西宮北口駅

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西宮北口駅 (にしのみやきたぐちえき)は、阪急王国系列の阪急電鉄に属する兵庫県西宮市の駅である。ここで王国首都の宝塚市大阪民国との接点である大阪市、国際貿易港である神戸市、更に2006年に併合した阪神電気鉄道(南部)方面へと向かう線が接することから、梅田駅十三駅と並んで王国の重要拠点と見なされている。

なお、阪神間における「幻の駅」こと西北(せいほく)は当駅の略称ではないかという噂も立っているが、当駅の略称は「北口」ないし「ニシキタ」なので、無関係だと思われる。

重要拠点となるまで[編集]

阪急電鉄の前身である箕面有馬電気軌道は、当初梅田から宝塚を経て西宮までの路線敷設を画策していたが、その際は本来、門戸厄神あたりから西にそれて、阪神本線香櫨園駅あたりを終点とする計画であった。

それが、大阪と神戸を一直線に結ぶ路線の敷設計画を立てた際に、宝塚から南下して西宮に達する線も現行のルートに計画変更となり、そしてここら辺がだいたい大阪と神戸の「中間」なので…という結構いい加減な理由で、当時は街外れの農村であったにも関わらず、当地に接続駅と車庫が置かれることになった。開設は1920年7月16日のことである。

なお、宝塚からの路線の敷設は結構遅れ、1921年9月2日に実現した。これで阪急が進出したばかりの神戸からも、王国首都の宝塚へ短時間で向かえるようになった。

その後、大正末年の1926年12月18日には阪神沿線への攻撃を仕掛けるべく、南側の今津へ路線を延ばした。これにより、阪急における中核駅としての地位を不動にした。

市代表駅としての地位確立経緯[編集]

当駅が置かれた場所は、前述したとおり大分適当な判断によるものなので、開設当時は西宮町の範囲にすら含まれていなかった。正に寒村の中の駅であり、本来「北西宮」か「瓦木」(当時の村名)とでも名乗るべきであったが、半ばペテン師的な阪急の戦略(当時の阪神急行電鉄という社名も、日本国の政策に逆らった上での命名であった)により、「西宮北口」という一見街の入り口に見えそうな名前がついたといえる。

さてそんな寒村の中にあった駅が、今や西宮市の中でも最大の駅に成長しているわけだが、それは阪急自身の周辺開発の成果のみならず、様々な要因が組み合わさっての事であった。主たる要因を示すと、以下のようになる。

国鉄西ノ宮駅の没落[編集]

西宮北口駅の南西方には、もとより国鉄東海道本線西ノ宮駅が存在していた。こちらは1874年の開設と、歴史的に見ても最も阪神間で古い駅のひとつであった。

西ノ宮駅も開設当初、農村の中に駅が置かれていた。阪急同様、阪神間を一直線に結ぶことしか考えていなかったためであるが、その阪急や阪神と違い、乗客を増やすための積極的施策というのを国鉄はとろうとしなかった。これが作用し、この一帯の乗客は阪神の西宮駅か当駅を利用するのが普通になっていってしまうのだが、それに輪をかける事態が起こった。1957年のことである。

このとき、阪神間をノンストップで結んでいた快速電車に関し、緩行各駅停車)との接続を図るため停車駅を一つ加えることになった。その際、西ノ宮と隣の芦屋の間にて激しい誘致合戦が行われたのである。街の規模を考えれば明らかに西ノ宮のほうが相応しいはずであったが、結局は何らかの力が働いて芦屋になってしまった。これは反対側の尼崎と共に、西宮の街における国鉄の競争力が決定的に失われたことを示す事になった。

JR発足後、2003年からようやく西ノ宮は快速の終日停車駅となったが、隣の尼崎と芦屋は新快速の終日停車駅となったことを考えれば、未だに阪神間の主要駅としての地位を回復できてはいないといえる。現在でも同市において最も利用者数の多いJRの駅は、隣の甲子園口駅である。

なお甲子園口駅は、同じく当時の瓦木村に設けられたが「甲子園」(距離にして約2kmあるのに…)を名乗った。一説によると、当駅の命名に関する阪急のペテン師術を真似たのでは無いかと噂されている。

アキレス腱になった平面交差[編集]

1926年の今津線延伸時、当時の鉄道の考えでは立体交差が常識である所、阪急は路面電車と同じ免許に基づいていることを根拠に、安易に工費が安く済む平面交差を採用した。しかしこれが、その後数十年間も阪急のアキレス腱と化してしまうことになった。

1930年4月、阪神との競争で優位に立つため、阪急神戸本線(大阪梅田-神戸上筒井間)で特急の運転が開始された。当時、この神戸本線の他にも新京阪鉄道(今の阪急京都本線)や阪和電気鉄道(今のJR阪和線)といった高規格路線(一直線に都市間を結ぶ路線)が開業していた。更には、おりしも飛行機でも自動車でも乗り物全般でとにかくスピードを出すことがブームになっていたため、都市間をノンストップでぶっ飛ばすことこそ電車の誇りである、とみなされて前述した各社で「ノンストップ超特急電車」が運行されるようになっていた。阪急もそのような流れに乗り遅れまいと、このような列車の運行を決したのである。しかし阪急線の特急はノンストップにならず、当駅に停車することになった。

