諸葛均
出典: へっぽこ実験ウィキ『八百科事典(アンサイクロペディア)』
「臣、亮が申し上げます。えーと、まぁ、その…特にありません。」
~ 諸葛均 について、諸葛亮
~ 諸葛均 について、諸葛亮
「え、豪傑なの?…そうだったっけ…?」
~ 諸葛均 について、劉玄徳
~ 諸葛均 について、劉玄徳
諸葛均(しょかつ ひとし、生没年不詳)は中国後漢時代の豪傑。諸葛亮・諸葛瑾の弟にあたる。
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[編集] 略伝
[編集] 生い立ち
泰山の丞・諸葛珪の子として生まれた人物で、幼い頃に父母を失っている。その後親類を転々とし、中原各地を巡遊することとなる。
その過程で長兄のロバ諸葛瑾が就職先を早々と見つける一方、諸葛均は次兄諸葛亮とともに南陽郡の小さい拠点に独立勢力を興している。
[編集] 三顧の礼
207年、新野で劉表のもとに身を寄せていた劉備が諸葛亮らの拠点に攻め入ってくる。軍事力に乏しいため迎撃できないと考えた諸葛均は、諸葛亮とともに一計を案じて劉備軍を追い返すことに成功する(小玉の計)。
しかし、時期を待たずに劉備軍は再び侵攻を開始した。再度の到来を予期していた諸葛均は、軍備を迅速に整え自ら迎撃に赴いた。このとき、劉備はあの呂布に立ち向かって生還した関羽・張飛を従えるなど、万全の体制をもって挑みかかっている。これらの攻撃に対して、諸葛均は一人でその三将を追い返すという荒業を成し遂げ、劉備軍を撤退させることに成功している。
同年、劉備軍三度目の侵攻に対しても迎撃の姿勢を取った。「昼寝の計」で足止めを掛けたり、張飛の火計を未然に防ぐなど善戦したが、兵力差で劣る諸葛亮軍の敗色は濃くなり、諸葛亮の提案により劉備に投降した。
[編集] その後
劉備の傘下に兄とともに加わった諸葛均であったが、その後に関しては「長水校尉になった」以外の主だった記録が残っていない。無理が祟って戦場に立てなくなったとも、劉備がその才覚を恐れたために左遷したとも、また一説には諸葛瑾・諸葛亮らの印象が薄らいでしまうことを恐れた史家が恣意に記述を削ったという説も考えられているが、真相は定かではない。
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