藤本敦士

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藤本 敦士フジ モン1977年10月4日 - )は2009年まで、熱狂的な黄色い お祭り集団から声援を送られる、おもしろ球団で飼育されていたサルである。ただし、あくまでもサルの一種であって、呼び名から連想されるポケモンとは関係ない。なお、飼育係は金本知憲である。

後述するが、ポップ藤本という呼び名も定着している。
これには、『エレキバン』で知られる医薬品メーカーのピップ・フジモトとのタイアップも考えられたが、向こうの方が遠慮するほど、凡プレーの印象は悪かった。いっそのこと、『ボンカレー』と組めば良かったのに…。

なお、2009年オフからは神宮に居座る、ふにんきのツバメ球団FA移籍した。

プレイする藤本。

来歴[編集]

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黄色い球団時代[編集]

ツンデレのクソジジイに拾われる[編集]

2000年、社会人野球を観戦に来たツンデレのクソジジイがグランド内で面白いものを見つけた。

『サルに、ユニフォーム着せとるやないか・・・』

それにしても、よく動く。吉本興業の舞台に出てくる間寛平のように見えたという。

ちょうど、遊撃手を探しに来ていたジジイ。力強さを売りにするダイナミックで大柄な野手よりも、こまネズミのようにグランドを駆けずり回る小柄な野手を好む条件に、ハマってしまった。

当然のように獲得リストになんて載せてなかった球団に対し、『よう動くんやったら、ヒトでもサルでもエエわ』との鶴の一声によって、この秋のドラフト7位で、おもしろ球団に拾われたのである

サル、脚光を浴びる[編集]

2001年の春季キャンプで、ジジイがF1セブン構想』を立ち上げた為に、その2号車に任命された(なお、1号車は同期入団の赤いチビッコである。)。

開幕1軍こそダメだったが、2号車だけあって4月には昇格抜擢。すると、ジジイによる「サル廻し師」さながらの お囃子に合わせるかのように、安打や好捕を連発。1年目から75試合に出してもらえるほど、ジジイの「サル廻し」はチームに定着した、かに見えた。

ところが、この年のオフに、おうちの事情によって 飼い主のジジイが退団してしまったのである。

2002年では、ジジイに替わる鉄拳を振るう恫喝監督に恐れをなしたのか、前年の成績を下回った。なお、鉄拳監督はシーズンオフになると、球団さえも恫喝して強制拉致活動を展開させている。

2003年は、赤い激貧球団からリモコン要らずの鉄人が拉致られてきた。そこで鉄拳は、前年に扱いきれなかったサルの飼育係を鉄人に押し付けて、知らんぷりを決め込んだ。しかし鉄人だって、サルなんて飼った事が無い。ちなみに前の「サル廻し師」化していたジジイは、得意としていた「ツンデレ」で手懐けていた。

そこで鉄人としては、自身が日課とする肉体鍛錬方法の厳しさ、そのままに、サルと接する事を決めた。すなわち「虐待」である。

普通なら萎縮、もしくは逃亡するところであったが、サルは新しい飼育係に懐き、成績まで好転させた。一瞬であったとは言えリーグ首位打者に昇り詰め、最終的には規定打席到達の3割達成。8番打者ながら、切れ目の無い爆発力を幾度も発揮させる打線の中で機能し、チーム18年ぶりのリーグ優勝に貢献したのである。

優勝を決めた甲子園では、黄色いお祭り集団への感謝を込めた場内1周を終えた後、飼育係によってグランド均しのトンボ代わりにされたサル。きれいなユニフォームを、1匹だけ真っ黒にさせられた。

そんなサルにも「ヒト並みの試練」が訪れる。

次々と台頭する、人間のライバル[編集]

不甲斐ない打撃を続けるサルには、ジジイよりも厳しかった どんでん

監督がどんでんに替わった2004年、一大事が発生した。

前年の活躍もお構いなしで、どんでんのお気に入りである鳥谷敬が遊撃手に定着するというのだ。 当然不安になって、ガラにも無くバットを振り回した為、満塁弾を含む自己最多の5本塁打を記録した。ただし打率は、前年を大きく下回って.257という平凡な数字。どんでんに反論できる材料を確立できなかった。

2005年では諦めて、2塁手として活路を見出そうとする。ここでも新たな刺客、奈良からやって来たタラコくちびるとの競争に晒される。その競争で決着をつけられず、タラコと並存。どんでんによる、相手投手次第という「日和見的な起用」に甘んじた。

2006年はタラコが別ポジションへ一時的に引っ越したんで、サルの出番が増えた。すると気を良くしたのか、ジジイが居た頃のように好捕を連発しだした。お祭り集団からも面白がられ、オールスターに選出されたどころか、MVPにまで輝く珍事に恵まれた。でもこれは、さすがに飼育係からの虐待を受けた。