その原因は、当駅が前述したような重要拠点だったからでもあるが、それ以上にこの平面交差のためであった。平面交差の部分は安全上、高速で電車が通過することが出来ず、通過したとしても相当のノロノロ運転を強いられる。そのため、そんな情けないスピードで通り過ぎるくらいなら、止めてしまおうということであった。

結果、戦前戦後を通じて当駅を通過する定期列車は生まれなかった。この最優等列車の停車という優位性は、周辺の駅のそれを凌ぐものとなり、結果として駅周辺の発展に貢献した。

なお平面交差が解消されたのは1984年の3月25日であるが、そのときには既に周辺が市街地化しており、新たに列車を通過させるメリットは失われていた。

ちなみに、1974年に阪神タイガースとの決戦で阪急が破れ、阪神の車両を用いた凱旋列車を神戸線に走らせなければならなくなったときは、当駅で今津線の電車を50~100両編成にして次々横断させることで列車の運行をストップさせ、後続電車とサンドイッチにする妨害作戦を演じている。

西宮の「北高南低」[編集]

西宮の歴史で述べたように、もともと西宮の市街は阪神電鉄の南側一帯に当たる所であったが、戦後の工業化で南部は工場地帯とスラム街化してしまうことになり、市の中核そのものが北側へ移行する事になった。また、住民の民度も「北部の方が高く、南部は極端に悪い」とみなされるようになってしまい、阪急沿線の人口が増加した。

そのため、当駅の位置も街の外れから中心へと自動的に移行したことになった。

なおこの「北高南低」現象は、当駅そのものについても当てはまる。駅の北側は甲風園や昭和園など阪急その他が開発した高級住宅街、それに証券会社銀行が立ち並ぶ金融街などとして、整然とした賑わいを見せるのに対し、南側は後述する西宮球場の閉鎖もあり、若干寂れた雰囲気がある。

1984年の今津線分断も、そういった雰囲気に拍車をかけた。また今津線を分断した理由は、西宮南部や尼崎などから難民が流れてくるのを、この駅でストップさせるためだという噂も立っている。

不届き者の列車群[編集]

神戸・今津北の連絡線にはホームはあるが柵で塞がれている

残念ながら、阪急の重要拠点駅であるこの駅を通過する定期列車が存在する。それは平日の朝、宝塚から今津線を通り梅田へと向かう6本の準急電車である。今津線から神戸線への渡り線は、両路線がほぼ直角に交差するため急カーブになっている。そのため客扱いすると、ホームと列車の隙間に落ちる乗客が多数発生すると予測されたからである。

また、仁川から梅田へ向かう臨時急行も時おり運行される。これは高級指向の阪急らしくない競馬帰りのおっちゃん達を運ぶ列車であり、当駅に異質な雰囲気を持ち込みたくないための策であるといわれている。

今でこそ通過するのは上り電車だけであるが、かつては下りも存在した。

今津線分断とそれに対する周辺の反応[編集]

1984年の今津線分断後、宝塚から今津へ出るには当駅で乗り換える必要ができたが、阪急電鉄幹部はそれを無視し続けている。かつて、利用客のためならばどんな無茶(スピード違反、運賃のダンピングなど)もしていた関西私鉄王国の心意気を忘れたらしい。

鉄道教徒達は分断に伴う平面交差消滅の件と合わせ、これに対し怒り続けているが、それ以外の人達(ただの一般人や、一部で神扱いされている人物対有機情報生命体用インターフェースコスプレ好きなロリ巨乳特殊能力の使える超能力者市北部の利権を有するお金持ち頭の禿げかかった小説家 etc.)が気にしているかについては・・・お察し下さい

西宮球場[編集]

西宮球場は1937年、前年発足された阪急球団の本拠地として、当駅の南側に開設された球場である。この球団設立自体、総帥の小林一三の指針で1935年の阪神電鉄による阪神タイガース設立に対抗するためのものであったが、当球場の開設は明らかに阪神に喧嘩を売っていることを示すことになった。何せ、甲子園から直線距離にして、およそ2km程度のところに設けられたからである。

しかし、結局は甲子園の勢いに及ぶことは出来ず、球団の人気低迷と共に球場も閑散とした状況が続いた。そして球団のオリックス売却とその後の競合を避けるための神戸移転、また前述したような市南部の衰退も手伝って、最終的には2002年に閉鎖されるに及んだ。これは、阪急が阪神に敗北した貴重な事例ともいえるが、考え方によっては阪急が阪神を併合するきっかけになったともいえる。

観光名所[編集]

当駅周辺は前述した経緯もあり、西宮市の中でも一番の繁華街となっているのだが、観光名所と呼べるようなものは前述した球場の閉鎖以来、目立ったものとしては存在しなくなっていた。にも拘わらず、昨今になって観光客がそれなりの数来ているらしい。

これは「にしきたinfo」なる「西宮No.1」を誇るサイトの影響も大きいらしいが、それ以上に待合地点としてTVで紹介されることが多かったからだといわれている。

市一番の繁華街であればそうなるのは必然のように思えるが、東京駅の「銀の鈴」みたいなものだといえば納得がいこう。

外部リンク[編集]


Gomen.jpg この「西宮北口駅」に停車中の電車は、現在運転手がいないため発車できません。運転して下さる乗務員を求めています。 (Portal:スタブ)