賞賛

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賞賛(しょうさん、化学式 HNO3)とは一時的な陶酔を伴うであると同時に、人々の精神に染み渡りすぎるである。主にストリキニーネと共に使用されるケースが多いことでも知られている。

概要[編集]

世の中には数々の毒や薬、もしくはそういった効用のある言霊が存在しており、知識の無いもの、経験を持たないものに対して様々な薬効や効用を与えることでも知られている。中でも、批判や批難、さらには一方的な精神攻撃などは受容者の強烈な嫌悪感や対象者の精神の変容、そして作風の変化などを伴うことでも知られており、場合によっては簡単に人やその人間の作風を死に至らしめるケースも多くある。しかし、それ以上に恐ろしいものが賞賛である。こちらは主に人の精神を高ぶらせる薬効で知られているものの、その副作用の多くが表現を死に至らしめるものであり、なおかつ、表現の場をも腐らせる場合すらある。そのため、この記事では賞賛の持つ毒の成分および対処法、何よりもへーへーほいほいと人の意見を気にするなというごく当たり前な話について記載するものである。

賞賛の持つ薬効[編集]

賞賛の持つもっとも恒久的な薬効。それは、批判や批難といった人間の精神を打ち据える言霊に対抗するために、たとえ一時的とはいえども賞賛に身を任せることでそういった圧力をスルー、粛々と自分のペースを維持するという、およそ人間の創作活動において必要不可欠な効能である。実際、世の中には、それもインターネットが発達した世の中には常時批難や批判があふれており、信者やアンチといったどうでもいいカテゴリの中でほぼ無意味なやり取りを延々と続けていく傾向にある。そんな中で、無体な批判や暴言、さらにはレッテル貼りといった攻撃によって受けた傷を癒すために、賞賛というものが多用される傾向にある。そしてそれは、ネットが発達する以前、おおよそ人類が芸術という分野で活動を始めてからずっと常にどこまでもいつまでもなんとなく使用され続けられるであろう、痛み止めとして使用されるケースである。

しかし、世の中は恐ろしいもので、そういった痛み止めとしての賞賛を使用しすぎることで、自分の作風や創作意欲、果ては自分の価値観を腐らせるケースもまた、芸術という分野が花開いた後の歴史における、おおよそ表現者達の末路における風物詩である。

表現というものの計算式[編集]

世間一般が誤解している話の一つに、表現というものについての正確な認識がある。それは、単純にいい表現だの悪い表現だのという評価が全てであり、いい表現であればあるほど、賞賛されればされるほど素晴らしいものであるという単純な発想である。しかし、世の中というものはそんなに単純ではない。実際のところ、どこぞのアンディ・ウォーホルが語ったようにどんな人間でも15分間であれば70億人が暮らす世界の有名人になれるという、2015年現在のYoutube文化を正確に予測した話もさることながら、わずか1億2千万人であったとしても、たかがオリンピックのロゴマーク、もしくは聴覚障害者ナントカ細胞という大法螺、もしくはASKAといった話で3ヶ月間にわたって国民のおもちゃになることで人々の記憶から消えない存在になるという話には、それほど大きな差異はない。

無論、それは表現という話においてのケースであり、どこぞのヒットラースターリンポル・ポトといったレベルで遺族の記憶から消えないなんて話とは別。人類の記憶にぬぐいがたい禍根を残すとかいう重い話ではなく、あくまでも表現における話では、忘れられなかったほうが正義となる。場合が多い。ただし、人間である以上はどうしても器と呼ばれるものが存在し、全人類の15分や1億人の3ヶ月、さらには5千万人の70年といった記憶の形成には、どうしたって賞賛だけではうかがい知れない世界が存在する。そもそも、何ゆえ世の中にイエロージャーナリズムが存在し、悪いニュースばかりを選択して流す報道がまかり通り、果てはほぼ全自動でほぼ全ての表現に対して難癖をつける信者が生まれるかというと、そのほとんどは自ら信じるものへの賞賛を得たいがためであり、他者をけなすこと、もしくはけなされる他者を見て、自らへの批難に対する不安をそらすためである。そして、わずかばかりの人々から好意を得るために、それ以上の人々から徹底的に嫌われる道を選ぶのもまた、よくある話である。ありすぎる話である。

そうすることで、世の中に忘れられない何かを残すという話になる、ばかりではなく、何としてでも忘れたい話もまた大量に残されることになる。けれど、人々の記憶は、Googleの画像検索以上に精密で深い部分まで覚えるものであり、それが賞賛であっても批判であっても、いつまでもどこまでも、その人々の死まで世界に残り続ける。

結局のところ、人生80年のうちの15分、3ヶ月、なんだったら70年であっても、その死まで忘れられない表現は存在する。それは、別に自分の人生であっても特に問題ではない。自分が売春婦であったことを逆手にとって5千万人もの人々が暮らす国から、10年というときを奪った表現だって存在する。

賞賛の持つ副作用[編集]