守備だけなら、この年は一年を通じてわずか3失策と優秀であった。一方で、打撃・走塁面での『凡プレー』も目立っている。

  • 5月28日、所沢でのイケメン・ブサイクを混成する地味な球団戦。
    4-4同点の8表、1死1・3塁という絶好の勝ち越し機で、打者は途中出場のサル。ベンチをガン見してからの初球は、バントの構えからボールを稼ぐ。またベンチを確認してからの2球目は、バスターファール。3球目の前にも、わざわざタイムをとってサイン確認をする。投球は、真ん中の高目くらいの直球系ストライク。見逃し方が『待て』のようにも思えるほどだった。
    ところが、ベンチのどんでんの表情は『何しとんねん、アホ-(怒)!』
    監督の反応にビビッたサルは、次の高目ボール球にアワ食って空振りの三振。ちなみに、次打者の桧山進次郎まで三振。延長戦になっても勝ち越し点の挙げられないチームは、10ウラにサヨナラ負け。
  • 球宴明けの初戦7月25日。2.5ゲーム差で追撃する首位決戦という、ナゴヤでの味噌カツ球団戦。
    先制機という3表の無死1・2塁で、2番打者のサル。立て続けにバントを仕損じ、2ストまで追い込まれたんで強攻。それが1ゴロで3塁封殺、次打者の濱中治も併殺で台無し。直後の3ウラには3失点を許したチームは、以後も追加点をズルズルと奪われ続けた。
    この初戦で気勢を削がれたチームは、終わってみれば3タテを食らって5.5ゲーム差まで蹴り落とされた。なお、2戦目から2番打者にはタラコが起用され、8番打者に降格のサル。流れを相手に与えてしまった失態として、どんでんからは、シーズン終了まで2番打者失格の烙印を押された。
  • 9月13日、原爆ドーム並みのヨレヨレ市民球場での赤い激貧球団戦。
    5-4でリード、なおも2点差突き放しを狙う8表の1死1・3塁の展開で、3塁走者だったサル。打者タラコがスクイズを決めるも、3本間で挟殺された。そう、本塁憤死ならぬ、挟殺である。←どんなスタートをきったんだ?一応、5-4のまま逃げ切り辛勝。

2007年は、前年のリバウンドなのか、それとも天罰なのか。ドン底に陥った。

というより、2004年から打撃成績を落とし続けているサル。
併用相手のタラコが鈍重で大柄なくせに、細々とした小さな打撃スタイルで生き残りを模索している一方で、小柄なサルが大味なスイングをしているというチグハグさ。その差が歴然としてきたのだろう。かつては、2番打者として起用された事もあったが、事ある毎に 送りバントを仕損じるという失態を重ねたのに対し、タラコは33犠打をこの年だけで挙げている。他にも、相変わらず成長の見られない、ポコ~ンという平凡な飛球を揚げ続ける打撃も、マイナスに作用。さすがに見飽きた お祭り集団から頂いた「ポップ・サル」という、有り難くもない呼び名も定着した。

なおチームは終盤に向けて、地の底から這い上がる奇跡的快進撃を見せたものの、電池切れで失速。優勝を獲り逃がした。そんなチームの頑張りに、打撃で貢献する事は無かった。

崖っぷち[編集]

2008年、とうとう1軍すら危うくなった。第3の刺客、小さなヘッスラ・ファイターの移籍加入である。

同じ、小さな左打者でいて、俊敏な動きで2・遊のどちらでも守れる。ところがサルと違って、外野も出来る。サルの打撃が好転しないのであれば、勝ち目はゼロ。この年は、守備固めに甘んじた。[1]

プロ9年目を迎えた2009年には第4の刺客として、宇宙戦艦とは似ても似つかぬ、イカダちゃうんかと言いたくなる野球選手が1軍に抜擢されだした。とは言え、いくらサルでも打撃でなら、まだ勝ててた。その証拠に、なんちゃって宇宙戦艦なんかはヒヨッ子だったので、5月くらいまではサルみたいなウッカリ者にもスタメン2塁の機会を幾度も与えられていたのである。

ところが、その5月からのチーム戦績が全く冴えない。

低調なチームを1人で支えていた飼育係の爆発的打棒が3・5番の復調を待たずして突然、沈黙したのである。確かに飼育係1人のせいだけではないのだが、明かりが消えたかのように打線全体が貧打に蝕まれ始めたのは事実である。投手陣の粘投を見殺して、徐々に黒星を重ね始めたチームの窮状を見かねた球団は、慌てて新外人獲得に動いた。それが、前年にイケメン・ブサイク混成チームで27本塁打を記録したアラバマの大砲の加入である。
しかし、この新戦力の加入が、桧山のような強運に恵まれぬサルの命運を、大きく暗転させるのである。

