも続いた6連敗)で連勝ゼロという、前半戦の阪神に輪をかける程のヨレヨレ戦績である。

対象的に、前半戦こそ戦犯扱いされたトリちゃん粗いさんの復調によって、前述に在るオールスター明け4連勝にも見られるように、チョッとずつでも連勝できるほどチーム状態は上向いた。それを裏付けるように、この8月になってようやく、「新監督体制下で、初の月間勝ち越し」という、久しく無かった追撃機運が到来した。ツバメの転落も加味されたおかげでクライマックスシリーズへの権利が見え始めてしまったのである。とは言え、まだ勝率が5割に満たないのだから辞めときゃ良いのに、周囲までマジになっちゃったもんだから、さあ大変。8月13日に1軍再登録された赤星も、仕方ないのでムチ打って働いた。

しかし、翌月9月12日。赤星に再び悲劇が訪れた。

この年のヨレヨレを象徴する福原忍をまたしても「魔の土曜日」に先発させる監督の無謀によって、勝ち残りたいチーム状況を一層苦しくした、この試合。楽勝を見込めそうな球界のお荷物が相手だと言うのに2死から3四球だけで満塁、0-0の均衡が今にも崩れそうな3表のピンチ。そこで、ハマの顎さんの放った右中間への低弾道のライナーに対し、危険を顧みぬダイビング捕球を試みるも、空しく破られ、走者一掃を許してしまった。

しかも、ダイビングの激痛が、またも赤星の首を襲う。おかげで、まったく立てないのである。背負われて退場した上に即入院、当然のように翌日には、この年3度目の1軍登録抹消されて、そのままシーズンを終えた。ただ、不甲斐ないのが、この日のチーム。赤星の奮闘に奮起するどころか、2-4の不完全燃焼で敗れた。

ただ赤星にとっての救いは、自身の離脱以降の試合でも、どんでん時代には同点で、勝利も覚束ない展開であっても使われ続けた挙句、終盤戦の勝負どころで疲労蓄積によるガス欠のために潰れたという惨劇を心ならずも見せた頃とは違って、当シーズンは使われたくても出番が無かった前半戦の展開が幸いしてエネルギー充分という火の玉ストレートを頻繁に登板させられるほど、勝ち星を増やす事が出来たチーム状態を辛うじて保持していた事だった。

しかし同時に、ヘッスラの友達といった代役の遣り繰りで乗り切ろうというチームの姿勢は、かえってバランスの悪い守備・打線の綻びを露呈する結果も見せていた。結局9月も、月間5割を僅かに上回る程度。そのためツバメを追い抜いても、振り切れずに追い抜かれるという「傍から見る人には面白くても、お祭り集団にはイライラばかりが募るデッドヒート」が何日も続いた。

おかげで10月までもつれた、ツバメとの勝率5割未満同士の低レベルな直接対決では、投手陣の粘投(もっとも安藤優也の働きまで含むかどうかは、議論が分かれるところ。[5])に報いる事の無いまま獲りこぼしたため、お約束のドッチラケでシーズンを終えたのであった。

青天霹靂の引退発表[編集]

期待させといて、またもガッカリさせたというお約束の『伝統』の戦いぶりで2009年シーズンを終えたチーム。
しかし11月になって、福岡の釣り名人の獲得を発表。FAでツバメ球団に拾われていったフジモンキーの事など全く気にも留めないまま来季におけるチームの巻き返しに、誰もが期待していた。

こうして平穏に年を暮れようとしていた12月9日信じられない報道が駆け巡った。

「赤星、突然の現役引退」
である。誰もが驚いた。
ツバメに敗れてチームの4位が確定した頃(9月12日の戦線離脱から約1ヶ月後)から、ようやくリハビリを開始できたというのだから確かに重症、下手したら引退するのでは…と、みんなが危惧していた。それでも来春のキャンプに間に合わせようと、前向きな姿勢を見せていた赤星。その後も、温泉療法を試みた成果だろうか、11月4日からユニフォーム姿での軽いキャッチボールを再開、同月6日にはダッシュを交えたリハビリから軽練習へ移行させるなど、予定を大幅に上回る回復力を見せて完全復帰への道程を力強く歩んでいたのである。

その間、引退の懸念など、これっぽっちも感じさせず、本人としても当然のように2010年シーズンを迎えるつもりだったのだろう。ところが、お医者さんの診断はあまりに現実的すぎました。

「今度、同じ事やったら死んじゃうよ」

どうせ、脅し文句なんだろう…程度に思えていた忠告でした。
2007年から知られていた「頚椎椎間板ヘルニア」とはチョッと違って今回は「中心性脊髄損傷」。こんなの聞いたところで、重いのか軽いのか今1つ判らない診断である。むしろが前球団時代にやらかした「フェンスへのダイビング・クラッシュ症候群」の方が、よっぽど危険だと思えた。

ただ、どこのお医者さんに掛かっても診断結果は覆らなかった。それでも意欲が萎えていない以上、球団を交えて現役続行のあらゆる手段を模索、「1年待ってもらえるのなら、治して見せたい」とまで訴えたようである。しかし一時は松葉杖に頼っていたと言うのに、このまま続けていては、

「車イスを寄付する側が、利用する人より重度の障害者になっちゃうよ」

と10月末の時点で球団から窘(たしな)められている。
毎オフ、ずっと続けていた「シーズン盗塁数と同数の、車イスの寄付」という慈善活動。それどころじゃない、もっと自分の心配をしなさい。という事だった。このオフに契約を結んでもらえなかったジェフ・ウィリアムスの肩痛とは比べ物にならないほどの深刻度である。事実、腕にシビレなどの症状が残っていた。

