蘆名四天

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蘆名四天(あしなしてん)とは、戦国大名である蘆名氏を支えたと自負していた老害集団であり、以下の4名によって編成された。

人物[編集]

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ユーモア欠落症患者のために、ウィキペディア専門家気取りたちが「金上盛備」の項目を執筆しています。
気苦労は絶えない。
金上盛備(かながみ もりはる)
大永7年(1527年)-天正17年6月5日(1589年7月17日)。
「蘆名の執権」を自称していた老骨で、何かと言えば「近頃の若い者は」とこぼすのが日課であり、ストレス解消である。日ごろから忙しがってあれこれと執務の細部にまで口出しをした為に若い家臣からは疎ましがられていたものの、主君・蘆名盛氏にとっては何かと使い勝手のよい便利屋であり、文字通り走狗として重宝された。そんな日頃の功績もあって遠江守(とおとうみのかみ)の官位を拝領するや更なる増長を見せ、今度は走狗が天狗にまで舞い上がってしまう。それまで字(あざな、私的関係において用いる名前)で「平六(へいろく)殿」と呼んでいた親しい仲間たちに対してまで「今後は平六などと気安く呼ばず、遠江守と呼ぶように」と威圧的な態度をとったためにますます周囲の反感を買うこととなったが、主君の恩寵をいいことに好き勝手する彼に逆らった者はことごとく謀反の疑いありとして粛清の憂き目を見る事となった。
が、そんな盛備が笑っていられたのは盛氏の代までであり、盛氏の死後はボンクラ養子・盛隆を支えるために四苦八苦したかと思えったらポックリ死んでしまって水の泡、さらにその嫡男たる亀王丸にいたってはわずか生後1ヶ月、これまた3歳でアッサリ死んでしまい、蘆名家に男がいなくなってしまった為、すったもんだの挙げ句に佐竹義重の次男・義広を養子に迎えたが、これがとんでもない暴君で、譜代の家臣たちはことごとく離反、その混乱に乗じた伊達政宗に攻め込まれ、天正17年6月5日(1589年7月17日)、摺上原の戦いで恃みにしていた有力家臣の裏切りが相次いだためにみごと惨敗、主君・義広は佐竹家から連れてきた取り巻き集団と一緒に常陸国へと脱走し、蘆名家は事実上滅亡したのであった。主君に見捨てられてしまった盛備ら譜代の家臣団はそんな事とは露知らず、あくまで会津武士の面目を保つために敵中へ突撃を敢行、玉砕して果てたのであった。
黄金時代から滅亡まで、蘆名家を見つめ続けた人生じゃった……」
蘆名四天 について、金上盛備
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しぶしぶ戦う。
松本氏輔(まつもと うじすけ)
生年不詳-天正2年5月13日(1574年6月2日)。
陸奥国大沼郡船岡城主。元は名を氏興(うじおき)と言ったが、親戚一同から「我が松本家は代々名前に『輔』の字を使っているのだから空気嫁よなコノヤロウ」と総スカンを食らったためにしぶしぶ改名、氏輔と名乗るようになった。実際、父親の名前も舜輔(まつもと きよすけ)であるし、子どもにも行輔(まつもと ゆきすけ)と名づけた。これでいいんだろ、これで。
比較的温厚な性格をしていたとされており、武道よりも読書が好きでいつも本に囲まれて暮らすことを夢見て、またそれを周囲に吹聴していたためについに「図書助(ずしょのすけ)」とあだ名されるようになり、また本人もこの名前を大層気に入って雅号として用いていたと言われている。そんな彼だが、決してとしょのすけと呼んではならない。その逆鱗に触れてしまった者がどうなるか、についてはお察し下さい。また、信仰心にも篤く、福島県大沼郡会津美里町に現存している松沢寺(しょうたくじ)が当時荒れ果てていたところを再建したのは彼であるが、その動機は「1、書庫に残されている仏教の古文書や経典を無料で読ませてくれること」と「2、自分の読み終わった書籍類を自由に保管して構わないこと」を条件としたものであり、いわば公共宗教施設であるべき寺院を私物化、いわば自分専用の図書館としたのであった。
その後、敵対する田村清顕との戦いの中で討ち死にしたが、誰も気にしなかった。だって、どうせ後方に隠れて本でも読んでいると思ったからである。
「もっと本を……っ!」
蘆名四天 について、松本図書助
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ユーモア欠落症患者のために、ウィキペディア専門家気取りたちが「佐瀬種常」の項目を執筆しています。
佐瀬種常(させ たねつね)
生年不詳-天正17年6月5日(1589年7月17日)。
佐瀬貞藝(させ さだのり)の子で、十の山を所有していたことから大和守(やまとのかみ、山が十にかけたダジャレ)と自称していたあたり、それなりにユーモアを解すると自分で思っているところがもうどうしようもないセンスである。領内における六斎市(ろくさいいち、チャリティー的コミケのようなもの)の取締りをはじめとした商業・流通政策を担当し、そこそこの成果を上げてはいたのだが、上げた利益のほとんどを趣味である骨董品蒐集のために横領してしまい、それがバレると「安易に腹を切って責任から逃れるより、むしろ戦場で稼いだ手柄をもって償いすることこそ、武士たる身の本懐と心得る」と強引に言い逃れるだけの事はあったのか、槍の腕前だけは天下一品、宣言した通りに戦場でたくさんの大将首を挙げるまではいいのだが、再び公金を横領して同じ言い訳をしてはその場を切り抜ける……の繰り返しであった。ちなみに、彼の脳内レートでは大将=10両、侍大将=5両、足軽頭=1両、足軽=0.2両となっているらしく、自分で横領した以上の金額(彼の勝手な脳内換算による)以上の働きをした日には逆に報奨金までせびろうとする始末であった。
そんな彼であるが、やはり摺上原の戦いにおいては悪運尽きて名誉の戦死を遂げてしまい、自分自身の命によって横領をチャラとしたのであった。
「借金さえなければ、逃げていたんだけどなぁ……」
蘆名四天 について、佐瀬種常
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佐瀬常雄(させ つねかつ)
永禄11年(1568年)-天正17年6月5日(1589年7月17日)。
種常の養子とも言われるが、その詳細は不明である。もっぱら種常の不在を預かるようにして活動していたことから、彼のソックパペットではないかという説が有力だが、もしかすると単なる人数合わせであるとする説も捨て切れない。が、武勇ばかりの骨董バカであった養父のフォロー、サポート、尻拭いのために奔走し、養父ともども戦死するまでにはどうにか2人分の命で借金を支払えるまでに持ちこたえたのは間違いなく彼の努力によるものであることは言うまでもない。父の名に恥じることのない程度の武勇はもっていたが、いかんせん相手が悪すぎた。
「父上、真面目に働いて下さいよぉ……っ!」
蘆名四天 について、佐瀬常雄

