豊臣秀頼

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豊臣 秀頼(とよとみ ひでより、1583年1615年)は、安土桃山時代最大のボンボンで、偉業と呼べるものは基本的に無いが、一応天下人の扱いに類され、とのあいの子という数奇な運命のために有名になった。幼名をオリバー君拾丸という。

生涯[編集]

誕生までの道程[編集]

父親である豊臣秀吉はジェネシス社の実験用で、アルツハイマー遺伝子治療薬を投与され急激に知能が発達、尾張国守護斯波氏を補佐する守護代の立場のその分家という全く以って由緒正しき高家に生まれた織田信長に仕えて、以降より羽シーザー秀吉と称した。しかし、なんやかんやあって天下人(猿の惑星の長)にまでなった生物である。

秀吉は人ではないため、せめて人として扱われるべく権威を欲した。そこで、自らの側室として信長の姪にして浅井長政の娘である淀君を迎えた。浅井氏は、宇多源氏の庶流である佐々木氏の、その分家である京極氏に仕える中堅家臣であったが、家の衰えていく京極氏を半ば取り込みながら大名にまでのし上がったという全く以って由緒正しき高家であるから、権威を得るのに何ら問題なかった。

秀吉はこの淀君に自らの子供を産ませ、自らも権威が得られるよう図った。しかし、同じ霊長類とはいえうまく交配できる訳はなく、奇跡的に生まれた一人目はすぐに夭折してしまう。ところが奇跡は又も起こり、こうして生まれたとされるのが秀頼なのであった。ちなみに幼名は、秀吉自身が直々に「拾丸」と名付けた。一人目に「捨丸」と名付けた(「捨て子は育つ」という言い伝えによる)ところ、慌てん坊な家臣が誤って”萌えるゴミの日”(毎週火曜日)に捨ててしまい、散々捜し倦ねて、ようやく見つけ出したときには憐れ夭折してしまっていた。そのため、ウッカリ家臣が勘違いしちゃわないようにと逆の名前を付けて判り易くしたのである。もちろん、拾い物という意味合いもこめられている。

まぁ一部で囁かれている、「ホントは大野治長との子だろ?」とかいう当時の公家やらの噂話や、「実は石田三成密通したんだろ?」とかいう与太話や、「名古屋山三郎とのロマンスの証しでしょ?」とかいう腐女子が喜びそうなネタや、「こっそり徳川家康仕込んだんだろ?」とかいうどっかのTV局が作ったチンケな2時間ドラマの薄い本は、この際す・べ・て忘れるとしよう[1]

親ザルの死[編集]

秀吉はオリバー君拾丸を次の天下人にすべく、後継者に名指ししていた甥の豊臣秀次に難癖をつけ、その妻や関係者を悉くSATSUGAI、被害者の血で深紅に染め上げたレッドカーペットで拾丸の後継者就任式を執り行った。以降、拾丸は秀頼と名を改める。

しかしそれより二年後、遺伝子治療薬の後遺症が深刻化していた秀吉は、脳髄をから垂らしながら家康に秀頼のことを頼むと、そのまま事切れるのだった。このとき秀頼、まだ数えで6歳であった。

だが、プロフェッサー・ギルの作り上げたタヌキロボットである家康が約束を履行する筈は無い。家康は秀吉の懐刀であったショッカー怪人キツネ男ばかし合いの末に討ち果たすと、自らの子孫を天下人とすべく、まずは自らが征夷大将軍の座につき、二年後にはもう息子の秀忠に将軍職を譲った。

これに淀君は歯噛みして悔しがったが、当の秀頼はまだお子様であったから判らないどころか、異常なまでの食欲に苛まれて全くそれどころでは無かった。

ひたすら成長[編集]

家康が征夷大将軍になって以降、江戸の徳川と大坂の豊臣という、「ホントの天下人、どっち?」状態が続いた。とはいえ、家康はまだ太鼓腹の内を見透かされたくないので、世間にバレバレであるにもかかわらず、自分の孫娘を秀頼に嫁がせたりして仲良くする風を繕った。

ただ、そうこうしているうちに、秀頼は異常なまでの食欲が抑えきれずに益々肥大化、身長6尺5寸(約197cm)・体重43貫(約161kg)というhydeの影も形もないくらい御立派な体格となってしまった。これは、大関貴ノ浪の現役時代の数値とほぼ一緒である。これは祖父である浅井長政の隔世遺伝であると思われるが、某コーエーやら某カプコンやらのゲーム内での長政の容姿を信じて疑わない腐歴女からは、この説はとことん闇に葬り去られている。また、戦国BASARAの秀吉は秀頼な可能性もある。ちなみに、彼女らによる被害者としては源義経(実は出っ歯で小男)や真田幸村大坂の陣のときにはが殆ど抜け落ち、白髪だらけ)や新選組沖田総司(実はヒラメ顔。[2])も挙げられる。

秀頼が19歳のとき、ついに家康と秀頼が対面する。しかし家康は対面した秀頼のあまりの大きさ(色んな意味で)に圧倒され、遂に豊臣家を滅亡させる決意を固めた。

豊臣の滅亡[編集]

秀頼が22歳のとき、淀君は方広寺へ秀頼がこれ以上食べ過ぎないよう、食事時間のタイムアップを知らせるための鐘を奉納した。ところが家康はこれを、自らの良心回路を狂わすための「悪魔鐘」であると難癖を付けた。これにより遂に両家は断絶、大坂冬の陣が勃発するのだった。

豊臣勢は巨人と化した秀頼を頭に牢人の巨人らにて防衛、立体起動装置を駆使して戦う徳川勢の攻撃を凌いでみせたが、実は母の淀君は良心回路を埋め込まれたビジンダーであったため、徳川勢の発した悪魔笛の音に悶絶、大阪城の堀を埋めることで和議を申し出た。

しかし家康が許す訳も無く、翌年の大坂夏の陣で再び大阪城は攻撃され、淀君と秀頼は燃え盛る大阪城にて自刃して果てた。その際、大阪城は秀頼の脂肪のために三日三晩燃え続けたという。

異説・薩摩へ逃亡[編集]

実は秀頼はちゃっかり大阪城を脱出して、その巨体を生き残る真田幸村におぶってもらって薩摩国へ逃亡を果たしたという話があったりする。

秀頼はそこでも旺盛な食欲を発揮、町の甘味処で店がつぶれかねないほど食べつくした挙句、金を払わずに立ち去ろうとした。「ボンボンだから金を払うという行為があるなんて知らなかったんだね、テヘ♡」・・・というオチであるが、さすがにンな訳あるかい! と突っ込みたくなるだろう? でも、ホントにある話なんDA 人間の想像力って偉大だね☆

秀頼の実父は石田三成大野治長…あるいは上記の真田幸村、徳川家康の落胤とする異説が江戸時代がらある。

脚注[編集]

  1. ^ ただし、通夜参籠による陰陽師とのアーン♥ ♥は必ずしも否定しないので、これは覚えてて良し。
  2. ^ 美少年とするのは、「昭和小瀬甫庵」、または「トロール人形大木凡人」の異名をとる司馬遼太郎による”司馬史観”と言う名の捏造

関連項目[編集]