ヒザの悪いアラバマ砲の使い道が1塁に限定された為、それまでの1塁だったタラコが2塁に弾き飛ばされて来たのだ。おかげでヘッスラ・タラコ・なんちゃって戦艦、そしてサル。3人と1匹で2塁の守備位置を奪い直す、ガチンコ・バトルロイヤルが始まった。ところが『多少の拙守よりも不活性打線のテコ入れを優先する』というチーム事情によって、サルのアドバンテージは霧散する。不戦敗同然で、ヘッスラとタラコに2塁のスタメンを易々と奪われてしまったのだ。その後は、赤いチビ友達の代役としてヘッスラが外野に回るケースがあっても、内野に居残るタラコの牙城を崩すだけの打撃レベル向上なんて、達せられなかったのである。

結局、守備固めに甘んじたサル。しかし、ただでさえ左打者偏重の著しい1軍野手の中では、右打者のなんちゃって戦艦の方が希少価値は高かった。その為、とうとうサルの方が1軍を外されるケースが増えだした。9月4日付けでこの年3度目の1軍登録抹消されると、そのまま2軍でシーズン終了。『しょーもないプレーオフ』への出場に無謀な望みをかけるチームには、クソの役にも立てませんでした。

決断[編集]

なお、この2009年のオフ。『サル、FAか?』なんて一部報道でようやく、権利を有していた事に気付いた。どうせ「ネコに小判」な権利だが、11月9日の時点では「近日中に公表」としか言えなかった。どうしようかな~なんて、知恵が足らないせいで考えをまとめられなかったようである。

そして同月15日、自身のブログでFA権行使を公表した。ちょうど、この2・3日前の『神宮のツバメ、サルの獲得に前向き』なんて報道を、おそらく真に受けたのだろう。翌16日には正式な申請手続きに移行、『人生最大の決断』なんて銘打たれた権利行使だったが、すでに猛虎プラウダからは『虎と惜別』なんて報じられていた。

でも、どうせ「残ってほしい」なんて言う黄色い球団に残留したところで、凡ミスの撲滅程度では無理。劇的な打撃レベルの向上でもない限り、出場機会には恵まれないのである。

他球団との交渉解禁となった19日から、ホントにツバメ球団が交渉の場を設けてきた事に安心した。実は、「ゴメン、あれウソね。やっぱ要らんわ」という「飼育係が他球団に手を回してまで仕込んだ、壮大なドッキリ」ではないのかと疑って、内心ビビッていたのである。

そこで「2年契約・遊撃起用・背番号10」など具体的な歓待内容を提示されて、前のめりになった。だが、それ以上に「宮本と一緒に、ツバメ内野陣の足を引っ張ってもらいたい」という、殺し文句に悩殺された[2]。これでイチコロ。同月24日、ツバメ編成部の伊東昭光次長の携帯に自ら連絡、移籍を申し入れた。

ツバメ球団時代[編集]

11月24日の同夜にはツバメ球団から、『正式契約を残しつつも移籍の決定』を公表された。この朗報を聞いた高田監督からも「レギュラーが決まっているわけじゃないけど、層が厚くなるのはイイこと」と歓迎されている。でも、この発言って、てっきりレギュラーだと思い込んでいるサルには、ちょっとしたドッキリである。

1年目・2010年[編集]

キャンプ・インを迎えた2月には、あらためて衝撃を受けた。赤い特急列車も居なけりゃ、鬼畜飼育員も居ない。そりゃ違うチームに来たんだから仕方ないとは言え、2004年に代表選出されたアテネオリンピックで会話した事のある宮本以外、周りは知らない人だらけ。しかも印象の薄い監督なんて、いったい何処に居るのか、誰なのか、すら判らない。だが、何よりツバメ・キャンプには報道陣が居ないのだ。誰にも見てもらえないキャンプなんて黄色い球団時代には、ありえない事態である。せっかく1軍で使ってもらえるチームに移籍したというのに、コレって2軍に居るのかな?と、不安になってきた。

なんだかんだで開幕から1軍でスタートするものの、開幕スタメンは大卒1年目のルーキーに奪われた。が、FAの効力もありその後は基本スタメンで使ってもらえてホッとしているところであろう。しかし、日が経つにつれ徐々に本性を現し、ある時は退場処分は喰らうし、またあるときは自動アウト装置になるわで、見事にツバメファンの不安のみを見事に的中させた。

更に追い討ちをかけたのが印象の薄すぎた監督V9戦士(左)の辞任である。これまた知名度の低い代行監督になってからは名も知らぬ遊撃手のスタメン起用が先行し、自分の見せ場である守備機会をもらえない。そこで足りない知恵を絞って考えに考えた彼は、暴挙に出る。

