西園寺公望

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西園寺 公望(さいおんじ きんもち、嘉永2年10月23日(1849年12月7日) - 昭和15年(1940年11月24日)は日本公家政治家普通の変人である。

西園寺公望

政治との関わり[編集]

西園寺公望は普通の変人として政治と関わった。普通の変人とは以下のふたつの条件を満たすものである。

  • ちょっと変わった性格·思想の持ち主である。名字が変わってるけどそんなの関係ない。
  • しかし、歴史に名を残すほどの功績はあげない。第一次世界大戦の講和会議で各国首脳と同席してる程度ね。

西園寺は日本で初めて洋服で宮中に参内し、保守派の貴族の怒りを買ったという。西園寺は自伝『陶庵随筆』でこのエピソードを披露し、ワシがいかに変人でデモクラシー思想のもちぬしであるかあるかということを自慢している。しかし後世から見ればだからどうしたという話である。

一般に「本物の変人」すなわち政治的な大改革を行おうとした政治家は暗殺されたりしているが、この手の人材はえてして長生きする。西園寺の暗殺計画は数回立てられたが、どれも西園寺がフラフラしていたせいで失敗している。西園寺が長生きしすぎて最後の元老になったというのは有名な話である。

西園寺の政治生活はそもそも岩倉具視に可愛がられた所からスタートしたのであるから、ある時期までは本当にとんとん拍子だった。ヨーロッパヘンタイ仲間伊藤博文の知遇を得た西園寺は彼に総理大臣の座を約束されるが、ここで横槍が入った。伊藤のライバル山縣有朋桂太郎を擁立してしまったのである。桂に先を越された西園寺は内心怒り心頭だったが、そんなことはおくびにも出さず巧みに長州軍閥と駆け引きを行い、ついには日露戦争の軍事予算成立への協力と引き換えに首相に就任する。

この後桂と西園寺は交互に内閣を組織し、この8年間は桂園時代と称されるようになった。桂園という名称が和歌の流派である桂園派を連想させ、仲良く政治をしていたと錯覚させるが政治的方針は対立していた。彼らは常に水面下で高度な争いを繰り広げていたのであり、実質的には「桂園戦争」と言っても差し支えないような状況だった。西園寺は原敬に丸投げ気味であり、長州嫌いの原敬と政友会VS桂太郎戦争というのが正確か。一次政権では桂、西園寺両名共に山縣・伊藤の教えを守り実践していたが、第二次桂政権時には方針の違いにより協力関係破綻してしまう。軍部は欧米かぶれの西園寺を「世界主義者」として非難するなど険悪な雰囲気になっていた。実質的政友会のボスであった原敬の長州ネガキャンも実を結び二大巨塔は袂を分かつ結果となった。

政治では対立していた西園寺と桂だが個人ではひどく気があった。第二次桂内閣時代に二人の仲は最高潮に達する。妾を伴っての会食に始まり二人きりでの密談を繰り返す政敵同士らしからぬ付き合いをしていた。この交流を通じて桂太郎は西園寺の養子を自身の秘書官にしている。政敵同士の急接近を重く受け止めた原敬は西園寺に対して桂太郎接近禁止令を出すが原の目を盗んで会いに行く有様であった。西園寺の桂びいきを示すエピソードがある。ある時原が約束の時間に西園寺邸を訪ねると「桂が来てるから後にしてくれ」と言われ別所で待たされたことがあった。西園寺は先約であり同じ政友会の原よりも直前の電話一本でいきなりやって来た桂を優先したのである。原を待たせてまで行った緊急会談の内容はほとんど雑談だったという。原敬日記が西園寺と桂への恨み言で溢れるのも致し方ない事であった。原が同伴するなら桂太郎に会っても良いと禁止令の緩和を図ったが守られる事はなかった。

政友会と軍部の軋轢は日を追うごとに深まり山縣は軍部増強に否定的な西園寺と政友会を切って桂と首をすげ替えることを決意。西園寺はこれをたった一回の面談で了承した。この決定に政友会は激怒し桂下ろしに沸いたが、党首である西園寺は一人桂存続すべしと騒ぎ立てたため原らにより前代未聞の党首の隔離処理がなされる。西園寺を抑え込んだ政友会は尾崎行雄犬養毅などのソックパペットを操り第3次桂内閣をわずか62日で退陣に追い込んだ。失意の桂はそのわずか8ヵ月後に死去する。ショックを受けた西園寺は政友会の制止を振り切り中央政界から身を引いた。辞任の理由は持病の悪化とされていたが西園寺の持病はこの時すでに完治していた。西園寺が元気に長生きすることからも明白である。