ようやく深刻に受け止めた。

しかし、持ち味としてきた、無茶とも思える100%の全力プレーまで抑制する必要があるのなら、選択肢は自ずと限られたのである…。

引退記者会見のあと、恒例行事となっていた「車イス贈呈式」を行った。1台1台への自筆のサイン書き入れが、現役最後の仕事となった。

9年で終えた現役生活。チームの看板選手でありながら、引退試合を催される予定も無いままチームを離れる事になった。しかも、症状が症状なので古木克明のように格闘家への転身も許されない、寂しい引退となった。

それでも、「打球を飛ばせなくても、走れれば生きていける」ということを教えてくれた名選手だった。お疲れ様でした。

決断の余波[編集]

チームメイトへは、前日の内に電話で知らせていた赤星。広島の在日さん(弟)広島の在日さん(兄)からは衝撃の引退を受け容れてもらえなかったが、決断は尊重された。

報道で知ったツンデレのジジイも「いい医者、紹介してやる」と、自身が編成した「F1セブン」の中でも最優良車の引退を惜しんでいる。

なお、チーム内の「F1セブンメンバー」が全て消滅という事態となった影響は阪神間各都市に及び、全ての企業の一時活動を停止させたと言われている。

それでも「引退試合」の開催を模索していた球団からの打診があったようだ。ちょうど年が明けた2010年には、OBの小林繁さんの急逝による北の果て球団との「追悼試合」を企画してたんで『だったら尚更、チビッコの引退試合もしなきゃ』というところだろう。

ところが、これに対し辞退を申し入れた赤星。そりゃ、あんな退場のままユニフォームを脱いだのだから、せめてもう一度だけでも袖を通して、お祭り集団の皆さんの前に出たかった。

しかし、『オープン戦とはいえ、開幕直前の大事な調整の場です。今年はV奪回を目指して選手もチームも一丸となり、必死に戦っています。』と、現役のみなさんを最優先に気遣う姿勢を貫いた決断であった。

一応、球団としても悪気は無かったのだろうし、かつては江夏や田淵たちをボロ雑巾のように捨てちゃった為にボロクソに叩かれた「負の歴史」を抱える以上、何も催さないのも これまた問題となる。ただ、単に興行としての一面が強くなっても如何なものか…。

まぁ言い換えるなら、「もっと現場への配慮を見せろ!!」と、地に足の着いてない球団を窘(たしな)めているのだろう。

ちなみに赤星引退以後、ポスト赤星を追い求めるフロントの方針により俊足巧打の選手をドラフトで大量指名している。しかし、赤星の球界屈指の盗塁走塁技術を持っていただけであり、足は早いが盗塁はできなかったり走塁脳が足りない選手が多数。その弊害で若手野手は長打力不足が顕著に。

人物[編集]

  • 満塁時の1塁走者であってもホームスチールに成功するほどの快足。
  • 実は快足のあまり、新幹線での移動の必要が無い。ただし、チームを大事にする為、移動の新幹線に同乗。車内では自ら率先して車掌を務めている。
  • 一番バッターである事に誇りを感じ、相手投手から球数を搾り出す「ファール打ち」に こだわりを見せる。2008年シーズンでは、その効果を余すところ無く発揮した。
  • 黄色いお祭り集団は、背番号入りアイテムを持参して球場に現れる事が多く、赤星の背番号53も数多く見られる。なお、53のレプリカ・ユニフォームは子供が着ているケースが多く、子供たちは赤星を同い年の友達と勘違いしている。
  • お祭り集団からは絶大な声援を送られる一方で、リアルうなぎ犬などの他チーム関係者からは泥棒行為を責められている。文句があるなら実力で阻止しなさい、と言わんばかりに泥棒は続けている。
  • 共産主義であるため、僧侶である森本稀哲的場直樹とは仲が悪い。
  • ヤニキ教の猛烈な信者。解説者に転向後は試合の解説中にマニキはこき下ろし、ヤニキは徹底的に賛美するあたり、辛いさんに負けず劣らずの崇めぶりである。このため、アンチや一部のクソ真面目なプロ野球ファンからはこのことを批判されている。

脚注[編集]

  1. ^ シドニーオリンピックの強化指定選手に選ばれ、2000年千葉ロッテマリーンズの春季キャンプに参加していたが、後年解説者になった初芝神によると、「打撃練習で打球がケージから出てこなかった。なんて非力な選手だ。これでもアマチュア代表かと思った。」というレベルであった。
  2. ^ ジジイは、その著書の中で、代表メンバー時の赤星と自分の手駒であった高波文一を競走させて、赤星が圧勝した際のエピソードを紹介するほど、強烈な印象を持ち続けていた。
  3. ^ 黄色いお祭り集団がひしめくスタンドから万来の拍手を浴びる形で、どんでんの勇退を飾ってあげる優しさを演出する。
    だが、お祭り集団を含めた みんなは、そこまでお人好しではない上に、この年の春から楽しんできた最大の娯楽を台無しにされた憤懣の捌け口を探していた。そこで、何も知らない赤星を利用して、どんでんが感極まった胴上げの最中に叩き落す「ドッキリ罰ゲーム」を画策しており、見事に実行して憂さを晴らしたのだった。
  4. ^ 前回登板から10日も空けてもらっといて70球程度でヨレヨレになる下柳が悪いのか、それとも初回から制球が高いと苦言を呈す久保コーチの指摘があっても、続投させる首脳陣が悪いのか、は議論の分かれるところ。
  5. ^ 分かれるも何も、終盤のツバメとの直接対決に3度先発で2敗した安藤。1度しか援護してやらない打線も良かないが、3戦全て先制されている投球内容。←これ、どうよ(怒)

外部リンク[編集]

関連項目[編集]

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