世間一般には、賞賛という言葉はその人を褒め称えて、そうすることで攻撃をされないという約束を半ば強制的に与えるという、実に怖い側面がある。逆に、批判にはそういったものとは逆、人格攻撃をする際にほぼその人の精神に対する殺人許可証を与えるような、そんな分かりやすいシステムが組まれている。と思い勝ちである。しかし、表現というものはどうしようもない火山のようなものであり、洪水のようなものであり、あふれ出ると形容されるのは伊達じゃないレベルでコントロール不能なものである。ただし、そこに賞賛を少し加えるだけで一部の溶岩流はコントロールされることになり、鉄砲水も周辺への被害を抑えられることになるわけだけれども、残念ながら、そういう表現は意識的にでも無意識にでも、コントロールされた表現となる。

で、世の中には、そういったコントロールされた表現というものをチェックするやつらがいる。大勢ではないけれど、いる。

そのため、賞賛というものの本質を正確に把握しないと、次の表現というものを正確に察知されることになる。西之島新島のように遠巻きに眺めながらドローンによる空中撮影と赤外線カメラによる観察で距離を正確に測られてしまう。この人の表現はここまでだ。そんな未来を正確に計測されて、何もできなくなっていく連中の多いこと多いこと。逆に、巨匠ほど裏切る。そして、裏切れないやつらほど、消えていく。

結局のところ、過去の自分を否定するレベルで、どこぞの御嶽山のように、40人ほど吹っ飛ばして泰然としているのもまた表現だったりする。もちろん、西之島でいきなり海底火山が大爆発して取材スタッフや近隣の漁船を巻き込んで、とかいう話も十分あるのが表現だけれども、それよりも、次に何が起こるか誰も分からないままにしておくほうが、実は持ちがいいことも確かである。人間の興味の。世界の巨匠と呼ばれる連中は、批判への耐性はもとより、賞賛への耐性を持っている場合がほとんどである。

なんにせよ、人間はいつかぶん殴られると思わせたほうが、注目を維持できる。それを回避するために、賞賛が有効に使われている中で。

中毒性[編集]

賞賛には様々な薬効が知られており、特に、多幸感が備わっていることが多くの悲劇を生み出している。そのため、人々から賞賛を得るために麻薬患者のように定期的に表現を続けることが、創作者を目指す連中の日常風景となっており、その結果、一度成功した表現に固執するというドツボの中に、毎年毎年幾人もの犠牲者のなきがらを投げ込むこともまた、日常風景、どころか時常、もしくは秒常風景となっている。そして、受けなかったら、賞賛を得られなかったら、そのドツボからむくりとおきだして、またぞろ賞賛を得るために試行錯誤し続けていく。

そういった半ばゾンビのように創作に生きる、もしくは創作で死ぬと決めている連中であるため、創作の質及び求めうる賞賛の質については、どこぞの麻薬患者なみに要求度が高くなることでも知られており、また、ひとたび質の良い作品を啓上して時流に乗ったらば、周辺を巻き込んで一気呵成に動き始めることでも知られている。それは一般的には上昇気流に例えられているものの、なぜだか、逃げられないよう鎖がついていたりもする。

もちろん、世の中の創作現場には、小さなライブ会場やラジオ、もしくはオーディションなどから一気にゴールデン、映画、司会といったコースや、小説家になろうライトノベルアニメ化といったルート。さらには甲子園プロ野球メジャーリーグといったルートにいたるまで、常に上昇気流、もしくはそれに模した何かが吹き荒れていることが知られている。本人はともかく、それを金に換えようとする連中は、その波に乗せたがる乗せたがる。無論、そういう人々をいけにえにして発展してきた業界である。一歩目でつまずいても、最高の栄誉を勝ち取っても、そこはそれ、その人及び時代の運である。そして、そういった成功を得た際に、純度の高い賞賛にまみれて生き残れるかどうかについても、本人以上に周囲の質である。その弊害として、とてつもなく純度の高い悪意もまたついて回るのだから。

あわせて、上に行けば行くほど、必然的に風当たりが強くなり、批判が風速80mで襲い掛かってくる。そのため、それに負けない賞賛を摂取して摂取して摂取することで、なんにもできなくなって、最後は吹き飛ばされてサヨウナラ。昼12時台のテレビでよーくあるパターンである。そこまで登る途中にキャンプを設置してきた連中、無駄でかつカネにならないライブ活動や路上での弾き語り、別ペンネームによる違う作風の作品の啓上やバンドメンバーの交代、もしくは解散といった別ルートを取れる体力と気力とそのための準備をしているやつらだけが、上のほうでも生きていける。そして、生きていける連中であっても、時代という雪崩に巻き込まれると即死するのが、ヒマラヤ山脈の恐ろしいところである。

逆に、生き残るために下のほうで下のほうでやっていくのも正しい判断である。そして、批判だって常時吹き付けるわけではなく、時代の天候を判断すれば、簡単に避けることが可能なわけだから。けれど、それができないまま、南極探検に出て行って死にそうになっている連中も多い。果たして、バカでも分かるブリザードの中で、2020年の東京オリンピックのエンブレムを決めた連中が生き残れるかどうか。なお、救助隊は南極に接岸すらできていない上、本人たちもなぜだか、一度たどりついた南極点から去ろうとしない。

そんな話もまた、創作という世界ではよくある光景である。

関連項目[編集]