西園寺の一連の異常行動の理由に彼がサムライオタクであったことがあげられる。西園寺はお公家ながらサムライに憧れサムライコスプレに身を包みサムライネームを名乗る変人であった。桂太郎は上士であり数多の戦を駆け抜けた正真正銘のサムライである。好きにならないわけがない。2016年女の子に生まれ変わり仲良くヤトーと戦う姿が目撃されている。

西園寺は教育との関わりも有名で、立命館大学を始め、明治大学京都大学日本女子大学、の創設に関わった。これは自分の大したこともない功績をさも偉大であるかのように末代まで語り継がせるためであり、他にも大隈重信早稲田大学を、山田顕義日本大学を、榎本武揚東京農業大学を創設している。大学を作って自分を褒め称えさせようというのはいかにもスケールの小さい日本の政治家らしいが、西園寺のそれはいくらなんでもやりすぎである。

また義理人情に厚く、共に藩閥打倒を掲げた同士・陸奥宗光の死に深く落胆したり、張作霖爆殺事件で無責任な対応を執った田中義一昭和天皇に叱責された時、田中を庇っている。政友会時代に説教された記憶しかない原敬に対しても金銭面での支援を行っている。しかし、後継者として期待していた近衛文麿に裏切られ、日独伊三国軍事同盟が成立した時には首相に推薦した事を後悔しながら、「いったいこの国をどこへもってゆくのや」と言い残して死亡。西園寺は生前自分が死んだら遺品や書簡は全て燃やすよう書き残しており遺言に従った遺族によって彼に関わる品々が焼却処分されてしまった。数点焼却を免れておりその中に桂太郎の書簡も含まれている。何十年も前に死んだ政敵のとりわけ重要でもない内容の手紙を大事に取っておいたのか不明である。

女好き[編集]

お公家なのに、というかお公家だからなのか女好きとして有名で、ついには朝日新聞に愛人3人の大喧嘩をすっぱ抜かれるほど。戊辰戦争時代行く先々で美公と持て囃された甘いマスクで女を骨抜きにしていた。ちなみに西園寺家は弁財天を信仰していることで有名で、その為に正妻を取ることができず、愛人を取っていた。やはり遺伝である。ただし公望本人は弁財天信仰の口実である筈の家業の琵琶がまともにできなかったらしいから女漁りのための言い訳だったのだろう。ただこうした女好きで気が合ったのか、伊藤から立憲政友会総裁と総理大臣の座を譲られた。まさに災い転じて福となすの典型例である。伊藤、西園寺と薩摩閥の松方正義は共にスケベで名を馳せ、彼らを総称して三大スケベ元老という。また幼少時は明治天皇の遊び相手であり、女好きをうつした。

こうした女好きにもかかわらず、西園寺の子供はが一人しかできなかった。彼の血は男系をたどっていくと皇室につながるため、近年の皇室における女しかできない現状との関連が指摘されている。西園寺家の存続のため毛利敬親養子の子供を自分の娘と結婚させて婿養子とした。だが主体性の無い敬親の子孫には愛人を何人も囲い込んでエロゲーそのままの生活を行う度胸は無く、西園寺家の好色の伝統はここに途絶えた。引退後は女遊びが控えめになったが、アイスクリーム大好き爺に進化し東京に使いを送って買わせに行くほどアイスクリームにのめり込んだ。 おめでとう!女好きおじはアイスクリーム爺に進化した!

昭和天皇との関わり[編集]

二・二六事件において叛乱将兵に昭和天皇は激しく激怒し、「朕自ら成敗してやる!」と近衛軍団を率いて鎮圧しようとした。それを「立憲君主にあるまじき行為」と激しく諌めたのが、西園寺公望であった。天皇はそれでも「憲法読めよ!陸海軍は朕が統帥する事になっとる!」と主張したが、西園寺は「空気読め!天皇は何もやっちゃいけないお飾りだって、行間に書いてあるわい!」と叱りつけた。結果、天皇は激しくしょげかえってしまい、天皇自らによる鎮圧は阻止された。

しかしこの時の西園寺の諫言は、後に日米開戦の際、昭和天皇が東条英機に逆らえない結果となったという批判も存在する。しかしその時の情勢を考えるに、天皇に決定権があったとしても昭和天皇は積極的に日米開戦に賛成したであろうという意見も根強い。つまり昭和天皇の戦争責任追及を回避し、東条英機に検閲により削除

使用宝貝、必殺技など[編集]

打神鞭、太極図

関連項目[編集]