忘れられた男たち[編集]

わしを忘れてはいないかね?
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と、ここまで読んで「あれ、確か蘆名四天は宿老と呼ばれた筈……それにしては最後の佐瀬常雄って若すぎではないか?」と感じたそこのあなたはこの記事をとても真面目に読んで下さっている。ありがとうございます。実は、蘆名四天の最後の一人は佐瀬常藤という武将である。

佐瀬常藤(させ つねふじ、生没年不詳)
重要な会議などには何かと顔を出しているようだが、特に目立った発言はない。本人いわく「重鎮と言うのは、そこにいるという特別な存在感こそが大事なのだ」との事であるが、いようがいまいがどうでもいいというのが周囲の本音である。貞藝との関係は不明であるが、おそらく同年代と推測される。種常からすればおじ世代に当たるため、確かに宿老と呼ぶにはふさわしいが、まさに空気でしかない。そして忘れ去られた存在である。

また、どうやら佐瀬種常もメンバーではなかったらしく、独自研究の結果、富田滋実という武将の名前が浮上してきた。

富田滋実(とみた しげざね、生没年不詳)
左近将監(さこんしょうげん)の肩書きを持っていることをほぼ唯一の誇りとしている老臣であり、天正7(1538)年の黒川城下大火事件の記録に名を残しているほか、永禄9(1566)年に伊達氏と交わした和睦の血判起請文にも署名しているが、前述の佐瀬常藤以上に空気であり、その存在感の薄さはどうしようもなかった。

そしてさらに「蘆名の執権」なんて気取っているから間違いなくそのメンバーであろうと確信していた金上盛備も本当は違ったらしく、平田一族の存在が明らかになった。

平田宗範(ひらた むねのり、生没年不詳)
蘆名氏譜代の家柄である(室町時代初期、蘆名氏が新宮氏を攻略した際に武功があった)ことを自慢にしているものの、別に本人が何か功績を立てた訳でもなく、生活に窮した(蘆名盛氏は実力主義を好んで採用したと言われている)ために天文十三(1544)年に自分の知行を渋河源左衛門尉(しぶかわ さえもんのじょう)に売却している。その金を年金代わりとして淋しい余生を送った。
平田実範(ひらた さねのり、生没年不詳)
宗範の嫡男であり、蘆名四天の一人であることを自称していた以外、何の功績も残されていない。すっかりボケていた父親よりもまだ(むしろ辛うじて)勢力を残していた富田滋実を(元服の際に一文字もらって「実範」と改名した程)あてにしており、永禄9(1566)年の起請文には滋実と一緒に署名を連ねているのが唯一残されている記録である。
「あぁ、昔は良かった……。」
蘆名四天 について、一同

こんな連中が蘆名四天のメンバーであっていいのか。そんなのだったら凛々しい若武者の方が萌えはしないか。そんな妄想から歴女の脳内(いわゆる「歴女史観」)において断固たる蘆名四天の入れ替えが行われたのであった。

外部リンク[編集]

よく見てみると、蘆名四天が五人(富田滋実、平田宗範、平田実範、佐瀬常藤、松本氏輔)いる……どうしてこうなった?

関連項目[編集]

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