親を襲う

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親を襲う(おやをおそう)とは、古今の記録から存在が確実視されている日本の伝統儀式。

概要[編集]

日本人は農耕民族であると言われる。しかし、農耕民族だからといって温厚な民族と捉えるのはあまりに一面的ではないだろうか。稲作が始まる前は日本人も狩猟生活を行っていて、ナウマンゾウのような大型の動物にも果敢に立ち向かっていったのである。このような社会で生き抜くためには、恐怖に立ち向かう度胸や、獲物を捕らえる知恵が必要とされる。そして、親は子にこういった度胸や知恵、勇気を身につけさせ、一人前の人間として社会に送り出していく。その教育の最後の段階で行われるのが、この「親を襲う」という儀式なのである。記録から、その後時代が下り狩猟が衰退した後も、なおこの儀式は存在し続けたことが分かっている。

この儀式がどのように行われていたのか、それは定かではない。各種の史書から存在が確実であるにも拘わらず、肝心の内容については、どれもこれもただ「襲う」と記すのみである。しかしそこには、決して記録されることのない親子の物語が存在している。子供はいつか、親を超えていかなければならない、そういう葛藤の物語である。

儀式の変遷[編集]

どのように襲っていたのかは分からないが、時代による形式の変化はある程度確認可能である。鎌倉時代の武士の場合、兄弟全員、場合によっては女性までもがこの儀式に参加していた。しかし、今と違って子供が一人や二人では済まない時代、兄弟全員から襲われるのはいくら親でも耐え難い、ということで室町時代には長男のみが襲うように変わっていった。ただ、親には誰が襲うのか決める権利があり、「こいつに襲われたらヤバそうだ」という子供は粗暴などと適当な理由をつけて排除されるのが常であった。また、当然ながらこの儀式を敬遠する親もおり、そういう人たちは死ぬまでこの儀式を行わせなかった。その場合襲われる時には既に息のない死体であったので、人によって形式的にのみ襲ったり、あるいは容赦なく襲ったりと様々であった。そういった、生前に襲われたくないという親の希望を無視し、無理やり襲い掛かったのがかの最上義光であり、彼がサディストと呼ばれるのもやむを得ないところである。[1]

またこの頃、家の概念が浸透し「家を襲う」とも呼ばれるようになり、親を襲う代わりに家屋敷を襲うということも行われ始めた。時に室町幕府では、足利義持父上の建設した北山第を徹底的に襲いまくり、「家を襲う」という行為のありかたを将軍自ら天下に示した。一方その義持は、死ぬまで誰が将軍家を襲うのか決めておらず、残された家臣は仕方がないので「将軍家を襲いたい人あつまれ〜!」とばかりに候補者を招集した。しかし、この集まりに呼ばれなかった足利持氏は、勝手に将軍家を襲う権利を剥奪されたとして不満を持ち、なら自力でやってやるということで、実際に将軍家に襲い掛かったが失敗している。

近代以降、親を襲うことは刑法上の犯罪とされたため、この言葉を聞くことは殆ど無くなってしまった。現代ではこの行為は非難の対象となっており、「親を襲う」子供がしばしばニュースを騒がせるほどである。しかし、歴史に照らせば、子供が親を襲うことは全く珍しいことではない。いやむしろ、子供は親を襲うものである。「家族の崩壊」が叫ばれる今こそ、こういう光景を「元気があっていい」と受け入れられるような、日本の伝統に回帰した社会づくりが求められているのではないだろうか。

親以外の場合[編集]

この儀式は親以外に対しても行われることがあった。例えば、織田信長は本能寺で明智光秀に襲われ、ポスト信長となった光秀も山崎で羽柴秀吉に襲われている。このように、親子のみならず権力の移り変わりにおいても、襲うという儀式は行われていた。

また、暴力が否定され、襲うということがあまりなくなった現代でも、伝統芸能の分野では今なおこの儀式が存在している。

世襲[編集]

親を襲うのはまだしも、世の中に襲いかかってしまってはただのテロリストである。ところがどっこい、永田町にはこのようなテロリストが多数潜伏しているとされ、民主党等が新テロ特措法に合わせて撲滅を目指していたが、自党内にも少からずテロリストを抱えていることが指摘されたため、頓挫してしまった。今後、自民党がどのようなテロ対策を行うのかは全く不透明である。

関連項目[編集]

  • 尊属殺人罪…襲ったらぴーしてしまったというだけで重罰を課すのは、日本の伝統文化に反するという主張により、廃止された。
  • 反抗期

脚注[編集]

  1. ^ ちなみに、現代の皇室はヘタレなので、生前に襲われることを想定していない。日本の天皇が軟弱者と叩かれる所以である。