露骨なアピール[編集]

シーズンも山場を迎えてくる7月。まず3日の秋田遠征2戦目、序盤から点を奪い合う4表の2死2塁での守備機会で遊ゴロを送球失策し、5-5の同点を演出。しかし、お叱りを受けたのは先発投手泣き虫(プロ入り初のタイムリー打ったのにね)。冴えない投球で味方の援護に応えられぬだけでなく失策まで招いた泣き虫の降板のみで、この時点でのサルはお咎め無しだった。ところが6表の無死1・2塁のピンチでまたも失策、無死満塁を招く露骨なアピールである。ここから2三振を奪った救援陣が力尽きて2点適時打を許したチームは結局、5-8で敗戦。失点を誘発した1試合2失策で存在を示そうとした。

これに味を占めたのか、

  • 中学生でも処理できる打球を後逸
  • ファーストが捕りに行けない様な送球
  • 更には落球

思いつく限りの失策オンパレードを披露する。そして同月16日の古巣との対戦。ケガで遠ざかっていた飼育係のスタメン復帰戦とあって、初回から一匹だけで勝手に盛り上がってしまった。ここでも、2イニングで3失策という猛烈なアピールである。「これでスタメン確実や!」なんて思っていたのも束の間、鬼の形相をした代行監督に自身の1打席目終了後(ちなみにこの時の打率は.232のハイアベレージ)に守備交代を告げられ、更に無言で肩を二度叩かれ、その後ベンチでガクガクブルブルしていた。

結局この日、これだけやっても敗戦を免れたチームだったが、その中で周りから“気にすんな”的な慰められ方をしていたサル。さすがに「明日からガンバロウ」という気持ちには、成っていたことだろう。

しかし、代行監督は決断する。翌17日付けで1軍登録抹消である。“サルなんだから大目にみよう”との温情決断で済ますつもりが“そういや、反省ザルの次郎くんだって反省するもんなぁ‥”と考えを改めたようである。←だってチーム断トツトップの失策数ですもの。

移籍しても正念場[編集]

あれだけ積極的に誘ってもらいながら、凡プレーの連発で自らの首を絞めたサル。2011年シーズンは、持病の腰痛対策として手術に踏み切ったこともあり、大幅に出遅れた。

川島慶三の出遅れが救いとはいえ、同じ左打者の川端・鬼崎よりも起用序列は下。しかも森岡の下にまでランクを落としている。2年契約満了時点で成績を残せなけりゃ、即解雇の恐れが出てきた。しかも、同じ関西から流れてきた濱中治が開幕一軍とあって、益々不安になった。すると、あれだけ鬼だと思ってた小川さん。代行から正規監督に昇格されるとサルにも温情采配、6月から1軍起用してくれたが、打てない(1軍合流直後5試合で12打数1安打)。人材不足の横浜ですら、使ってもらえん水準のようだが、我慢強い小川さん。

ところが、7月20日に昨年の2イニング3失策には及ばないものの、1試合2失策をやらかしてその後二軍落ち。 まったく懲りない猿である。

2012年はとうとうファーストへコンバートされるもインフィールドフライを落球するなどエラー連発でまた二軍落ち。 ついに守れるポジションが無くなってしまった。

傾向[編集]

  • 普段から『泣き顔』に見られるせいか、イジられキャラが定着していた。鉄人による虐待は、その最たる例である。
  • その鉄人による日々の虐待に対し、報復の機会を窺い続けている。もっとも、相手は飼育係。公には許される筈も無い。ところが、鉄人がサヨナラ殊勲打を放つとなれば、話は別である。
    持ち前の俊敏さをココぞとばかりに発揮。安打と同時に誰よりも早くベンチを飛び出して飼育係に駆け寄ると、ヘルメットの上からパッカン、パッカン殴りつける事で仕返しを果たしている[3]

脚注[編集]

  1. ^ このシーズンの打撃貢献には、6月1日における札幌での北の国から球団戦の1打がある。1塁に赤いチビ友達を置いた延長戦で、完全に なめきってた外野前進守備の頭上を越す、決勝3塁打を放ったものである。ただし貢献と言っても、おそらく この1本のみでしかない。
  2. ^ どうやら、小文字の部分は聞き取れなかったようである。
  3. ^ さすがに飼育係の鉄人も、仲間に取り囲まれる中であっても冷静に状況を把握しており、「お前かぁーーーっ!!」と言わんばかりの勢いでサルを捕捉。10倍返しで主従関係を再認識させている。

外部リンク[編集]

関連項目[編集]

  • 桧山進次郎 - チームでの、崖っぷち選手としての先輩。
  • 吉村裕基 - サルとは個人的つながりは無いが、サル系の野球選手と知られる。こちらはモンチッチである。 


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